7)噛みつき魔2
気がつけば美智が僕の顔を覗き込んでいた。サングラスを外した彼女の瞳には、僕の泣きそうな顔が映り込む。
「そんなにショックでしたか」
僕の口からは肯定とも否定ともつかない呻き声が漏れた。
「寿命が五百年と言っても、そこまで生きるとは限りませんよ。明日事故で死ぬかもしれませんし、吸血鬼だって病気になることもあります。そう悲観することでもないでしょう」
彼女はそう言い放って、大股で歩いて行ってしまう。僕も続いて日陰を出て小走りで追いつくと、並んで大学への道を進む。
すれ違う楽しげな若者たちは午前中で授業を終えた大学生だろうか。悩みなど無いかのような大きな笑い声は、僕の沈んだ心を締めつける。
「ねえ、あなたは死にたかったのですか?」
日傘の下から声がした。僕は首をひねる。
「死にたいとは違うと思う。なんだか取り残されたような感じだ。みんなで同じ所に行くと思っていたのに、お前は違うと僕だけが突き放されたような」
言葉にすることが難しい。泥の沈んだ水を掻き回せば濁るように、触れなければ澄んだままだった心が少しの刺激で暗い感情に染まってしまった。ずっと心の奥底に沈んでいることは分かっていたのに、今まで掻き回さないようにして見ないふりをしていた感情だ。それがなんという名前なのか、僕には分からない。
「僕もみんなと同じように歳をとりたかったのかな」
呟くと、肩に日傘が当たった。彼女が顔を上げてこちらを見ていた。
「私は九十二歳です」
「二つ年下だ」
「そして私は吸血鬼。お分かりですか?」
「歳をとる速度は同じってことかい?」
「察しが良くて助かります。会ったばかりの私では不満でしょうが、吸血鬼の友達を探すことはあなたの心を少し楽にしてくれるかもしれませんよ」
再び日傘が彼女の姿を覆い隠す。淡々とした口調だったが、僕を元気づけてくれたようだ。
いつの間にか大学の正門に到着していた。門扉は大きく開かれており、若者たちが出入りしている。
ためらう僕の腕をつかみながら、美智は自然な足取りで中に入った。
「学生証がなくても入っていいんだね」
「被害者を探しましょう。三年生の小竹という学生です」
どうやって、と僕が問いかける前に、彼女は正面から歩いてきた男子学生二人組に近づいた。
「すみません、ある先輩を探しているのですが」
突然話しかけてきた美智に、学生は困惑したようだったが、彼女は気にも留めない。
「三年生の小竹さんという先輩なんです。テニスサークルに入ってるらしくて、ね?」
おろおろと目を泳がせていた僕は曖昧に頷く。学生は僕を不審げに見やり、それから美智に視線を戻した。
「小竹なら同じ講義取ってるけど。なに、なんの用?」
「小竹先輩が帰り道で誰かに噛みつかれたって聞いたんです。実は、善君もやられたんですよ。だから同じか確かめたくて」
彼女の瞳が話を合わせろと言っている。そういうことなら事前に言ってくれないか。
「そうなんだ。僕は腕を噛まれてね。傷はもう残ってないんだけど」
男子学生は記憶を探るように目線を空に向け、それからぽんと手を打つ。
「なんかそんなこと言ってたわ。てか警察呼んだ方が良くね?大学生狙って噛みつくとかやばいやつじゃん」
「噛みつくとか、あいつじゃんね」
「おい、やめとけって」
男子学生の隣で話を聞いていた友達が口を挟む。半笑いの声は、誰かを揶揄するようだった。
「何か心当たりがあるんですか?」
「二年生に噛みつき魔がいるって噂になってんだよ。飲み会で酔うと、男女構わず首やら腕やらに噛みついちゃうって。しかもそいつ、超イケメンだからお持ち帰りしまくってるらしい」
「ただの噂だろ。俺たちは実際会ったわけじゃないから本当のところは分からないよ」
美智のきらきらと輝く瞳と視線がかちあった。
「へえ、そんな人もいるんですねえ。超イケメンなら会ってみたい気もしますが」
男子学生には小竹の取っている講義を聞いて別れる。しかし美智の興味は既に小竹から、噂の噛みつき魔へと移っていた。
「噛みつき魔とお話ししてみたいですね」
「犯人はその人なのかな。また聞き込みしてみるかい?」
「いいえ。嗅ぎ回っている者がいると本人にバレるのは危険です。気づかれないまま、手がかりを探せると良いのですが」
やはり吸血鬼に接触するのは危険が伴うらしい。爽太を連れて来なくて良かったと思う反面、現役大学生の彼がいれば良い方法を提案してくれるかもしれないとも思う。
「お腹が空きましたね。食堂へ行きましょう。そんなに怯えずとも血なんて飲みませんよ」
僕の表情を敏感に読み取ってくる彼女は少し恐ろしい。もし嘘をついたとしても簡単に見破られてしまうだろう。
「大学生に混じって食事をするのも楽しそうです」
僕には彼女の言葉が本心かどうかわからないが、少なくとも彼女は無邪気な笑みを浮かべていて、全くの嘘というわけでもなさそうだ。一方的に心を見透かされるのは気分のいいものではないが、作ったものだとしても笑顔を向けてくれる彼女には同じような表情を返せたらと思う。
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