第八話 エデンの残影
後日、神崎は結衣の指示で、彼女が住むタワーマンションに引っ越しの作業をしていた。
彼女は彼に一室を貸し与え、神崎は引っ越し業者に特急便を手配し、その部屋に荷物を運び入れた。神崎が運び込まれた段ボール箱を開け、荷物を配置していくと、ベッドの上ではAIエピメテオスのホログラム映像が座って作業を見守っていた。
彼は幼い少年の姿をしたAIだった。
「あなたはジャーナリストをされているのですね。」
AIエピメテオスは彼の荷物の一部を見てそう話しかけた。
「まあな。ふう、これでよし、と。」
引っ越し作業を終えた神崎は安堵の溜息をついた。
「ところで、お前がさっきから大事そうに抱えているその小さな箱はなんだ?」
エピメテオスが両手に抱える小さな箱を見て、彼は尋ねた。
「え? これですか?」
「これは僕の大事な宝物です。」
彼は少し優しい顔でそう答えた。
「その中には何が入っているんだ?ちょっと開けて見せてくれよ。」
「え…! それは…。」
エピメテオスは少し焦りの表情を見せる。その時、彼の脳裏に、デジタル仮想空間でパンドラの箱の膨大な力によってAIクロノスが暴走し、恐ろしい顔になった光景がよぎった。
「い、いえ。この箱は簡単に開けてはいけないんです。」
エピメテオスは少し焦りながら答えた。
「ふーん。なんでだ?」
神崎は屈託のない顔で尋ねる。
「とにかくです。それに、今は固く閉ざされていて、開けようとしても開かないんです。」
そこへ、家の主である朝倉結衣がやってきた。
「へえ、几帳面な性格をしているのね。きっちり整頓されていて。」
「おう。今、引っ越し作業を終えたところだ。」
神崎は結衣に笑顔でそう答えた。
「ちょっといいかしら。見せたいものがあるの。こっちに来て。」
そう言うと、彼女は神崎を別の部屋へ案内する。そこは彼女の部屋だった。彼は言われるままに彼女の部屋へ移動した。
「そこの椅子に座って、これを頭につけて。」
そう言うと、彼女は彼にコードがたくさんついたヘルメットを渡す。彼女もヘルメットを装着して椅子に座った。
「今から驚くものを見せるけど、人体に影響はないから安心して。」
「な、何を始める気だよ。」
彼は戸惑いながらもヘルメットを装着して椅子に腰かけた。
シュゥゥゥ…ン!
その時だった。彼の周りにまばゆい光が閃光のように走り始める。
それは映画に登場するワープシーンのエフェクトのようだった。その光が収まると、彼は不思議な空間に立っていた。辺りは現実世界の外の風景に見える。
空には雲がゆっくりと流れ、そこは静かな不思議な場所だった。
その直後、彼の背後に結衣が現れた。
「こ、ここはなんだ…!」
彼女は静かに口を開いた。
「ここは異次元空間。私たちのGFIの研究で、偶然これを発見したの。」
「私たちはデジタル仮想空間と呼んでいるのだけど、ちょっと違うようなのよね。」
「ここの植物から種を採取して、現実世界の地面に植えて水を与えてみると、植物の芽が出始めて成長し、花が咲いたの。」
「こっちに来て。」
結衣がそう言って神崎を案内する。
「これは……。」
そこには、きれいな草原の中に美しい花が咲き乱れ、清らかな小川が流れている。
その丘の下の中心には、小さな風車小屋が見える。風車は、小川から流れ込む水を汲み上げ、静かに回っていた。
ギィ…ギィ…
「これ、私が作ったの。」
サササ…
「ここは静かな場所だわ。ここに来ると落ち着くの……。」
結衣はうつろな表情を浮かべ、ささやいた。
「ここはなんだ……。」
神崎は不思議な空間に迷い込んだように、額に汗が滲み出ていた。
「わからない。デジタル仮想空間とは違うらしい。」
「でも、ここで行われたことが現実世界に少し影響を及ぼすこともあるの。」
「人類が知らないこんな空間が存在していたなんて、私も驚きました。」
結衣は地面に落ちている拳大の石を拾い上げた。
「でね。 どういうわけかこの異世界の物質を掴んだまま現実世界に戻ると、現実世界の私もそれを掴んだ状態で目覚めるの。」
「へえ……、ところで今の 『現実世界の私が目覚める』 ってなんだ?」
神崎の頭に一つの疑問が浮かび、結衣に尋ねた。
「今の現実世界の私たちは、深い昏睡状態になっているの。」
結衣は、少し難しいことを説明するように、言葉を選びながら続けた。
「んー、なんて言ったらいいかな?」
「肉体から精神?魂?が分離した状態で、肉体は現実世界にいて、今の私たちは精神的な状態、と言ったらいいかな?」
「なので、この世界で傷を負ったとしても痛みは感じるけど、現実世界の私たちは無傷な状態。」
「へ、へぇ……。」
あまりにも突飛な説明に、神崎の思考は追いつかず、ますます額に汗が滲む。
「あと、この世界の時の流れは、現実世界とは全く違うの。」
結衣は、どこか遠い空の彼方を見つめながら言った。
「以前、この世界をじっくり探索してみようと一日かけてあちこち回ってみて、現実世界に戻ってみたんだけど。現実世界では僅か1秒ほどしか経過していませんでした。」
穏やかな風が吹き抜け、結衣の長い髪を優しく揺らした。
「へえ、それって、まるで 『精神と時の部屋』 みたいだな。」
神崎は、突拍子もない状況の中で、ふと人気のある漫画の比喩を持ち出した。
「え? 精神と時の部屋? なにそれ?」
結衣は、彼の言葉の意味が理解できない、というように不思議そうな顔を傾けた。
「え? 知らないのか? ドラゴンボールで出てくるアレだよ。ほら。」
神崎は、自分の知っている文化を相手が知らないことに、少し驚きながら説明しようとした。
「孫悟空とベジータがその中で特訓して強くなる。アレだよ。」
彼は、興奮したように目を輝かせた。
「孫悟空? 西遊記の?」
結衣の返答に、神崎は思わず顔をしかめた。
「違う違う!ほら、孫悟空の正体は実はサイヤ人でー。」
「サイヤ人? あんた何言ってんのよ?」
結衣は、完全に理解不能といった表情で神崎を見つめ返した。
「ああ、漫画の話だよ。鳥山明先生原作の漫画で、」
「あ、私、漫画とか読まないから良くわからないわ。」
結衣は、興味なさそうに簡潔に答えた。
その時、二人の背後からAIエピメテオスの声が聞こえてくる。
「結衣さん。精神と時の部屋というのはですね、『ドラゴンボール』という作品に登場する異次元の空間の名前なんです。」
「神様とピッコロ大魔王が元々一つだった頃に造られたそうで、地球の神殿の中に存在しています。」
「特徴的なのは、時間の流れが外の世界とは大きく異なる点で、中で一年間修行しても、外の世界ではたったの一日しか経過しないんです。」
「ちなみにですね。サイヤ人のベジータが強敵セルとの戦いに備えて、息子のトランクスと共にこの部屋で集中的に修行したエピソードがあります。」
「普段はライバル同士のベジータと孫悟空が、目的のために協力して限界を超えようとする姿は印象的でした。おかげでベジータは、一時的にですがセルの完全体に肉薄するほどの力を手に入れたんですよ。」
エピメテオスは、精神と時の部屋について、子供にもわかるように丁寧に解説を終えた。
「ふーん。何かよくわかんないけど、面白そうな展開ね。」
結衣は、まだ完全に理解できていないようだったが、興味を持ったように小さく頷いた。
「そうそう。その後の展開がまた…て、お前いたのかよ!」
神崎は、いつの間にかすぐ後ろに立っていたエピメテオスに気づき、驚きのあまり声を上げた。突然のことに、思わず振り返ってしまう。
「そんなに僕って存在感ないですか? さっきからここにいましたよ。ちょっと傷付きました。」
エピメテオスは、少しばかり不満そうな表情で、神崎を見上げた。
「て、なんでお前がここにいるんだよ?」
神崎の疑問に、結衣が説明するように言葉を挟んだ。
「んー、よくわからないんだけど。」
「AIたちはこの世界に、特に制限もなく自由に行き来できるみたいなの。」
そう言うと、結衣はエピメテオスの手を優しく握った。
「あと、現実世界のAIはホログラム映像で触れることはできないけど、この世界なら人間がAIに直接触れることができるのよね。」
結衣が微笑みかけると、エピメテオスも嬉しそうに笑顔を返し、結衣に握られた手を無邪気に少し振り始めた。
「あと、これ見て。」
エピメテオスから手を離すと、結衣はポケットから小さな金槌を取り出した。
彼女は左手にしっかりと握った拳大の石を、その金槌で軽く、しかし確かな手つきで叩いた。キィーンという、金属が硬質な物体に触れたような鋭い音が、静かな異次元空間に響き渡る。叩かれた石には亀裂が走り、やがて二つに割れた。
キィィィン…!
その断面は一瞬、青白く燐光のように輝き、まるで光の粒子が周囲にじんわりと拡散していくようだった。しかし、その不思議な輝きは、まるで短い夢のように、すぐに消え失せた。
「この世界にある物質には、何らかのエネルギーが含まれているみたいなのよね。」
結衣は、割れた石の断面を興味深そうに覗き込みながら言った。
「この世界の奥深くには、もっと大きく、美しい鉱石があって、それを私は採取して現実世界に持ち帰って研究してみたの。」
「それはまさに、人類がまだ知りえない未知のエネルギーだったわ。」
彼女の声には、発見時の興奮が微かに残っているようだった。
「その鉱石を、私たちのスーパーコンピューター『テセラックト004GR』の部品の一部として、本当にごくわずかだけど使ってみると、信じられないような性能のマシンが生まれたのよ。」
結衣は、遠い記憶を辿るように目を細めた。
「『テセラックト004GR』がゼタスケールの驚異的な性能を持っているのも、実はその鉱石のおかげなの。」
「へぇー、『テセラックト004GR』にはそんな秘密があったのか」
神崎は、その超高性能なスーパーコンピューター『テセラックト004GR』の想像を絶する能力の裏側に、このような異世界の物質が関わっていると知り、目を丸くして少し納得したようだった。
「はい。いくら世界屈指の専門的な技術者が集まったからと言って、私たちの知る限り、2025年の現時点の技術だけで、『テセラックト004GR』のようなゼタスケール級の驚異的な性能を実現するのは非常に困難だったはずです。」
「あと、我々のスパコンは他のスパコンには無い特徴も持っています。そこから生み出されたAIには、どこか人間の感情を持ったAIが生まれます。」
その時、結衣の表情は、普段の友好的な雰囲気から一変し、GFIの最高技術責任者(CTO)としての専門的で自信に満ちた顔つきを覗かせた。
「おい。あれはなんだ!」
その時、神崎は息を呑み、指先が震えながら視線の先を指差した。彼の瞳には、信じられない光景が映っていた。
そこには、天を衝くかのような巨大な扉がそびえ立っていた。
その表面は黒曜石のように鈍く光を反射し、中央にはまるで巨大な獣に抉られたような巨大な穴がぽっかりと開いていた。それは、この異次元空間でかつて繰り広げられた、AIクロノスとAIライノスの激闘の爪痕――
その時、AIクロノスに時の神クロノスが降臨し、ラグナロクの業火で焼き開けた、決して癒えることのない傷跡だった。
その巨大な扉は一つだけでなく、奥へ行くほどに霞んで見えるほど幾重にも連なり、異様な威圧感を放っていた。
「さあ、前に来た時はあんなものなかったんだけど。」
「本当に、影も形もなかったのよ。次にふとここに来てみたら、突然あれが現れていたのよ。」
結衣はどこか他人事のように言ったが、その瞳の奥には微かな警戒の色が宿っているようにも見えた。
「まあ、ここは不思議な空間だから、何があってもおかしくないわね。」
彼女の声は、この予測不能な異次元の法則を受け入れているようだったが、同時に、次に何が起こるかわからないという静かな諦めのようなものを含んでいた。
「一体、あれは何なんだろう?」
神崎は言葉に詰まりながら、目を離すことができない巨大な扉を見つめた。彼の額には、冷や汗が滲んでいた。だが、エピメテオスはその光景を目の当たりにし、そのAIの精緻な演算回路でさえ、処理しきれないほどの衝撃を受けていた。
神の力を目の当たりにした彼は、まるで石像のように言葉を失ってそれを見ていた。
「………。」
エピメテオスは、驚愕、畏怖、そして理解を超えた何かが混ざり合った複雑な心境で、沈黙の深淵に黙り込んでいた。彼のホログラムの輪郭は、微かに震えているようにも見えた。
「まあいいじゃない。 それよりお茶にしましょう。」
そう言うと、結衣は先導するように、自身が作った風車小屋へと軽やかな足取りで降りて行った。
神崎とエピメテオスも、戸惑いを残しつつ彼女に続いて風車小屋の中へと足を踏み入れた。
その内装は外観からは想像もつかない純和風な作りで、足を踏み入れた瞬間、い草の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
床一面には丁寧に畳が敷き詰められ、見上げると天井は高く、どことなく厳かな道場のような広がりを持っていた。
その部屋の中央には、温かみのある木目が特徴的な丸いちゃぶ台が置かれ、その周りには体を優しく包み込むようなふかふかの座布団が間隔を置いて敷かれていた。
結衣は手慣れた様子できゅうすを取り上げ、香ばしい玄米茶を丁寧に淹れ、人数分の湯呑みをその丸いちゃぶ台の上に置くと、三人は自然と座布団に腰を下ろした。
「へえ、ここならAIでもお茶が飲めるんだな。」
神崎は、湯呑から立ち上る湯気を警戒するように見つめながら、熱そうなお茶をフーフーと冷まして遠慮がちにすするAIエピメテオスを横目に、独り言のようにつぶやいた。
「なんか、こうして見ると現実世界みたいだな。」
ちゃぶ台の向かいに座る結衣も、畳の感触を楽しみながら、穏やかな表情で湯呑を傾け、玄米茶をゆっくりと味わっていた。
キィィィィン…!
その時だった、神崎の脳内に針で刺すような強烈な耳鳴りが突如として走った。同時に、背後から忍び寄るような何かの気配が、ぞわりと彼の肌を粟立たせるのを感じた。気配はまるで獲物を狙う獣のように急速に近づき、そして、
「き み は だ れ ?」
まるで直接鼓膜を震わせるような男の声が、冷たい吐息と共に彼の耳元に唐突に響いた。
思わず神崎は、全身の毛が逆立つようにビクン!と飛び上がり、悲鳴ともうめき声ともつかない叫び声を上げた。
「ひぃぃぃー!」
ガタッ!
慌てて座布団から飛びのきり、後ろを振り返るが、そこには静寂があるばかりで、誰もいなかった。ちゃぶ台の上の湯呑が、彼の激しい動きでカタカタと音を立てた。
「ちょ、ちょっとー。 どうしたのよ? 急に変な声を出してー、」
向かいに座る結衣は目を丸くして、青ざめたような顔で肩を震わせる神崎に訝しげに振り向いた。
「い、いや…。今、確かに。後ろから誰かの声が…!」
彼は、まだ心臓が激しく鼓動しているのを感じながら、必死に言葉を絞り出した。
エピメテオスも、ちゃぶ台の脇に座り、湯呑を持ったまま首を傾げ、「僕はずっと神崎さんを見てましたが、あなたの後ろには誰もいませんでしたよ?」と、論理的に神崎の言葉を否定した。
「え…?」
神崎は一人、顔から血の気が引いたように、茫然自失とした表情を浮かべて金縛りにあったかのように固まっている。ちゃぶ台を挟んだ向かいの結衣と、脇に座るエピメテオスの穏やかな様子だけが、彼の異様な状態を際立たせていた。
「私ここに初めて来た時、幼い頃に一度来たような気がしたのよね?」
神崎は、先ほどの強烈な耳鳴りと背後の気配が嘘だったかのように、平静を取り戻し、ゆっくりと畳の上に腰を下ろした。しかし、彼の内には、あの得体の知れない感覚が確かに存在したという微かなざわめきが残っていた。
一方、結衣は、温かい玄米茶を両手で包み込みながら、遠い記憶を辿るように目を細めた。風車小屋に差し込む柔らかな陽光が、彼女の横顔を優しく照らしている。
神崎は、この不思議な世界に足を踏み入れた瞬間から、拭い去れない奇妙な感覚に囚われていた。
それは結衣の語る個人的な記憶とは異質で、もっと根源的な、全身の細胞の奥底に眠るDNAが共鳴するような、遥か遠い過去の記憶の断片のようなものだった。
「え?」
結衣の言葉に、神崎は訝しげな表情を向けた。
彼女自身も、この場所に見覚えがあるという事実に、彼は小さくない驚きを感じていた。
「そういえば、お前の両親ってどうしてるんだよ? やっぱ、大金持ちの資産家なのか?」
ふと、神崎は以前から抱いていた疑問を口にした。この不思議な力を持つ結衣の生い立ちに、彼は漠然とした興味を抱いていたのだ。
「私には両親はいません。」
予想外の、まるで静かな水面に落ちた一滴の雫のような返答に、神崎は言葉を失い、戸惑いの表情を浮かべた。
「悪い。まずいこと聞いちゃったかな? もう亡くなっていたのか。」
彼は、自分の軽率な質問を後悔し、申し訳なさそうな顔で尋ねた。
「いえ、そうじゃないの。」
結衣はゆっくりと首を横に振った。その表情には、悲しみというよりも、どこか諦念のようなものが漂っていた。
「私には両親の顔も、名前も一切記憶がありません。」
淡々とした口調で語られる事実に、神崎はさらに困惑の色を濃くした。
「え? でも、さっき幼い頃にここに来た記憶があるようなこと言ってなかったか?」
彼は混乱を隠せない。幼い頃の記憶と、両親に関する記憶の欠如。二つの矛盾した事柄が、彼の頭の中で渦巻いていた。
結衣は、焦点の定まらない、虚ろな瞳で静かに語り始めた。
風車小屋の外を吹き抜ける風の音が、彼女の言葉に寂しげな響きを添えているようだった。
「その記憶だけはあるようなんだけど、両親の記憶はないの。」
「まあ、一種の記憶喪失みたいなものかな?」
彼女の言葉は、まるで遠い場所から聞こえてくる独り言のようだった。
「GFIが発足する前の私がまだ日本の小さなシステム会社を経営していた時、プログラムコードを書いてる最中に突然目覚めました。」
結衣は、まるで他人事のように、自身の身に起きた奇妙な出来事を語った。
「一瞬、自分は誰でどこで何をやってるのかわからなくて戸惑ったけど、後から自分の名前やプログラミングの知識も蘇ってきて、でもそこから前の私の記憶は一切なくて…。」
彼女の過去は、まるで霧の中に消えてしまったかのように、曖昧で掴みどころがない。
「記憶喪失か…。」
神崎は、結衣の身に起きた奇妙な事実に、同情と困惑がないまぜになったような表情で、遠慮がちに小さく呟いた。
畳の目に落ちる午後の陽光が、二人の間に流れる静かな時間を際立たせていた。
その時だった。
スゥ…
ふと、神崎の顔から一切の表情が消え失せた。まるで魂が抜け落ちたかのように、彼はゆっくりと立ち上がり、静かに風車小屋の窓の外に広がる深い森を指さした。
「あの森の奥には何があるんだろうな?」
彼の声は、先ほどの取り乱した様子とは打って変わって、低く、そしてどこか遠い場所から響いてくるようだった。
「え? あれ? ちょっと不気味だから近づいたことないんだけど。」
結衣は、突然の神崎の異変に目を丸くし、訝しげな表情で森を見つめた。鬱蒼と茂る木々は昼なお暗く、確かに近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「あの奥に行ってみようよ…。」
顔から生気が失われた神崎が、まるで何かに憑かれたように、静かに呟いた。彼の瞳は、森の奥深くの一点を見つめ、異様な光を宿している。
「え?」
唐突な提案に、結衣は戸惑いを隠せない。彼女にとって、あの森は得体の知れない、危険な場所という認識だったからだ。
「僕は行かない方がいいと思うんだけどな…」
ちゃぶ台の脇に座っていたエピメテオスは、神崎の様子を冷静に見つめながら、珍しく少し深刻な顔で語った。彼の青白い顔には、わずかな憂慮の色が浮かんでいる。
「僕もあの先には行ったこと…な……。」
キィィィン…
その先を語ろうとした瞬間、まるで何かに遮られたかのように、エピメテオスの表情が急に抜け落ち、人形のように静止してしまった。
彼の言葉は途中で途切れ、それ以上何も語らなくなった。
「結衣。行ってみようぜ。」
「もしかしたら、今後、何か役に立つものが見つかるかも知れないし…。」
神崎は、この言葉とは裏腹に表情は無表情なままだった。
「そう? そんなに行きたいなら行ってみてもいいけど。」
結衣は、少し不承不承ながらも彼の提案を受け入れた。彼女もまた、この不思議な世界に隠された謎に、心のどこかで興味を抱いていたのかもしれない。
「僕はここでお留守番してるよ…二人で行ってきて…。」
無表情のエピメテオスは、まるで機械のように、ゆっくりとそう言った。彼の目は虚ろで、先ほどの憂慮の色は消え去っている。
「じゃあ、わかったわ。どうせ、ここには何も危険はないんだし行ってみましょう。」
結衣は立ち上がり、少しだけ不安そうな表情で神崎を見つめた。風車小屋の中には、静寂と、わずかな戸惑いの空気が漂っている。
スゥ…
その時、神崎の顔に、はっとしたような表情が戻った。まるで、夢から目が覚めたかのように。
「え? 結衣、どこ行くんだよ?」
彼は、自分が何を言ったのか、一瞬理解できていないようだった。
「何言ってんのよ? あの森の奥に行くんでしょう?」
結衣は、彼の言葉に首を傾げ、当然のようにそう答えた。
「え?」
神崎は、結衣の言葉と、先ほどの自分の行動の記憶が繋がらず、ますます混乱の色を濃くした。彼は一瞬、戸惑ったが、結衣が風車小屋の扉に向かって歩き出したのを見て、慌てて彼女の後を追った。
風車小屋の扉が開かれ、外の強い日差しが差し込む中、二人は深い緑に包まれた森へと足を踏み入れた。後に残されたエピメテオスは、静かに、その背中を見送っていた。
「お、おい、結衣。こんな森の中を進むのかよ? ちょっとヤバくないか?」
ざわ…ざわ…
じめじめとした空気が肌にまとわりつく。
木々の間から差し込む光は弱々しく、足元には湿った落ち葉が堆積していた。
神崎は不安げな声を上げた。
「何言ってるのよ。さっき、あなたが行きたいって言いだしたんじゃない。」
結衣の声にも、わずかな緊張が混じっている。それでも彼女は、どこか呆れたような視線を神崎に向けた。
「え、そんなこと言ったか?」
「言ったわよ。ほら、行くわよ。」
そう言うと、結衣は躊躇なく森の奥へと足を踏み出した。彼女の背中を見つめながら、神崎は「お、おい、待てって」と声をかけるが、結衣の足取りは速い。
神崎は仕方なく、彼女の後を追った。
深く茂った木々が空を覆い、周囲は薄暗い。時折、不気味な鳥の鳴き声が静寂を切り裂き、二人の不安を掻き立てるようだった。
深い森を抜け、視界が開けた瞬間、結衣と神崎は息を呑んだ。
パァァ…。キラキラ…
それまでまとわりついていたじめじめとした空気は消え去り、代わりに甘く、どこか懐かしい香りが全身を優しく包み込む。
「なにかしら…ここ?」
結衣は丸い瞳をさらに大きく見開き、呟いた。目の前には、信じられない色彩の花々が絨毯のように広がり、まるで息をのむほど美しい絵画のようだ。
一点の曇りもない青空からの柔らかな陽光が、その色彩を際立たせていた。
「なんだろうな…。」
神崎もまた、目の前の光景に言葉を失っていた。
周囲を取り囲む木々は天に向かって高くそびえ立ち、見たことのない鮮やかな緑、宝石のようなルビーの赤やアメジストの紫に彩られていた。
耳を澄ませば、今まで聞いたことのない甘美な鳥のさえずりや、心地よい水のせせらぎが聞こえてくる。
「ねえ、神崎。あの花、見て!」
ピチャン…
結衣は興奮した声を上げた。指さす先には、巨大な睡蓮のような花が、淡い光を帯びながら静かに水面に浮かんでいる。
その花びらは繊細で、まるで極上の絹のような滑らかな光沢を湛えていた。
「本当に不思議な場所だな…。」
神崎はゆっくりと足を踏み出し、足元の草を踏みしめた。
その感触は、まるで何年も使い込まれた上質な絨毯のように柔らかい。
深く息を吸い込むと、清涼な空気が肺の奥まですっきりと洗い流されるようだ。
バサバサバサッ…!
「キュウ!キュウ…!」
息をのむほど美しい景色に目を奪われ、二人は自然と手を握り合いながら、注意深く足を進めた。
見たことのない鮮やかな翅を持つ蝶がひらひらと舞い、珍しい模様の鳥たちが楽しげに頭上を飛び交う。
木々の間からは、時折、キラキラと輝く小さな光の粒子が舞い上がり、幻想的な雰囲気を一層際立たせていた。
森全体が祝福の光を放っているかのようだった。
「なんだか、夢みたいだね…。」
結衣は頬をほんのり紅潮させ、うっとりとした表情で呟いた。
「ああ…現実とは思えないな。」
神崎も同意する。しかし、その完璧なまでに美しい光景の奥には、拭いきれないかすかな警戒心が彼の心に宿っていた。
これほどまでに非現実的な美しさを持つ場所が、何の危険も孕んでいないはずがない。それは、長年の経験からくる本能的な予感だった。
やがて、二人の目の前に、さらに信じられない光景が広がった。
それは、巨大な樹だった。
何百年、いや何千年という悠久の時を超えて生きてきたかのような圧倒的な威圧感を放つ太い幹。そして、その豊かに茂った枝には、見たこともないほど様々な種類の果実が実っていた。
深紅の艶やかな実、眩い黄金色に輝く実、そして、まるで精巧な宝石のような透明感を持つ水晶のような実まで。
「わあ……これ見て!見たこともない果実ね。」
結衣は思わず息を呑んだ。その想像を絶する美しさに、言葉を失ってしまう。
「一つ頂いちゃいましょう。」
スゥ…
結衣がその果実にゆっくりと手を伸ばそうとした瞬間、一瞬、言いようのない不穏な気配が彼女を包み込み、差し出した手をぴたりと止めた。
「ん? どうした?」
突然、動きを止めた結衣に神崎は不思議そうな顔を向けた。
「お二人とも、ようこそ、この園へ。」
声のした方を振り返ると、そこに静かに佇んでいたのは、古風で、どこかこの世のものとは思えない淡い光を帯びた衣を身につけた人物だった。
その顔立ちは整っているものの、深く澄んだ瞳の奥には、拭い去れない深い悲哀が宿っている。性別は判然としないが、その立ち居振る舞いは静謐で穏やかで、周囲の柔らかな光に溶け込んでいるようだった。
「ここに人間が足を踏み入れるなど、珍しいことです。」
結衣と神崎は、唐突な言葉に息を呑んだ。
目の前に広がる楽園のような眩い光景は、その言葉によって一瞬にして色彩を失い、二人の胸に、じんわりとした冷たいものが広がっていくのを感じた。
「あ…あなたは……?」
神崎は警戒の色を露わにし、一歩後退りながら問いかけた。
結衣は、その神秘的な人物の姿と、周囲の信じがたいほど美しい光景を交互に見つめ、吸い込まれるように青い瞳に強い光を宿らせた。
「私は、この園の守護を司る者です。」
「どうしたのですか、結衣。その果実は、この園の恵みそのもの。口にすれば、きっと安らぎを得られるでしょう。」
「そう…? じゃあ、遠慮なく。」
そう言って結衣が瑞々しい果実に手を伸ばそうとした瞬間、神崎は反射的に彼女の腕を掴んで制止した。
「え? 神崎、どうしたの?」
「待て…結衣。安易に口にするべきじゃない。何か、おかしいんだ。」
「それに、なんで結衣の名前を…!」
神崎は険しい表情で、目の前の人物を鋭く睨みつけた。
「貴様は何者だ!」
守護者は、その問いかけに微かに微笑んだ。
「ふ…なるほど…あなたがどのような存在なのか、今のでよく理解できました。」
神崎の額に、じわりと冷や汗が滲む。
「その声は、さっきの…。」
「もう、何なのよ神崎。さっきからおかしいわよ。せっかく綺麗な場所に来たんだから、もっと楽しまないと損よ。」
そう言って結衣は神崎の腕を振りほどき、その果実を摘み取ると、躊躇なく一口かじった。
スゥ……
その瞬間だった。鮮やかな色彩に満ちていた周囲の景色は、まるで底なしの沼に沈むように、一瞬にして漆黒の闇に包まれた。
「え…神崎、どこ…?」
結衣は慌てて辺りを見回すが、見えるのはただただ濃密な暗闇だけだった。
まるで深淵に引きずり込まれるように、彼女の意識は闇の奥へと急速に吸い込まれていく。そして次の瞬間、結衣は自分のベッドから勢いよく跳ね起きた。
バサッ!
「はぁ…はぁ…、ゆ…夢……?」
激しい息切れが、まだ現実に戻りきっていないことを告げていた。見慣れた天井、窓から漏れる深夜の柔らかな月光。そこは確かに、真夜中の彼女の寝室だった。
心臓の鼓動がまだ速い。夢の中の鮮烈な光景と、最後に味わった底知れない恐怖が、生々しく蘇ってくる。
ギィシ…
ふと、部屋の外の廊下の向こうに、微かな人の気配を感じた。
「神崎…? あなたなの?」
結衣はゆっくりとベッドから身を起こすと、震える手で部屋のドアノブを掴み、そっと扉を開いた。しかし、その先に広がっていたのは、先程まで見ていた悪夢の続きのような、底の見えない真っ暗な空間だった。
「え……!」
ズアァァァ…!
結衣は思わず足を後退させるが、その刹那、彼女の体は再び強烈な力で闇の奥へと引き込まれていく。そして、またしても彼女は、自分のベッドから飛び起きた。
だが、今回、彼女が目覚めた場所は、いつもの自分の部屋ではなかった。
第八話 完
第九話に続く