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SNS監視網  作者: 黒瀬智哉
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第十三話 合気道の真髄

 印旛沼(いんばぬま)の夜風が、静かに二人の間を吹き抜けた。


 燃え盛るバイクの赤い炎が、漆黒(しっこく)の闇を辛うじて照らし出す。その炎を背に、神崎は全身を(おお)うスリムな黒い特殊戦闘スーツに身を包み、その表面に浮かび上がるLEDの緑色のラインの光を静かに瞬かせながら、ただ一人、そこに立っていた。


 対峙する女は、黒のレザースーツに身を包み、グラマーなシルエットを夜に浮かび上がらせる。サラサラとした長い黒髪が、わずかな風にも揺れ、その奥から射抜くような黄緑色の瞳が、獲物を定める猛獣のように神崎を(とら)えて離さない。


 言葉はなく、聞こえるのは遠くの虫の声と、時折、爆ぜる炎の音だけ。二人の間には、目に見えないほどの濃密な緊張感が張り詰めていた。



今まさに、この静寂を切り裂き、激しい戦いが始まろうとしていた――。



 すると女は突如、漆黒(しっこく)の夜に妖しい光沢を放つレザースーツの胸元に手をかけ、ゆっくりとジッパーを下げ始めた。


 細身の身体を締め付けるレザースーツは、彼女の豊満(ほうまん)な胸の谷間を(あら)わにし、月明かりに照らされて白い肌が覗く。


 女は獲物を誘うかのような妖艶(ようえん)な笑みを神崎に向け、濡れたように光る黄緑色の瞳で彼の動きを捉えていた。猫のようにしなやかな動きでセクシーなポーズを取り、腰をくねらせながら、彼女はゆっくりと神崎に近づいてくる。


 甘い香りが微かに漂い、彼のすぐ(そば)に立つと、滑らかな指先で自身の腰に手を添え、挑発的に神崎の顔を覗き込んだ。


 予期せぬ肉迫に、神崎の顔に一瞬、緊張が走る。


 女がゆっくりと紫色の唇を開くと、甘い吐息が彼の鼻腔(びこう)をくすぐり、同時に、彼女の柔らかく湿った唇が彼の唇に吸い付いた。思わず神崎は目を見開く。


 彼女の甘い息が絡みつき、舌先から忍び込んだ熱い舌が彼の舌を絡めとっていく。


 神崎の口内には、とろりとした甘い唾液(だえき)が広がり、女の柔らかく巧みな舌の動きが彼の舌先をくすぐり、意識が溶けていくような感覚に囚われそうになった。


 そして、彼女の白い右手が、ゆっくりと神崎の首筋へと近づいていった。


 その時だった。


 彼女の右手を、まるで獲物を捕らえるかのように素早く神崎の右手が掴んだ。


 その刹那(せつな)――。彼女の(ひざ)は、見えない力に吸い寄せられるように音もなく地面に落ちた。


 彼女は信じられないものを見るように大きく目を見開く。


 さらに彼は、掴んだ右手を軸に、彼女の体勢を利用しながらゆっくりと地面に押さえつけていった。無駄な力みはなく、静かに、しかし確実に、神崎の合気道の力が炸裂した。


「ぎぃ…!」


 女の口からは、獣のような苦悶(くもん)の声が漏れる。


 力を込めれば込めるほど、彼女の力は彼の右手を通じて増幅され、まるで巨大な岩で全身を押さえつけられているような絶望的な感覚に襲われた。


 彼女は必死にジタバタと抵抗し、彼の右手から逃れようとするが、決して離れない。


 豊満な胸はレザースーツ越しに冷たいアスファルトに押し付けられ、乱れた長いサラサラの黒髪が、まるで黒い蜘蛛(くも)の糸のように地面に散乱する。


 しばらくの間、必死に抵抗を続けた彼女だったが、何をしても無駄だと悟ったのか、徐々に力を失い、抵抗をやめた。神崎は静かに彼女の拘束を解いた。


 女は、信じられないといった表情でゆっくりと顔を上げ、神崎の顔を見つめた。


 そこには、穏やかな光を湛え、全てを見透かすような視線が、彼女に向けられていた。


 彼女の額には汗が(にじ)み、身体は微動だにしなかった。ただ彼を捉えていたその瞳には、もはや敵意はなく、遠い記憶を辿るかのような光が宿っていた。


「………。」


 その時だった。乾いた破裂音と共に、彼女の身体の周囲に地面に銃弾が着弾した。


ズキャン!


 アスファルトが(えぐ)られ、小さな破片が飛び散る。


 その音を合図に、彼女はハッと我に返り、素早く後方へと飛びのき、地面に腹ばいになるような低い姿勢で周囲を警戒した。


 だが彼女をよく見ると光沢のある丸みを帯びたレザースーツの彼女の尻からは長くて黒い尻尾が伸びていた。さらに彼女の頭部のしなやかなロングな黒髪の頭部からは猫耳のようなものが立っている。


「ぎぃ!」


 警戒感を露わにし彼女は夜空を見上げる。


 直後、轟音(ごうおん)と共に夜空を切り裂くように、一台のヘリコプターが近づいてきた。


 重低音を響かせるローターの回転音、地上の二人を強烈に照らし出すサーチライト、そして巻き上がる強い風が周囲の草木を激しく揺らす。


ババババ…!


「ぎぃ!」


 女はさらに後方へと飛びのき、身を低く構えて微かなうめき声をあげている。


 ヘリコプターから、スピーカーを通して男性の声が響いてきた。


『神崎君、結衣様は無事です。』


『事情は彼女から伺いました。彼女は今、我々が適切な治療を行っています。』


『さあ、これに掴まりください。』


 機体の側面から、するすると縄梯子が下ろされた。


 ヘリコプターの機体には、白くGFIのロゴが誇らしげに描かれている。


 神崎がその縄梯子を掴むと、女を冷たい地面に置き去りにして、ヘリコプターはエンジン音を轟かせ、夜空へと舞い上がり、成田空港の方角へと飛び去っていった。


ババババ!


 女はアスファルトに尻をつけたまま、夜空の星のように小さくなっていくヘリコプターを、ただ静かに見上げていた――。



 結衣は、神崎とレザースーツの女との闘いは壮絶を極めることになることを予想していたが、実際は神崎の右手一本で場を制し、静かな勝利を彼が掴むという結末となった。


 合気道とは、敵の戦意を(くじ)き、無力化を主眼とする武術である。


 他の格闘技とは異なり、合気道は敵の戦力を無力化することで勝利を得る。相手の戦闘能力を奪えば、無益(むえき)な攻撃を加える必要はないのだ。


 神崎とレザースーツの女の戦力差は歴然としていた。木製扉を容易く粉砕するであろう彼女の殺人級の蹴りをまともに受ければ、神崎は瞬時に戦闘不能となり、命を落としていただろう。


 そこで神崎は、正面からの激突を避け、AIエピメテオスのAIアシストがあったとはいえ、時速約80キロメートルで迫るバイク、およそ49キロジュールもの衝撃を素手で投げ飛ばすという、常識を逸脱(いつだつ)した離れ業を彼女に敢然(かんぜん)と見せつけた。


 その常識外れの光景は、彼女に神崎が到底敵わない強大な存在であるというイメージを植え付けただろう。


 さらに、右手一本で自由を奪う合気道の技を体験させることで、彼女に逆立ちしても彼には決して届かないという絶望的なまでの力の差を認識させ、恐怖を刻み込んだのだ。


 その鮮烈な一連の行動こそが、彼女の戦意を喪失させ、戦闘能力を奪い、神崎に静かなる勝利をもたらしたのである。


 己より遥かに強大な相手に対し、正面衝突を避け、心理戦によって勝利を掴むことこそが、神崎の周到な作戦だったのだ。


 結衣から武士道精神、敵に留めを刺すことの重要性を教えられていた神崎は、その意味を深く理解していた。


 しかし、戦闘は勝利者が状況を支配する権利を得る場でもある。


 短い接触の中で彼は、彼女の微かな仕草や行動の端々から、神崎は彼女の奥底にある何かを感じ取った。


 それは、完全な悪意ではなく、むしろ追い詰められた者の悲哀(ひあい)のようなものだったのかもしれない。故に彼は、彼女を完全に無力化すれば、それ以上の攻撃は無用であると判断し、あえて留めを刺さなかったのだ。


 数々の死線を潜り抜けてきた彼女にとって、これほどまでに理知的で、己を追い詰めながらも無益な殺生をしない相手との遭遇(そうぐう)は初めてだった。


 自分が絶対的に不利な状況に置かれているにも関わらず、それ以上の攻撃を躊躇(ちゅうちょ)する神崎の冷静さと、その奥にあるであろう深慮遠謀(しんりょえんぼう)を感じ取り、彼女の胸には、これまで抱いたことのない彼に対する微かな尊敬の念が芽生え始めていた――。



 GFIのヘリコプターが夜空を切り裂き、成田空港へと急ぐ。地上に降り立つや否や、神崎は一目散に駐機されたプライベートジェットへと駆け上がった。その機内には、辛うじて一命を取り留め、静養する結衣の姿があった。


「結衣…!」


 結衣はGFIの医療班の治療により体内の毒は無事抽出(ちゅうしゅつ)され一命は取り留めた。だが彼女の体力は消耗しており、プライベートジェットのシートに横たわる結衣には毛布が掛けられ安静にしていた。


「神崎…無事だったのね。」


「彼女に勝てたのね。」


 結衣は、まだ 苦痛を伴うような痛みに顔を(ゆが)めながらも、安堵(あんど)と再会を喜ぶ、か細くも温かい笑みを神崎に向けた。


「ああ。」


 神崎の短い肯定には、激戦を終えた疲労と、大切な存在が無事であったことへの深い安堵(あんど)(にじ)んでいた。


「君が神崎彰君かね。」


「結衣さんから君の噂は伺っているよ。」


 機長は、精悍(せいかん)な顔つきの欧米人だったが、淀みない流暢(りゅうちょう)な日本語でそう言うと、友好的に神崎に右手を差し出した。その(あお)い瞳には、友愛と共に、どこか試すような光が宿っているようにも見えた。


「はい。」


 神崎は、目の前の友好的な欧米人機長の友愛に、警戒心を持ちながらも礼儀正しく応じ、固い握手を交わした。その手のひらからは、相手のプロ意識と自信が伝わってくるようだった。


「これより本機は、GFIの本部があるアメリカのカリフォルニア州へ向けて飛び立つが、いいかね?」


「はい。」


 神崎は、結衣から聞いていたGFIという巨大組織の本拠地、遠いアメリカのカリフォルニア州へ、これから向かうことになるのかと、改めて実感を込めて(うなず)いた。


 温暖な気候と豊かな自然に恵まれたその地は――同時に世界を牽引する巨大IT企業が軒を連ねる場所でもあった。それは、新たな物語の始まりを予感させるものだった――。



 静かに、しかし確実に、プライベートジェットの心臓が鼓動を始める。微かな振動が足元から伝わり、計器パネルの緑や青のランプが一つ、また一つと灯っていく。


 神崎は窓の外を見つめた。


 整備員が手を振り、機体の周りから離れていく。コクピットから、機長の落ち着いた声と共に、無線のやり取りが聞こえてきた。


ピーザザ……!


"Narita Ground, GFI seven seven seven requesting taxiing clearance to runway three four."

(成田グランド、GFI777、滑走路34へのタキシング許可を要求します。)


 少しの沈黙の後、クリアな女性の声が返ってきた。


ザザザ…ガッ!


"GFI seven seven seven, taxi to runway three four via taxiway Alpha, hold short of runway one six."

(GFI777、滑走路34へ、誘導路アルファを経由してタキシーしてください。滑走路16の手前で停止してください。)


ピーザザッ!


"Taxiing to runway three four via Alpha, holding short of one six. GFI seven seven seven."

(滑走路34へアルファ経由でタキシング、滑走路16の手前で停止します。GFI777。)


 ジェットエンジンが(うね)りを上げ始め、機体はゆっくりと動き出した。


 窓の外では、誘導路を示す黄色い線がゆっくりと後方へ流れていく。他の航空機が駐機場や誘導路で静かに待機しているのが見える。時折、別の航空機とすれ違う際には、その機体の大きさに結衣が小さく息をのむのが聞こえた。


 機体は、まるで意思を持っているかのように、滑走路へと続く誘導路を滑らかに進んでいく。再び、コクピットから短い無線交信が聞こえた。


ピーザザッ!


"GFI seven seven seven, you are cleared to enter runway three four, hold."

(GFI777、滑走路34への進入を許可します。そのまま待機してください。)


 やがて、機体は滑走路の手前で完全に停止した。


 エンジンの音は(わず)かに高まり、機体全体が小さく震える。正面には、長く伸びる滑走路が朝焼けの光を浴びて輝いている。


"We have reached our takeoff position. Please make sure your seatbelts are fastened."

(離陸位置に到着しました。シートベルトが締まっていることをご確認ください。)


 機長の声には、先ほどよりも(わず)かに緊張感が混じっているようにも聞こえた。


 神崎は、シートベルトがしっかりと締まっていることを確認し、前方の滑走路を凝視する。管制塔からの最終的な離陸許可を待つ、静かな時間が流れた。


 滑走路の向こうに広がる朝焼けの空は、淡いオレンジ色から徐々に金色へと変化し、希望に満ちた光を地上に降り注いでいる。


 静かに停止したプライベートジェットの機内には、エンジンの微かな振動だけが伝わってくる。


 隣のシートに座る結衣は、少し緊張した面持ちで、そっと神崎の手を優しく握ってきた。彼女の小さな手から伝わる温もりが、神崎の張り詰めていた心を僅かに和らげる。


 彼は、その細く、しかし確かな力を感じる手を、自身の大きな手で優しく包み込むように握りしめた。言葉はなくとも、二人の間には静かな信頼と、共に未来へ向かうという強い意志が通じ合っているようだった。


 静寂を破るように、エンジンの(うな)りが再び大きくなった。


 機体がゆっくりと、しかし確実に前進を始める。窓の外の景色が、徐々にその速度を上げて流れ出す。


 滑走路の白線が、途切れ途切れの光の帯となって視界を駆け抜けていく。


 体にじんわりとした加速Gが押し寄せ、神崎は前方の景色を、結衣は少し強くなったGに身を任せながら窓の外を注視した。


 轟音(ごうおん)は増していくばかり。機首が(わず)かに持ち上がり、機体が地面との束縛から解放されようとしているのがわかる。振動がピークを迎え、ついに、ふわりとした浮遊感が二人の体を包んだ。離陸だ。


 窓の下には、みるみる小さくなっていく成田の景色。滑走路は一本の白い線となり、建物や車は豆粒のように見える。朝焼けに染まる空に向かって、プライベートジェットは力強く上昇していく。


"Ladies and gentlemen,"

(皆様、)


 機長の落ち着いた声が機内に響く。


"we are now airborne. Please relax and enjoy the flight."

(ただいま離陸いたしました。どうぞごゆっくりお過ごしください。)


 神崎は、小さくなっていく日本の景色を、そして隣で安堵の表情を浮かべる結衣を静かに見つめた。遠いカリフォルニアへの、新たな物語の幕開けだった――。




第十三話 完


第十四話に続く

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