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SNS監視網  作者: 黒瀬智哉
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第十一話 静かなる覚醒

 降りしきる雨音だけが、神崎の意識を深い闇へと引きずり込んでいった。


 容赦(ようしゃ)なく叩きつける雨粒が、肌の感覚を麻痺させていく。アスファルトから立ち上る濡れた匂いが、冷たい夜の空気に溶け込んでいた。見慣れたはずの都内の道路が、今はただ、深夜の静寂(せいじゃく)の中で不気味な黒として俺の目に映っていた。


 その雨の中に、信じられない光景が彼の目に飛び込んできた。


 雨に打たれ、黒々と濡れたアスファルトに、見慣れたGFIの特殊戦闘スーツが横たわっている。腹部を黒赤色の液体がじわりと染め上げ、雨水との境界線を曖昧にしていた。まさか――あれは、俺なのか?


 しかし、今の彼はその倒れている自分とは別の場所に立っている。数メートル離れた場所に立つ自分は、まるで魂が抜け出た抜け殻を見下ろすようだった。血だまりの中で動かない自分の身体に、冷たい雨が容赦なく降り注いでいる。


 黒のレザースーツに身を包んだ女性の右手に嵌められた、不気味な紋様(もよう)が浮かび上がっているガントレットから、生々しい赤黒い(しずく)が落ちてくる。それは、倒れた自分から流れ出した血だ。彼女は、瀕死の俺を見下ろし、氷のような笑みを浮かべていた。


「くそ……。俺もここまでか…。」


 沈黙を切り裂くようなエンジンの轟音(ごうおん)が、夜の静寂(せいじゃく)を打ち破った。黒い影がバイクに跨がり、一瞬の躊躇(ちゅうちょ)もなく走り去っていく。



 激しい動悸(どうき)と共に、神崎は跳ね起きた――。



「はっ…!なんだ、今の…?」


 彼には夢の中でみた女性に身に覚えがあった。


 それは(かつ)て女子高生失踪の真相を追って、結衣のランボルギーニで彼女らが囚われている東京湾沿岸の廃倉庫に向かう車中で、突如として彼の脳裏に舞い込んだ凄まじい速さで流れた映像の数々――その中に、先ほどの夢の中の女性がいた。


 神崎は結衣のタワーマンションに引っ越して来てから数日が経過しており、ここでの暮らしも慣れてきていたが、彼の生活は一変した。異世界、聖地エデンの園の、清らかな緑と、そこで交わしたアダムの静かな言葉。それらは、遠い日の幻のように、しかし確かに彼の意識の中に存在している。


 結衣がアダムの妻イブの転生した姿であり、そして自身が彼らの息子アベルの生まれ変わりであるという、運命の啓示にも似た事実は、今も彼の魂を揺さぶっている――。


 重い(まぶた)をこじ開けると、カーテンの隙間から射し込む朝の光が、まだ夢の残滓(ざんし)を残す意識をゆっくりと覚醒させた。神崎は静かにベッドから起き上がり、フローリングの冷たい感触を足裏に感じながら、リビングルームへと向かった。


「おはようございます。神崎さん。」


 リビングに入ると、AIエピメテオスが、柔らかな光を(まと)ってそこに立っていた。彼の顔には、いつもと変わらない穏やかな微笑みが浮かんでいる。


「ん。おはよう。」


 神崎は、ホログラムの映像で人間そっくりに映し出されるAIの姿に、挨拶を返した。


「結衣は?」


「結衣さんは、GFIの重要な会議があるとかで、今朝早くに出て行かれました。」エピメテオスの声は、いつもと変わらず丁寧だった。


 リビングのダイニングテーブルには、ふっくらとした三角形のおにぎりが、丁寧にラップで包まれていた。忙しい朝にも関わらず、彼女が自分のために用意してくれたのだと思うと、神崎の心は微かに温まった。海苔の香りが、静かな部屋に(ただよ)っている。


 神崎は朝食を済ませ顔を洗って身支度を整えると、神妙な面持ちで部屋を後にした。彼が向かった先は、GFIのCTOである結衣が務めるGFIの日本支部のビルだった。


 彼は昼休みに近くの公園に結衣を呼び出していた。普段は(にぎ)やかなこの公園も、平日の昼下がりはいくらか静かで、ベンチには数人の休憩する人がいるだけだった。神崎は、そのうちの一つに座る結衣の前に、少し緊張した面持ちで立った。


「どうしたの?あなたがここに来るなんて珍しいわね。」


 結衣はいつもの落ち着いたトーンで話し掛ける。彼女は、差し込む日差しを少し眩しそうに目を細めた。


 神崎は神妙な顔で語り始めた。

 

「結衣。お前に頼みがあるんだが。」


「ん?なに?」


「お前。以前に、合気道の師範(しはん)の資格を持ってるとか言ってたよな。」


「強くなるには、どうしたらいいんだ?」


 普段の温厚な彼からは想像もできない真剣な眼差しに、結衣は一瞬、息を呑んだ。


「あのGFIの特殊スーツの技術があれば、ある程度の危険は回避できるとは思うんだ。でも、それだけじゃ駄目だと思って。」


「ん。どうしてそう思うの?」


 結衣は落ち着いた声で問い返した。


「結局、そのスーツを着るのは俺自身だ。もし、俺自身が弱ければ、その性能を十分に引き出せないんじゃないかって……。」


「それに、もしものことがあったら、自分の身一つでも戦える強さが欲しいんだ。」


 結衣は腕を組み、少し考え込むように(あご)に手を当てた。


「確かにそうね。どんなに優れた技術も、それを使いこなす本人の力量が伴わなければ、宝の持ち腐れになりかねないわ。それに……」


 彼女は神崎の目をじっと見つめた。


「最終的に自分を守れるのは、自分自身の力だってことも、頭の片隅に置いておくべきだわ。」


「筋トレとかして体力を付ければいいのか?」


 神崎は、(わら)にもすがる思いで尋ねた。彼の目は、わずかな光を求めているようだ。


「まあ、肉体を鍛えることも大事だけど、もっと大切なのは武士道精神(ぶしどうせいしん)を身につけることよ。」


 結衣がそう口にすると、公園の木々を吹き抜ける風が、一瞬強くなったように感じた。彼女の言葉は、単なるアドバイスではなく、彼の内面に深く響くようだった。


「武士道精神、ですか。それはどういうものなんです?」


「簡単に言うなら、侍が生きていく上で大切にした精神性。礼儀、誠実さ、勇気、そして何よりも、自分の信じる道を(つらぬ)く強さのことね。」


「わかったわ。じゃあ私が、あなたを鍛えてあげる。」


 結衣の瞳には、強い決意の色が宿っていた。その言葉には、迷いのない力強さが感じられる。


「武士道精神の何たるかを叩き込んであげるわ。」


 頼もしい顔を彼に向けた結衣に、神崎はかすかに笑みを返した。曇っていた彼の表情が、ほんの少し、本当にわずかだが、明るくなった。


「結衣。ありがとう。」


 その短い言葉には、感謝と、そしてこれから始まるであろう新たな道への(かす)かな希望が込められていた。


「じゃあ、やるなら向こうの世界でやりましょう。」


「異世界の一日は現実世界の1秒だから、365日向こうで過ごしても、こっちでは365秒しか経過しないわ。」


 結衣は明るい笑顔を神崎に向けた。


「あと、新兵器がちょうど完成したところなので向こうで試してみましょう。」


 そう言うと結衣は仕事を早退し、彼女の自宅であるタワーマンションに彼と共に向かった。彼女はこれから彼と二人っきりで過ごせることに喜び、思わず彼の腕を組み自然と笑みが零れていた――。


 

 結衣の自宅に帰ってきた二人は、彼女の部屋から彼女が建てた風車小屋の異世界に飛んだ。そこは相変わらず物静かな空間だった。


 風車小屋の内装は丁寧に畳が敷き詰められ、天井も高く、丸いちゃぶ台は部屋の隅に足を畳んで片付けられ、室内はまさに道場そのものという空間になった。


 広々とした道場の中央に、結衣と神崎は向かい合って立った。神崎の顔には緊張感が(ただよ)っていた。


「じゃあ、これから始めてみるけど、その前にこれね。」


 そう言うと、結衣はポケットからマッドなGFIのバッジを取り出して、自分の服の胸元にそれを付けた。


「それは?」


「これはこの異世界の鉱石を使って開発したナノテクノロジーです。ちょっと見てて。」


 そう言うと、彼女は胸元に付けたGFIのバッジを軽く3回ほどタップした。


ピピピ…!


シュルルルル…。


 なんと、彼女の服の上からGFIバッジを中心に漆黒(しっこく)の繊維が出現し、それらが編み込まれると、GFIの特殊戦闘スーツが彼女の身体を包み込んだ。


「おお…!」


 思わず、神崎から驚きの声が漏れる。


「この特殊戦闘スーツは、以前着た特殊スーツの改良版です。」


「機能性が改善されて動きやすくなっています。」


「あと、AIアシスト機能が搭載されているので、クロノスのような高性能AIが加われば、さらに能力を向上させることも出来ます。」


「まあ、そのクロノスは今はお休み中だけどね。」


「以前のAIクロノスの本体であるスーパーコンピュータ『テセラックト004GR』が、ゼタスケールを超えるエネルギーを検知した影響で『テセラックト004GR』は大破。今は後継機である『テセラックト005GR』にデータ移植作業を進めているけど、記憶データが膨大過ぎて難航してるのよね。」


「だけど、クロノスが帰ってくれば、この特殊戦闘スーツの性能を飛躍的に向上させることが出来ます。」


 そう言うと結衣は、神崎にマッドなGFIバッジを手渡した。


ピピピ…!


シュルルルル…。


 それを神崎は自分の服の胸元に取り付けると、GFIバッジを3回タップし、彼の身体は特殊戦闘スーツに包まれた。それは以前着た特殊スーツより身軽で、確かに動きやすくなっていた。


「AIアシスト機能を使わなくても、自分でもある程度は能力を分散することが出来ます。」


「ノーマル状態でも身体全体がバランスの良い能力配分にはなってますが、全身の能力を抑える代わりに、例えば右ひざの部分だけ強度を増すようなことも出来ます。」


「その機能にAIアシスト機能が加わると、0.001秒という速さで瞬時に力を分散させることが出来るってわけ。その機能を使用するために高性能AIが必要なの。」


 結衣が語る特殊戦闘スーツの説明に、神崎はまだよく呑み込めていない様子だった。


「まあ、今は特に必要ないわね。」


「じゃあ、いいわ。どこからでも掛かってきなさい。」


「組手をして、あなたの実力がどの程度なのか見てあげる。」


 そう言うと結衣は神崎に向かって構えを取った。


「え?組手って何をすればいいんだ?」


 格闘技をやったことがない神崎は戸惑った。


「なんでもいいから襲ってくればいいのよ。」


 神崎は息を呑んでぎこちない構えを取った。彼は格闘技どころか人とまともに喧嘩もやったことがない。とりあえず、彼は結衣に向かって右拳を突き出してみた。


 すると結衣は流れるような動きで、それを右手で受け止めると合気道の技で軽々と彼を投げ飛ばす。彼は不思議な力で翻弄(ほんろう)され、身体全体が浮き上がり、畳に叩きつけられた。


ドターン!


 初めて体験する本格的な合気道の技に、彼は(ひたい)に汗が(にじ)み、固まってしまう。


「ほら、どうしたの?もっと来なさい。」


 普段の彼女の優しい顔と違って、そこには合気道の有段者としての顔があった。


 慌てて畳から起き上がると、彼は右拳や左拳を突き出し、思いつく限りの蹴りも繰り出すが、彼女はそれら全てを受け止めて、軽々と彼を投げ飛ばしていた。


 風車小屋の外は神崎が畳に叩きつけられる音が鳴り響いていた。


「はぁ…はぁ…!」


 神崎は息を切らしながら、全身汗を吹き出し、畳にへこたれていた。


「じゃあ、少し休憩にしましょう。」


 彼の指導に熱が入る彼女も全身汗を流し、頭からゆげが立っていた。彼女はタオルで汗を拭っていた。


「はぁ…!はぁ…!すごいな…結衣。」


「一発も攻撃が入らない…。」


 結衣の底知れない強さに神崎は改めて驚いた。


「当たり前じゃない。今日始めたばかりの初心者が有段者に勝てるわけないもの。」


「いいのよ。今のは、あんたの力量を計ってるだけだから。」


 結衣はもう呼吸を整えて終えていたが、神崎はまだ息を荒げていた。


「はぁ…はぁ…、しかし、合気道って凄いな…。」


「合気道とは、入身いりみ転換てんかんといった『体捌(たいさば)き』と『呼吸力(こきゅうりょく)』を活用しています。」


「投げ技、(おさ)え技、関節技など、様々な種類の技があるんだけど。これからみっちりあなたに叩き込んであげる。」


「あと、『合気は愛なり』と言ってね。単に武術の鍛錬だけでなく、礼儀や相手への尊重といった精神的な修養(しゅうよう)も大事ね。」


「へぇ…。」


 それから結衣による彼への合気道の指導は連日続いた。


 彼女らは現実世界には戻らず、しばらく異世界の結衣の風車小屋で寝泊まりし、彼女の優しくもあり厳しい指導は続いた。


 その甲斐もあり、彼は少しずつ合気道の技やコツを身に着けて行った。


「ほら。前に教えたでしょう?こう来たらどうするの?」


 結衣の拳を神崎が受け止めると、合気道の『転換てんかん』を使用し、体の向きを素早く変える動きを見せた。


「なるほど、こうやって力を逃がすのか。」


 それからも結衣の熱心な指導は続き、異世界で三か月が経過した――。現実世界では約90秒が経過。


 結衣の熱心な指導の甲斐もあり、神崎の飲み込みも早く、彼はメキメキと上達していった。気が付くと彼は結衣と互角に組手が出来るまでに上達していた。その上達ぶりに結衣も関心していた。


「よし。じゃあ基本の型はこれぐらいでいいわね。」


「そろそろ、実戦を意識した真剣勝負をやりましょう。」


 道場の中央に並ぶ二人は、互いに礼をし身構えた。


 これまでの練習ムードとは違い、互いに間合いを取ってどちらも攻撃を仕掛けない――。



 張り詰めた静寂を切り裂くように、結衣の足が畳を強く踏みしめた。


ダン!


 研ぎ澄まされた刃のような鋭い眼光が神崎を(とら)え、これまで見せたことのない速さで、一直線に彼の(ふところ)へと飛び込む。繰り出された渾身(こんしん)の一撃は、空気さえも切り裂くような勢いだ。


 しかし、神崎は寸前でそれを捉え、体捌(たいさば)きで結衣の体勢を崩す。宙に浮いた彼女の身体は、無情にも畳へと叩きつけられたが、熟練の動きで衝撃を逃れる。


 刹那(せつな)、好機と見た神崎は追撃に移ろうとしたが、彼の足はまるで地面に()い付けられたように、ぴたりと止まった。


「…ん?何やってるの?」


 畳に背をつけたまま、結衣は(いぶか)しむように神崎の顔を見上げた。


 彼の動きは完全に止まり、先ほどの勢いは嘘のようだ。理解できないといった表情が、彼女の瞳に浮かんでいる。次の瞬間、彼女はバネのように素早く起き上がり、無駄のない動きで再び戦闘態勢に入った。


 獲物を狙う獣のように、じりじりと神崎との距離を詰めていく。そして、再び、研ぎ澄まされた刃のような突きが彼の喉元(のどもと)へと迫った。


 だが、今度も神崎はその攻撃を受け止め、流れるような体捌(たいさば)きで結衣の身体を宙へと舞い上げる。背中が畳に落ちる寸前、またしても彼の動きは硬直した。


 結衣(ゆい)は仰向けのまま神崎を見上げ、彼は彼女を見下ろす。言葉のない時間が、重く二人の間に漂っていた。


「もう!何やってんのよ!」


「チャンスだったじゃない!」


結衣の苛立(いらだ)ちを(ふく)んだ声が、静寂(せいじゃく)を破る。神崎は、ただただ真剣な眼差しで結衣を見つめ、沈黙を守っていた。


「……ない…。」


 彼はボソッと(つぶや)いた。


「え?なんて…?」


 神崎は結衣(ゆい)から顔を反らした。


「できない…。」


「え?できないって、どういうことよ?」


 彼は目をギュッと(つぶ)り拳を震わせる。


「お前に本気で攻撃を与えるなんて、出来るわけないだろう…。」


「ちょ、ちょっと…!あんた、なに考えてるのよ!」


「これが実戦だったら、あなたが相手にやられてたかも知れないのよ!」


 彼の優しい心が彼女に留めを刺す攻撃を止めてしまったのだ。


「できるわけないだろう!」


 彼にとって恋人に手を上げることは苦痛でしかなかった。


「ダメよ!真剣勝負の世界では、そんな甘いこと言っちゃダメ!」


「最後まで攻撃を打ち抜きなさい!」


 二人の間にさらに緊迫した空気が(ただよ)った。


 彼はゆっくり立ち上がると風車小屋から出ようとした。


「どこ行くの!戻りなさい!まだ勝負は終わってないのよ!」


 だが、彼はそのまま現実世界に戻って行ってしまった。


「神崎…。」


 結衣の顔に不安な顔が宿った。急いで彼女も彼を追って現実世界に戻った。


 神崎が現実世界に戻ると、そこにAIエピメテオスの姿があった。


「おかえりなさい。神崎さん。」


 だが、神崎は何も言わずに部屋を出て行った…。


 結衣も後を追って現実世界に戻ってきた。


「神崎!どこに行くの!」


 彼女の声が空しく部屋の中に響くだけだった…。


「お二人ともどうしたのですか?」


 事情を知らないエピメテオスは、結衣に話し掛けるが彼女にはその声は届いていなかった。


 雨が降りしきる中、神崎は傘も刺さずに雨に打たれながら俯いて歩いていた。


 彼の優しさは、残酷な現実の前では、もろくも崩れ去ってしまうのだろうか…。


 異世界での三か月に及ぶ結衣の指導のおかげで、彼の合気道の実力は確かに備わっていたが、恋人である結衣に本気で攻撃を与えることは彼には出来なかったのである。


 だが、それは彼が真剣勝負の世界では不向きであることを物語っている。


 結衣は彼に武士道精神を与えたつもりになっていたが、彼は本当の意味での武士道精神を理解することは出来てなかった――。


 しばらく彼は雨に打たれながら外を歩き回ったが、どこにも行く当てはなく結局、結衣のタワーマンションに戻ってきた。


 ずぶ濡れになった神崎と結衣は黙ったまま向かい合っていた。部屋には静まり返った空気が漂う。


「どう?外をほっつき歩いて気が済んだ?」


「………。」


「こんなこと言いたくないけど、あなたは優しすぎるのよ。」


「だけど、優しさだけでは、何も守れない時がある。敵は、あなたの優しさに容赦などしない。」


「いい?神崎。武士道に言い訳など存在しない。結果が全て。もしあなたが大切な命を守れなかったとしたら…。」


 彼女がその先を言おうとした時、結衣の口を防ぐようにして神崎は彼女にキスをした。


 それを結衣は突き放した。


「やめて!」


「キスでごまかさないで!」


 結衣の声には、もはや怒りだけでなく、深い失望の色が滲み、彼女は涙を流していた。


 神崎は(うつむ)いたまま、何も言わない。雨水が彼の髪から滴り落ち、床に小さな水たまりを作る。部屋には、雨音だけが響いていた。


「神崎…あなたはもっと強くなれる。」


「私はそう信じている。だけど、変わるのはあなた自身よ。」


「自分の弱さと向き合い、それを乗り越える決意を持つこと。」


「それが、 真の武士の道よ。」


 結衣の言葉は、雨音の中に消え入りそうになりながらも、確かに神崎の耳に届いていた。彼の俯いた顔に、わずかながらも変化の兆しが見え始める――。


「それに忘れたかしら?」


「異世界での身体は精神的な状態で、向こうで傷ついたとしても現実世界の肉体は無傷だって。」


 神崎の顔には、諦めにも似た表情が浮かんだ。


「わかったよ。」


 意を決した二人は再び異世界へと渡った。


 結衣の風車小屋の道場の中央で、二人は向かい合って立った。


 二人の間には、張り詰めた空気が流れた。


 神崎は呼吸法で精神を統一すると、静かに結衣に向かって身構えた。


 結衣もまた、厳しい表情で神崎に身構えた。


 しばらくの間、二人は身構えたまま動かなかった。風車小屋の窓の外からは、エピメテオスが静かに二人を見守っていた。


 その沈黙を破ったのは、結衣の動きだった。彼女は鋭い踏み込みで神崎に迫り、技を仕掛けようと手を伸ばした。


 神崎は、結衣が技に入る直前のわずかな間合いを見切り、その攻撃を防いでいく。だが、結衣の繰り出す激しい攻撃は止まらない。


 その時だった。


 神崎が独自に編み出した究極奥義「天之逆鉾あまのさかほこ」が炸裂した!


 それは、これまでの鍛錬(たんれん)(つちか)ってきた合気道の体捌(たいさば)きと呼吸法を極限まで高め、その奥底に眠っていたアベルとしての偉大な力を奔流(ほんりゅう)のように乗せるものだった。


 結衣は平衡感覚(へいこうかんかく)を失い、強烈な圧迫感に襲われ、激しく床に叩きつけられた。


「ぐっ…!」


 あまりの痛みに、結衣は苦痛の声を上げた。


 彼女は鼻血を流し、身体をぴくりとも動かせなくなっていった。震える身体で、結衣は「やればできるじゃない…。」と声を振り絞った。


 神崎は何も言わず、目に涙を浮かべながら床に倒れる結衣に右手を差し出した。


 彼にとって恋人に手を出すことは苦痛でしかなかった。


 差し出されたその手を、結衣は震える手で掴んだ。


 それは(かつ)ては、結衣が神崎に対して行った行動だった。


 あの女子高生失踪の真相を追う中で、勇気が出なくて震えているだけしかできなかった彼に、結衣は右手を差し出すことで彼の中の勇気を目覚めさせた。


 だが、今は神崎の方が彼女に右手を差し出してる。結衣が彼の手を握ると彼は彼女の身体を力強く引き上げた。もうそこには(かつ)ての弱々しい彼の姿はなかった。


 その腕は、かつての頼りなげなものではなく、確かな力強さで結衣を引き上げた。


 その横顔には、優しさと、迷いのない勇気が静かに宿っていた。


 結衣はその彼の成長が嬉しくして感動し、彼の唇に彼女の唇を重ねた――。


 彼女の(ほほ)には一筋の涙が(こぼ)れていた。



 こうして物語は、敵の襲撃と逃走劇が始まった、あの高級ディナーショーの場面に再び焦点(しょうてん)を当てる――。


 席を外した結衣は女子トイレで敵美女に襲われ右頬(みぎほほ)に強烈な蹴りを食らっていた。その危機を知った神崎もまた、背後からの脅威(きょうい)に気づく。


 混乱の中、無人の結衣のランボルギーニが滑り込むように会場に横付けされ、AIエピメテオスの声が響く。『お二人とも、早くお乗りください。』二人は車に飛び乗り、爆音を(とどろ)かせながら、夜の街へと走り去った――。




第十一話 完


第十二話に続く

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