8)噛みつき魔3
目の前には湯気を上げるラーメンがあり、濃いスープの香りが食欲をそそる。いただきます、と手を合わせてから箸で麺を掬い取った。軽く息を吹きかけてから一気に麺をすする。口一杯に広がるがっつりとした豚骨の味に、僕は腹と心が満たされていくのを感じた。僕の身体は米とおかずと、それからラーメンでできている。
「この暑いのによくラーメンなんて食べますね」
向かい側に座る美智は菓子パンを頬張っている。
「暑い時に熱いものを食べるのがいいのさ」
お昼時を少し過ぎた学食は空席が目立つ。まばらに座る学生たちは思い思いの時間を過ごしており、僕たちのことなど視界にすら入っていないようだ。
「ところで、吸血鬼は人間の血が主食だろう?こういう普通の食事も摂るものなのかい?」
少しだけ声をひそめる。人間の食事で満足できるのならば、僕のように血を飲まずに暮らせるのだろうか。
「個体差があります。私はこういう食事も美味しいと感じますけど、味覚が合わなくて食べられない吸血鬼もいます。そういう人は血を飲むことでしか飢えを凌げないので、我々より生きづらいでしょうね。
私も今はほとんど人間の食事で生きていますが、月に一、二度は耐えられずに牛や豚の血を飲んでいます」
「血だったら人間じゃなくてもいいのか」
「というより、人間の血は高価で一般の吸血鬼が手に入れることは難しいのです」
吸血鬼の世界では、血液が売買されているということか。そこら辺の人間を襲って食うという僕の想像とは違うらしい。
「意外かもしれませんが、吸血鬼が人間を直接襲うことは禁じられているのですよ。だから唐橋一門という由緒ある吸血鬼の一族が、食肉企業を経営する裏で家畜の血液を吸血鬼に流通させています。私たちはそこから血液を購入して生きているというわけです」
「人間を襲うと何かペナルティがあるのかい?」
「実はちょっと面白い制度がありましてね」
美智は懐からスマホを取り出し、操作すると僕に画面を向けてくる。
それは指名手配犯のポスターのような画像だった。知らない男の写真があり、その下に懸賞金百万円と書かれている。そのほかに男の体型や最終目撃地、起こした事件の詳細がある。画面をスクロールすると、別の人物の写真があり、懸賞金額も異なるようだ。
「これは登録した吸血鬼のみが閲覧できるサイトです。ここに載っているのは、食欲を抑えきれずに人間を襲った吸血鬼たちです。生死は問わず、彼らを捕まえて唐橋一門に差し出せば懸賞金が貰えます」
「そんなことが、この現代にあるのかい?」
不敵に笑って頷く美智に、僕は目眩をおぼえた。吸血事件のほとんどが未解決もしくは犯人の死亡で方が付いていたことを思い出す。それは逮捕される前に犯人が消されていたということか。
「ここに載るのは凶悪犯ばかりですから、今回のような警察に届出すらされていない事件は当然載っていませんけどね。もっと被害者が増えて、警察沙汰になれば唐橋一門も動くかもしれません」
「その唐橋一門というのは、吸血鬼をまとめる組織という認識で合ってる?人間を守ってくれているということかい?」
美智の笑い声が学食に響き渡った。近くの学生が咎めるような視線を向けるが、彼女の笑い声はなかなかおさまらない。僕は人差し指を唇に当てて必死に彼女を止めた。
「羽賀さん、静かに。目立っちゃうよ。おかしなことなんて何も言ってないし」
ひぃひぃと腹を押さえながら、美智はようやく静かになった。
「だってあなたが面白いことを言うから。唐橋一門が人間を守ってる?そんなことあるわけ」
再び笑いの波が押し寄せて、彼女は肩を震わせた。僕はとんだ見当違いの発言をしたらしい。
「唐橋一門の仕事は、吸血鬼の存在が人間に知られないようにすることです。それはすべて、自分たちが快適に暮らすため。吸血鬼の存在が明らかになったら我々は狩られてしまいますからね。
彼らは人間のことなどただの食糧としか考えていません。入手方法は不明ですが人間の血を販売していますし、人間に気づかれていない吸血事件については、どんなに大規模でも手を出しません。吸血鬼の、いや自分たちの生活が脅かされると感じた時だけ、彼らは動くのです」
僕は自分の甘い考えを改める必要がありそうだ。今まで人間として生きてきた僕とは価値観や倫理観が大きく異なるのだ。そして当然、美智の思考も唐橋一門に近いはずだ。
僕は自分だけが歳を取らないことがつらくて、一人で生きていくのが恐ろしくて、美智という吸血鬼に近づいた。だが僕が今まで愛してきたのは全員が人間だ。寿命が同じだからと言って、人間を食糧としてしか認識していない吸血鬼と共に生きていくことなどできるだろうか。
「顔色が悪いですよ。お茶を飲んで」
差し出されたコップの麦茶を一気にあおる。ずいぶん不味い麦茶だったが、不思議と気分が落ち着いた。不安を煽るように悪い想像ばかり繰り返していた脳みそは、ぼんやりとして思考を止める。
「ねえ、私は人間を食糧だなんて思ってないですよ」
また心を読まれている。僕をまっすぐ見つめる彼女の瞳は、巧みに本心を隠す。きっと信じるべきではない。
「羽賀さん、僕は」
「言ったはずです。私のことは名前で呼んでくださいね、善君」
僕は視線をそらせない。彼女に言いたかった言葉は組み立てる前に崩れてしまった。行き場をなくした舌が口の中で空回りして意味を成さない呻き声に変わる。
「とにかく噛みつき魔を見つけましょう。色々と考えるのは、それからでも遅くはないでしょう」
「分かったよ、美智さん」
僕にはそれだけ言うのが精一杯であった。
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