16)空腹の吸血鬼3
トバネは小さい頃から吸血衝動を制御できないのです、と遠山サヨコは言った。
僕たちは五十川トバネの部屋に上がり込み、小さなちゃぶ台を四人で囲んでいた。ワンルームのアパートは大人四人が集まるには狭く、お互いの肩が触れ合いそうだ。
「空腹になるたびに人間を襲っちゃうってことかい?」
僕は背後のベッドに寄りかかりながら聞いた。頭の傷が鈍く痛む。
「ええ。こまめに血を飲んで気をつけていても、さっきみたいに我を失ってしまうことがあるのです」
「つまりサヨコさんは、そんなトバネ君の制御役ということですね」
美智の問いに、サヨコは小さく頷いた。
「トバネが問題を起こさないように見張る代わりに、五十川家から見返りをもらっています。私は五十川家の使用人のようなものです」
「では、トバネ君の代わりにキル名簿に載せられることも想定内?」
「まさか」と声を上げたサヨコは、隣で膝を抱えたトバネをうかがいながら、取り繕うように続けた。「最近のトバネは特に吸血衝動を抑えられなくて、大学の通学路で人間を襲っていました。それを止められなかった私にも責任はありますが、それでも殺される謂れはありません」
吸血衝動というものを感じたことがない僕にとっては納得できない話だ。お腹が空いたくらいで人を襲う?そうなることが分かっているならいくらでも予防できるじゃないか。
「オニヒメちゃんは、私を救えると言いましたよね。私はどうすればいいですか」
前のめりになるサヨコに対し、美智は輪郭にかかる金色の髪を人差し指でくるくると巻き取り、弄んでいた。
「トバネ君はどう思っているんですか。自分の行いでサヨコさんが殺される件について」
俯いていたトバネは美智の言葉にびくりと肩を震わせて、目線を泳がせた。飲み会で同級生たちを自在に操っていた、あの自信たっぷりの姿からは似ても似つかない。何をそんなに怯えているのか。
「キル名簿にサヨちゃんの名前を載せたのは五十川の奴らだと思う。俺はあの人たちに逆らえない」
「五十川の意向なら、サヨコさんが殺されても仕方がないということですね」
「そんなわけがないだろう。僕のせいでサヨちゃんが死ぬなんて耐えられない」
「ではトバネ君が五十川家に、キル名簿への掲載を取り下げるよう呼び掛ければ解決しますよね」
「だから、俺は五十川に逆らえないんだって」
苛立ちを隠さずにトバネは髪の毛を掻きむしった。深い事情があるに違いないが、それでも大切な人の命がかかっているのだから、家族に逆らうくらいのことはしてもいいのではないかと思う。
だが一方で、体つきはすっかり大人の彼が家族に怯え、逆らえないと絞り出すのは、子供の頃から酷い目に遭ってきた証拠なのかもしれない。あんまり責めるのも可哀想だ、ともう一人の僕が言う。
「他の方法は無いんですか。トバネは小さい頃から五十川の後継として厳しく育てられました。この子の扱いを知れば、五十川に逆らえなんて言えないはずです」
乾いた笑いが美智の口から漏れた。
「命がかかっているのをお忘れですか。助かりたいのなら、あなたがすべきなのは私に詰め寄ることではなく、トバネ君を説得して五十川に依頼を取り下げさせることでしょう」
あなた方の事情など私には関係ありませんよ、と美智は冷たく突き放した。
僕は痛む頭を動かして彼女を盗み見る。その眉間に寄った皺は怒りを表しているのだろうか。
どうして君はそんなに怒っているんだい?
「サヨちゃん、ごめん。俺のせいだ。俺が必ず守るから、一緒にどこかへ逃げよう」
まるで愛の告白だ。
追い詰められたトバネの縋りついてくる腕を、しかしサヨコは強く払った。
「しっかりして。私は一生逃亡生活を送るのは御免よ。いつ来るかもわからない賞金稼ぎに怯えながら生きながらえたとして、それが幸せだとは思えないわ。だったら死んだほうがマシ」
「サヨちゃんがいない生活なんて考えられない」
「じゃあ考えるのよ。トバネ、あなたは五十川家の次期当主でしょ?私のことが好きなら、もっとしゃんとして。どうやったら二人で生きていけると思う?」
このまま二人は熱く口づけを交わし、愛を誓い合ってもおかしくなかったと思う。そうならなかったのは美智の冷たい視線が注がれ、僕が若者たちの眩しさに目を細めたからかもしれない。
とにかく、愛の力というのはいつの時代も男に勇気を与え、奮い立たせるものである。トバネは今までの苦悩が嘘だったかのように覚悟を決めた表情で美智を見据えた。
「どうすれば五十川を説得できる?」
美智は大袈裟にため息をついてみせた。
「安っぽいメロドラマでも見せられたような気分です。つまり最悪という意味ですが」
そう言いつつも彼女は続きの言葉を紡ぐ。
「私が提案しようと思っていた案は三つあります。一つ目は、トバネ君が五十川家を説得して依頼を取り下げさせること。二つ目は、サヨコさんの遺体を偽装して死んだことにする方法。私のコネを活用すれば不可能ではありませんが、手間と時間とお金がかかります。更に、サヨコさんは今の生活を全て失うことになります。三つ目は、私の友人にお願いしてキル名簿からサヨコさんの名前を削除してもらう方法。お手軽ですが、サイト上の名前を消すだけなので五十川の者に気づかれれば、再掲載されてしまうでしょうね」
簡単で安全で、確実な魔法の選択肢は存在しないようだ。どの選択肢を選んでも、二人は苦しむことになる。
「俺がうまくやれれば、サヨちゃんは助かる。五十川に逆らえば、全てがうまくいく」
呟いたトバネの声は震えていた。一つ目の選択肢を選ぶようだ。サヨコのことを第一に考えるのならばそれが最善だろう。
「トバネ、私は死んだことにしてもらってもいいよ。また一からやり直せばいいんだし」
「駄目だ。すごく頑張って勉強して受かった大学だろ?それをなかったことになんてできないよ」
「五十川家を説得するのですね?」
美智の問いかけに、二人は深く頷いた。
「トバネ君にとっては苦しい状況になるかもしれませんが、最後までやりきれそうですか?あなたの心が折れてしまえば、サヨコさんを救えませんよ」
「大丈夫だ」
「では作戦を練るとしましょうか」
美智は両手を合わせて音を鳴らした。ここからは彼女の得意分野だろう。彼女と言い合いをしたとして、僕には勝てるイメージが全く湧かない。
「トバネ君、死ぬ覚悟はおありですか?」
「それでサヨちゃんを助けられるなら」
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