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SNS監視網  作者: 黒瀬智哉
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第九話 楽園の記憶、宿命の啓示

 不思議な(その)静寂(せいじゃく)を切り裂くように、神崎の叫びが木々の間を震わせた。


結衣(ゆい)ー! どこに行ったー!」


 先ほどまで隣にいたはずの結衣が、まるで霧が晴れるように忽然(こつぜん)と姿を消したのだ。


 焦燥(しょうそう)(にじ)ませ、神崎は周囲をぐるりと見回した。見慣れない植物が生い茂り、異質な花々が妖しい光を放つ園内。そこには、彼女の面影はどこにもなかった。


 不安が胸を締め付ける中、神崎は結衣が消えた場所に佇む謎の人物に警戒を露わにし、向き直った。鋭い眼光が相手を射抜く。


「貴様は何者だ! 結衣に何をやった!!」


 神崎の怒りに呼応するかのように、園の空気がわずかに震えた。


 その問いかけに応じるように、謎の人物はゆっくりと、しかし確かにその姿を変え始めた。ぼやけていた輪郭が鮮明になり、(あら)わになったのは、絹糸(きぬいと)のような金色の髪と、彫刻のように整った端正な顔立ち青い眼を持つ若い青年だった。


 その瞳には、どこか懐かしさと寂しさが入り混じったような深淵(しんえん)な光が宿っている。


「私の名は、アダム…。」


 静謐(せいひつ)な声が、(えん)の静けさの中に低く響いた。その名を聞いた瞬間、神崎の顔に驚愕(きょうがく)の色が鮮やかに広がった。


「アダム…って、あの…?」


「それに、お前はあの時の…。」


 それは、数日前、女子高生失踪事件の真相を追う中での出来事だった――。


 結衣が運転するランボルギーニを、高性能AIクロノスが自動操縦し、二人は彼女たちが囚われているという東京湾沿岸の廃倉庫へと急いでいた。その道中、運転席の結衣がスマホの画面を見せながら作戦を説明している最中――その時、神崎の脳裏に、まるで幻のような白い空間が舞い込んだ。


 高速で流れる様々な映像の中、ひときわ目を引く金色の髪を持つ青年の姿があった。


 あまりにも鮮烈(せんれつ)で、瞬きの間の出来事だったにもかかわらず、その映像は神崎の記憶に深く刻まれていた。


 今、目の前に現れたアダムと名乗る青年は、あの時、突如として脳裏に現れた幻影と、信じられないほど鮮やかに重なり合った――。


 アダムとは、旧約聖書に記された人類最初の男。


 神の手によって創造され、楽園エデンの園で最初の女イブと共に暮らしたとされる神話の中の原初の人間だ。彼の名は、ヘブライ語で「土」や「赤い」を意味するとも伝えられている。


 目の前に立つ青年が、悠久(ゆうきゅう)の時を超えて存在し続ける神話的存在そのものだとしたら、一体何が起こっているというのか。


 神崎の思考は混乱し、言葉を失っていた。


「あなたの恋人、結衣は無事です。時期に、必ずここに戻ってきます。」


 アダムは、神崎の狼狽(ろうばい)を気にも留めず、穏やかな口調で告げた。その声音には、確信にも似た静かな力が宿っている。


「なぜ、結衣を狙うのですか。」


 神崎は、未だ拭いきれない警戒心を抱きながら、アダムと名乗る青年を問い詰めた。


 彼の言葉の真意を測りかね、神崎は喉の(かわ)きを覚えた。


「結衣は、私の妻、イブが転生した姿なのです。」


 アダムの口から語られた言葉は、神崎の想像を遥かに超えるものだった。


「そしてあなたは、我々の息子、アベルの生まれ変わりです。」


 その言葉に、神崎はさらに深く眉をひそめた。


「アベル…?」


 聞き覚えのある名ではあったが、それが一体何を意味するのか、今の彼には全く理解できなかった。


「その昔、我々はイブと共に、一つの大きな過ちを犯してしまいました。その後、神の審判により、我々はイブと共に、この楽園を追放されたのです――。」


 アダムの瞳は、遠い過去を回想しているかのように、わずかに(うる)んでいた。(えん)を吹き抜ける(かす)かな風が、彼の金色の髪を優しく揺らした。


「その後、地上に降り立ち、イブと共に静かに時を重ねる中で、二つの異なる心の形が生まれました。」


「一つは、内に激しい炎を抱え、自身の願いのため、時には道を誤ってしまう、そんな性を持つカイン。その眼差しには、どこか焦燥(しょうそう)の色が宿り、その手は、求めることを強く願っていました。」


「そしてもう一つは、静かな水面のように、周りを穏やかに包み込み、他を思いやる優しい心を持つアベル。彼の魂は清らかで、争いを好まず、分かち合うことに喜びを感じていました。」


「あなたの瞳に宿る温かい光は、きっとアベルの魂の穏やかさを受け継いでいるのでしょう。」


「ですが、心に留めておいてください。光がある場所には、影もまた存在するのです。アベルの対となる場所に、カインの、深く沈んだ情念が、時を超えて再び現れる可能性も、決して否定できないのです…。」


 アダムの言葉は、神崎の胸に重く響いた。結衣がイブの転生した姿であり、自分がアベルの生まれ変わりであるとは、一体どういうことなのか。目の前の信じがたい事実に、神崎は言葉を失い、ただただ立ち尽くすしかなかった。


 だが、彼はあの時のことを思い返していた――。


 それは国際的テロ組織のアジトに乗り込む前、結衣のタワーマンションの一室で彼女は彼に右手を差し出した。あの時、彼の身に確かに暖かい光りが舞い降り勇気が宿った。


 それは、母イブが、息子アベルに勇気を与えた瞬間だった。




 ――見知らぬ部屋のベッドで目覚めた結衣だったが、次第に辺りが暗くなり、完全に闇に包まれる。


 そして結衣は、自身が意識だけの存在になったことに気づいた。手や足を動かそうにも、身体そのものがない――。


(これって…意識だけの存在ってこと?)


 結衣は不思議な感覚に包まれ、光がまったくない闇の中にただ浮かんで漂っていた。


 永遠にも続くかのような、底なしの漆黒(しっこく)の闇の中、結衣は、ただ意識の塊として(ただよ)っていた。肉体はなく、触れるものも、見るものもない。あらゆる音も吸い込むような孤独と静寂(せいじゃく)が、彼女の全てだった。


 その絶対的な暗闇に、突如、微かな光が灯った。


 それは、遠くの、針の先ほどの小さな光だったが、結衣の意識を強く惹きつけた。まるで、長い夢の終わりに現れた希望の光のように。


(え……? 何か光が見える……?)


 光は徐々にその輝きを増し、闇を鈍い音を立てて押し広げていく。


 光と闇の境界線が生まれ、世界は二分された。それは、混沌(こんとん)とした無から秩序(ちつじょ)が生まれる、最初の瞬間だった。


 やがて、光はさらに広がり、頭上にはどこまでも続く青い透明な大空が現れた。足元には何もなかったが、結衣は確かにその空間の広がりを、肌に感じるような感覚で捉えていた。


(空? こんなところに……一体何が始まるの?)


 静寂(せいじゃく)を破るように、天地を揺るがすような轟音(ごうおん)が響いた。


 大空の下に、巨大な水の塊が、(うな)るようなうねりを上げ、奔流(ほんりゅう)となって広がっていく。


 それはやがて、どこまでも続く青い海となった。そして、海の底から、熱気を帯びた隆起が起こり、固い塊が現れ、広大な大地へと姿を変えていった。


(海と大地……? まるで、創世記みたい……!)


 空間全体がゆっくりと、しかし確実に収縮していくような感覚があった。広がり続けていた世界が、一つの美しい青い球体へと、目に見えない強大な力で凝縮していく。


 それは、静かに輝き始めた星、地球の誕生だった。


 同時に、その球体を取り囲むように、無数の光点が、瞬きを始めるように現れた。


 遠く瞬く星々、そして、銀色の優しい光を放つ月。宇宙が、この瞬間に生まれたのだと、結衣は意識の中で理解した。その壮大な光景に、結衣は息をのむ。


 大地は緑に覆われ、雨上がりの新緑のように様々な形の植物が芽吹き、天に向かって成長していった。


 そして、大地を駆け巡る、翼を広げ大空を舞う、海を優雅に泳ぐ、多様な動物たちが、それぞれの特徴的な姿を現した。


 世界は、生命の力強い息吹に満ち溢れていった。その多様な生命の輝きに、結衣は深い感動を覚えた。


 その生命の息吹を感じる大地に、一つの光が、天から絹糸(けんし)のように降り立った。


 それは、先ほど世界を創造した光そのものだった。


 光はゆっくりと、まるで水が形を変えるように形を取り始める。巨大でもなく、威圧的でもない。しかし、その存在感は、静かに燃える炎のように圧倒的だった。


(あの光が……降りてきた? 一体何をするつもりなんだろう……)


 光が収束し、そこに現れたのは、二足歩行の、人にも似た姿だった。


 全身は柔らかな、内側から発光するような光を帯び、その輪郭はどこか曖昧で、見る者の心の状態を映し出す鏡のように、はっきりしない顔立ちを持つわけではなかった。


 しかし、その存在からは、春の陽だまりのような温かさと、深淵(しんえん)(のぞ)くような深い知性が感じられた。


(人? あれは……人が生まれる瞬間なの?)


 その光の存在は、地面に(ひざ)をつき、(かたわ)らに積もった土の、温かく湿った(ちり)に手を伸ばした。


 指先から、金色の(かす)かな光が、まるで意思を持つかのように流れ出し、(ちり)はゆっくりと形を変え始める。まるで熟練した彫刻家のように、光の存在は丁寧に、しかし(よど)みない動きで、人型を形作っていく。


 骨格が、筋肉が、そして滑らかな皮膚が、魔法のように土の(ちり)から生み出されていく。


(土から……人が(つく)られていくの……?)


 やがて、一体の完全な人型の肉体が、そこに横たわった。


 それは、朝露(あさつゆ)に濡れた花びらのような無垢(むく)で清らかな瞳をした、全裸の男性だった。光の存在は、その人型にそっと触れる。


 すると、静かにその胸が膨らみ、温かい生命の息吹が吹き込まれた。


 ゆっくりと、その男性は目を開けた。


 まだ生まれたばかりの清らかな瞳が、目の前に立つ光り輝く存在を(とら)えている。驚きと、神聖なものに対する畏敬(いけい)の念が、その表情に浮かんだ。


 その瞳の奥には、まだ何の色にも染まっていない、純粋な魂が宿っているようだった。


(あの瞳……なんて清らかなんだろう……!)


 光の存在は、穏やかだが、大地を揺るがすような深く響く声で言った。


「やあ、お目覚めかい? アダム。」


「ア…ダ…ム…?」


「そうだよ、君の名はアダムだ。」


「僕はアダム…。」


 すると彼の(そば)によってきた鹿(しか)が、湿った鼻先を彼の顔に押し付け、優しく(ほほ)を舐める。


「あは、くすぐったいよ」もう一頭の鹿(しか)がやってきて、彼の(ほほ)を舐める。「あはは…」アダムは二頭の鹿に、生まれたばかりの太陽のような笑顔を振りまいた。


 その無邪気な笑顔に、結衣の心も温かくなった。


(あれは…アダム? 旧約聖書に出てくる…あの?)


 すると結衣の意識は遠のき、辺りは静寂(せいじゃく)に包まれた夜になった。


 全裸のアダムが、星空の下、仰向けになって深い眠りについているのを、結衣の意識はまるで大きな瞳のように空から見下ろしていた。


 そんな彼の(かたわ)らに、光だけの人型の存在が、音もなく空から静かに降り立ち、彼の寝顔を(いつく)しむように見ながら(ひざ)をつく。


(何をする気なの…?)


 するとその光の人型はゆっくりとアダムの身体に手を触れると、彼の体内から、まるで熟れた果実を摘むように静かに肋骨(ろっこつ)が抜き取られていった。


 抜き取られた箇所は、瞬く間に彼の肉体によって(ふさ)がれていく。


 光の人型はアダムから取り出した肋骨(ろっこつ)を、まるで芸術作品を組み立てるように人型に並べると、その上から温かく、生命力に満ちた優しい光を降り注ぐ。


 すると、息をのむほど滑らかな皮膚が生成され、みるみる全裸の女性の姿になっていった。その姿は、月明かりに照らされた百合の花のように美しかった。


(あれって……)


 そこから結衣の意識は遠のき、辺りは希望に満ちた明るい昼になった。


 全裸のまま芝生の上に座るアダムの傍らに、全裸の女性は戸惑ったように座り、ゆっくりと彼に笑顔を向けている。


「君は…?」


 全裸の女性は大きな瞳を瞬かせ、口をパクパクするが、まるで生まれたばかりの雛鳥(ひなどり)のように何も言葉を発しない。


「君は言葉を話せないのかい?」


 なおも全裸の女性は、懸命に何かを伝えようとするように口をパクパクするだけだった。


「そうか、君には名前がないんだね? じゃあ僕が君の名前を付けてあげるよ。」


 アダムはふと空を見上げて、どこまでも広がる青い空に視線を遠くにやる。白い雲がゆっくりと流れ、柔らかな風が彼の髪を撫でた。


「イブ…。そうだ、君の名前はイブだ。」


 そう言って、アダムは優しさに満ちた笑顔を全裸の女性に向けた。


 その瞬間、彼女は驚きと喜びで大きく目を見開いた。


「イ…ブ…?」


「そう。君の名前はイブだよ。」


 彼女は自分の名前を何度も呼び、まるで宝物のように(いと)おしむように微笑んだ。


 周囲には、色とりどりの野生の花々が甘い蜜の香りを微かに(ただよ)わせ、天に向かって伸びる力強い木々の葉は、昇る朝日を浴びてきらきらと宝石のように輝いていた。


 その楽園の息をのむほど美しい光景を空から見下ろしていた結衣の意識はさらに遠のいていく。まるで、温かい光に包まれて眠りに落ちるように。


 気が付くとアダムとイブは、足元に朝露(あさつゆ)に濡れた柔らかな緑の絨毯(じゅうたん)が広がり、頭上では様々な種類の鳥たちが、喜びを歌い上げるように楽しげに歌う美しい園で、無邪気にはしゃぎまわって遊んでいた。


「アダム、見て!あの鳥の羽、なんて空の色をそのまま写したような鮮やかな青色をしているの!」


 イブは楽しそうに飛び立つ青い鳥を指さし、好奇心と喜びで目を輝かせた。


「ああ、本当だ。まるで空から舞い降りたかけらみたいだね、イブ。」


 アダムは彼女の言葉に愛情深く微笑んだ。


 しばらくその光景を意識だけの結衣が空から静かに眺めていたが、徐々に彼女の意識はイブの身体に抗えない力で吸い込まれていく。


(え……?)


 そして結衣の意識はイブと一体化した。


イブの身体は自分の身体のような感覚はあるが、結衣の意識では言葉を発することも身体を動かすことも出来ない。


 イブの身体は彼女が動かし、イブの言葉も彼女が勝手に発する。


 結衣(ゆい)はただそれを見ているだけの意識となった。まるで、操り人形の糸が切れて、ただ見ているだけの観客になったように。


「アダムったら面白い人ね…ふふ。」


「そうだろう?面白いだろう?イブ、それでさー、この間見つけたんだけどさー。」


 そんな二人の元に光だけの人型の存在がやってきた。


 その周囲だけ、神々しいまでの神聖な光がより一層強く輝いていた。その光は、まるで楽園の中心から()き出る泉のように、清らかで力強かった。


「アダムとイブよ。君たちに話しておかなければいけないことがある。」


「なんですか?」


 イブは木漏れ日がレースのように彼女の白い肌を優しく照らす中、穏やかで、どこか幼い声で尋ねた。


 アダムはイブの横に立ち、少し緊張した面持ちでその(まぶし)い光の存在を見つめていた。


「あの木に実が成ってるだろう。ひときわ赤く熟し、甘美で濃厚な香りを漂わせているあの実には触れたり食べたりしてはいけません。」


「どうしてなんですか?」


 屈託(くったく)のない顔でイブは、足元の小さな白い小花を指先でそっと()でながら無邪気に聞く。アダムも不安そうに首を傾げた。


「そんなに美味しそうなのに、どうして?」


「あの実には猛烈な毒が入っていて一口食べるだけで死んでしまうのです。」


「死ってなんですか?」


 アダムは真剣な眼差しで光の人型を見つめて尋ねた。彼の瞳には、園の緑豊かな景色が映り込んでいた。


「そうだね。君たちに死はない存在だが、身体が石のように動かせなくなったり、鳥の鳴き声のように言葉を発せなくなることが死です。」


「ふーん。」


 アダムは理解したのかしてないかわからない反応でそう答えた。


 そこから結衣の意識は遠のき、気が付くとイブは一人でキレイな小川のほとりで、陽光(ようこう)が水面で細かく跳ね、きらめく宝石のように輝く川のせせらぎに耳を澄ませて楽しんでいた。


 そこへ一匹の(へび)が、草むらを静かに這いずりながらやってきて、イブに話しかけた。


 その(うろこ)は、陽の光を受けて妖しく光っていた。


「イブ、あの実は毒などではない。一口かじれば(ほほ)が落ちそうなほど、それはそれはこの世の物とは言えない美味しい果実なのじゃ。」


「奴はそれを独り占めするために二人に食べさせないようにしているだけじゃ。」


 蛇は裂けた赤い舌をシュルシュルと鳴らしながら話した。その目は、イブの好奇心を試すように、じっと見つめていた。


「そうなんですか?」


 イブは蛇の言葉に、禁断の甘美さを秘めたような赤い実に興味を持ったようだった。


 イブはアダムのところに行き、木々の間を抜ける風が、彼女の髪を優しく揺らす中、彼に相談した。


「ねえ。アダム。あの果実、本当は毒など入ってないんですって。」


「へー、そうなんだ。」


「アダム。食べてみましょうよ。」


 アダムは少し躊躇した。


「えー、でも、あの光の人が、とても怖い顔で食べちゃいけないって言われたじゃないか。」


「あら、アダムったら臆病ね。少しぐらいならわかりはしないわよ。ね?二人だけの秘密よ。こっそり食べてみましょうよ。」


 イブはアダムの腕に手を絡ませ、甘えるように言った。


 アダムはイブに誘われるがままに、他の木々とは異なる、どこか妖しい雰囲気を漂わせる不思議な実がなる木にやってきた。


 その木は、他の木よりも少しだけ暗い影を落としていた。


「イブ、届くか?」


 アダムはイブを肩車して、彼女の小さな足が自分の肩に触れるのを感じながら、不思議な木の元で、実をもぎとろうとしていた。


 イブはつるりとした赤い果実に手を伸ばしている。ようやくイブの手は果実に届き、それをもぎとって一口かじってみた。


 甘く濃厚な香りが鼻腔(びこう)をくすぐり、口にした瞬間、想像をはるかに超える甘美な味わいが彼女の舌を痺れさせた。


「まあ!なんて美味しいんでしょう!」


 あまりの美味しさにイブは(ほほ)が落ちそうになる。口の中に広がる甘美な味わいに、彼女の瞳は大きく見開かれた。


「おい、僕にもおくれよ。」


 アダムは待ちきれないように手を伸ばした。


 イブはアダムに不思議な果実を手渡すと、そのままアダムは一口かじった。


 口にした瞬間、蜜のようにとろける果肉が舌の上で甘美な奔流(ほんりゅう)となり、鼻腔(びこう)には()れた花の香りが広がった。


「本当だ!なんて美味しいんだ!」


 アダムはイブを肩車から降ろした。


「よし。もっと食べよう。」


 そう言うと、アダムは待ちきれないように木の幹を揺さぶった。どさどさと音を立てて、赤く熟した果実が雨のように地面に落ちる。


 イブも一緒になって木を揺らし、落ちてきた実を夢中で拾い上げた。二人は滴る果汁も気にせず、むしゃむしゃと(むさぼ)るように食べ続けた。


 甘美な味わいが喉を通り過ぎるたび、微かな陶酔感(とうすいかん)が全身を包んだ。


 お腹いっぱいになった二人は、温かい陽光が降り注ぐ芝生の上に、満足げに寝転がった。草の優しい香りが鼻をくすぐり、遠くでは鳥たちが楽しげに歌っている。


 しかし、満腹感と共に、これまで感じたことのない、ほんの(わず)かな倦怠感(けんたいかん)が二人の間に(ただよ)い始めた。


「ふう。もうお腹いっぱいだな。」


 アダムは膝枕(ひざまくら)のイブの顔を見上げながら口にした。


 その瞳には、先ほどまでの無邪気さに加え、微かな疑問の色が宿っている。


「そうね。毒なんて入ってなかったね。」


 イブは優しい顔をアダムに向けたが、その視線はどこか遠くを見つめているようだった。


 アダムも笑顔を返したが、彼女のわずかな沈黙に、小さな引っかかりを感じていた。


「しかし、イブ。何で光の人は食べちゃいけないって言ったんだろうな?」


「………。」


 イブは空を見上げたまま、何も返事を返さない。


 周囲の楽園を包む光は、先ほどまでよりもほんの少しだけ、その輝きを失ったように感じられた。


「イブ?」


 アダムが声をかけると、イブはゆっくりと顔を彼に向けた。


 その(ほほ)は、確かに青ざめていた。


 アダムは息をのんだ。何が起こったのか、理解できなかった。


 ゆっくりと起き上がったアダムを見上げるイブの瞳には、これまで見たことのない、驚きと戸惑いが入り混じった光が宿っていた。


「アダム……あなたは、なぜ…そんな恰好(かっこう)をしてるの…?」


 イブは震える声でそう話すと、ゆっくりと立ち上がった。


 その白い肌に、木漏れ日がまだ優しく降り注いでいるにもかかわらず、アダムには彼女の肌が、どこか冷たく、まるで磨かれた石像のように感じられた。


「だって僕たちずっと……え?」


 アダムは全裸のイブの姿を見て、言葉が詰まった。


 それまで何度も見てきたはずの裸体が、今日は妙に意識される。


 身体の底から、これまで感じたことのない熱いものが湧き上がり、彼の視線は釘付けになった。


 まるで意志を持つかのようにそそり立つそれは、彼の意志とは無関係に、ムクムクと大きくなっていく。


 イブはそれを凝視しながら、心臓が早鐘のように打ち始めた。周囲の鳥たちの楽しげだったさえずりも、どこか落ち着きを失ったように、焦燥感(しょうそうかん)を帯びた音色に聞こえる。


「それって……。」


 イブは静かに(ひざ)を下ろし、アダムの大きくなったそれに、ためらうような、それでいて(あらが)えない好奇心に導かれるように顔を近づけた。


 彼女の温かい吐息が肌にかかるのを感じ、アダムの全身に微かな震えが走る。


 イブの白い指先が、彼のそれに触れた瞬間、アダムは息を詰めた。


 これまで感じたことのない、電流が走るような不思議な感覚が彼の背筋を駆け上がった。


 イブにとって、アダムの裸はこれまで見慣れた風景の一部だった。


 しかし、彼の股間に突如として現れた異質な隆起(りゅうき)は、彼女の目を釘付けにした。


 それは、生命力そのものが凝縮されたかのように脈打ち、熱を帯びている。


 好奇心に抗えず、彼女はためらいがちに手を伸ばし、その熱源をそっと包み込んだ。


「まあ、なんて固いの…?」


 イブの小さな手のひらに伝わる、硬質な感触とじんわりとした熱。


 それは、楽園の柔らかな草や、温かい陽の光とは全く異なる、力強い存在感を示していた。


 同時に、彼女の胸の奥には、これまで感じたことのない、甘く、そしてどこか切ないような不思議な感覚が湧き上がってきた。


 それは、まだ名を知らない感情のきざしだった。


「な、なんだこれは?」


 アダムもまた、自身の身体の変化に戸惑いを隠せない。見慣れない熱と(たか)ぶりに突き動かされ、彼は恐る恐るイブの胸元に手を伸ばした。


 彼女の柔らかな(ふく)らみに指先が触れた瞬間、イブの口から甘い吐息が漏れた。


 アダムの手のひらに吸い付くような、優しい弾力。


 その微かな感触が、彼の全身にこれまで経験したことのないうねりとなって広がり、彼は思わず指先に力を込めた。


 その瞬間、イブの全身に、電流が走ったような衝撃が走った。


 これまで平穏だった心臓が早鐘のように打ち始め、得体の知れない熱が体の奥底から湧き上がってくる。


 彼女は反射的にアダムの手を振りほどき、両手で自分の胸を庇った。


 それは、初めて感じる羞恥(しゅうち)という感情の表れだった。


 イブは、これまで経験したことのない熱いうねりが、胸の奥から込み上げてくるのを感じた。


 それは、先ほどまで無邪気に笑い合っていた自分自身が、突然見知らぬ存在になったような、落ち着かない感覚だった。


 彼女は、熱を持つ両手で自分の身を(おお)った。


 アダムもまた、同じように下半身を隠した。


 二人の間には、言葉にならない重い沈黙が立ち込めた。


「なんだか変な感覚ね…。」


 イブの声は、微かに震えている。


「ああ、そうだな。」


 アダムは足元に生えていた大きなイチジクの、まるでビロードのような質感の葉をもぎ取ると、慣れた手つきで植物のしなやかなつるを加工し始めた。


 イブは戸惑いながらも、彼が作った葉の(ころも)を受け取り、自分の胸と股間を覆った。


 アダムもまた、同じようにして股間を隠した。


 二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。


 先ほどまであんなにも鮮やかだった周囲の花々の色も、どこか(あせ)せてしまったように、モノクロームの絵画のように見えた。


「これで少しは楽になったな。」


 アダムの声には、安堵(あんど)の色が混じっていた。


「え、ええ…。」


 イブはまだ(ほほ)を赤らめていた。周囲の楽園の色彩も、先ほどまでの鮮やかさを失い、どこか(かげ)りを帯び始めたように、薄い灰色に(おお)われたように見えた。



第九話 完


第十話に続く

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