第6話 【ラスプーチン】
ラスプーチンは、ペテルブルグで常に彼を監視していた日本人のことを思い出していた。現在、日本に来ているという彼の境遇が、そんなことを考えさせてしまっているのかもしれなかった。
脳裏に焼きついたその男の目を彼は回想していた。その印象的な目が何を語っていたのかということを想像するだけで、自然と笑みがこぼれた。
先程、すれ違った化物の目を見た時の印象とは真逆の感覚であることに思い至って、少しほっとした気分になった。
(あの目こそ噂で聞いていたサムライ精神の象徴なのかもしれない。ヨーロッパでは騎士道というべきものなのか。なんと神秘的なことだろう。祖国ではすでに失われたものがこの国にはまだ残っているのだ。市井の中にもあんな目をした人間がまだまだたくさんいる。沈みかけている帝政ロシアとは大きな違いだ)
ペテルブルクを発つ直前に、ラスプーチンは彼の手下の魔術師に、「あのサムライのような日本の外交官・ムナカタに脅しをかけろ」と命令を下した。
しかし、その目論見は失敗に終わった。ラスプーチンの手下は見事に返り討ちにあって、無様にも撃退されて戻ってきたのだ。
その後、ムナカタはラスプーチンの足跡をたどって北京まで追ってきた。そのためにラスプーチンは表立った身動きがとりにくくなり、予定していたことの大半は彼の手下を使うことによって実行せざるを得なくなった。
北京での情報収集を終え、彼の次の行先がやはり日本だと定まったとき、ラスプーチンはムナカタをまく方法を思案し、それを実行に移した。しかし、それは単なる時間稼ぎにしかならないことはわかっていた。
それでも、それが成功すれば三週間くらいは、ムナカタを清国内に足止めさせることができる算段だった。追いつかれるまでにそのくらいの時が稼げれば、日本での行動を極秘裏に進めることは容易になると彼は考えていた。
結果、ラスプーチンはムナカタをまんまと出し抜いて、一足先に彼の祖国である日本に渡ることができた。
今頃は上海あたりで足止めを食らっているはずのムナカタのことを思うと、少し気の毒のような気もしたが、それでもにんまりとせずにはいられなかった。
彼の夢想を破るかのように、唐突にドアをノックする音がした。
その音には合図のような響きがあった。そのため、手下が戻ってきたのだと容易に判断することができた。
「イワンか、入りたまえ」
返事と同時にすっと扉が音もなく開いた。そして、部屋の内側に忍び込むように、中肉中背の黒い背広を着た男が入ってきた。
「何度言っても、直らない。貴様はロシア帝国の外交官なのだ。普段は平凡な人間の立ち居振舞いをしろと言っているだろう。それだと逆に怪しまれる」
「申し訳ありません。小さな頃から、このような身のこなししかしていませんもので」
「まあいい。しかし、できる限り気をつけるんだ」
ラスプーチンは冷たい表情でイワンを見た。
「それで、足取りはつかめたのか」
イワンは頬の引きつるような笑みを浮かべた。
「はい、潜伏先ならつきとめました」
「そうか、ごくろうだった」
イワンは表情ひとつ変えずにラスプーチンを見ている。
「どうやら、早稲田という学校で平凡な留学生になりすましています。しかし、裏ではいろいろと画策しているようです」
「画策?」
「はい、はっきりとした意図はわかりませんが、ただ──」
二人の話を聞いている者がいないことは明白なのに、イワンはラスプーチンのそばに寄って耳打ちをした。
「なるほど、面白いことを考えたものだ」
彼の目は涼しげに輝いた。そして、さまざまな憶測が彼の脳裏を駆けめぐっていた。何を取捨選択すればいいのか。次にどのような手を打つべきなのか。
「それで、それは有効なのか」
「気になりますか」
イワンは意味ありげに笑った。
ラスプーチンは何も答えない。ただ、冷たい視線がイワンを射た。
「失礼しました。どのような結果を生み出すのか、その経過を見極めている途中のようです。ただし、臨床的な実験を遂行しているのは一例だけのようです。実験に使われている男は二十代後半くらいの男性で、その男は被験者と呼ばれていました」
「ほう、やけに慎重だな」
「はい、その点については臆病なくらい頭がまわるようです。この国の警察組織は意外と厳しいものがありますし、大衆もやけに道義的です。国民性というものでしょうか」
ラスプーチンもその点は同じように感じていた。
(この国の多くの人間の目はまだ生きている──)
「それで、その一例というのは?」
イワンはラスプーチンのそばによって再び耳打ちをした。
「面白い人選だ。そのうち会って見定めてみたいものだ。しかし、どういう経緯でそんな地獄に陥ってしまったのか」
イワンがもたらした情報は、清国で西太后と謁見したときのことをラスプーチンに思い出させた。
ただし、ラスプーチンの旅程はすべて隠密ということになっていたので、日本に来ていることも、途中で北京に立ち寄ったことも、清国の実質上の主である西太后と会食の場を設けたことも公にはなっていない。
ラスプーチンはすっと目を細めた。あのときの記憶がよみがえってくる。しかし、それは楽しかったという感慨をともなってはいなかった。
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西太后を一目見た彼は、醜い老婆だという嫌悪感に似たものを持っただけであった。もちろん、そんな気持ちはおくびにも出さずに愛想笑いを浮かべていた。
北京に旅立つ前段階で、あらかじめロシア皇帝ニコライ二世に根回しを頼み、清国では非公式だが国賓扱いという待遇が整っていた。そのため何の障害もなく紫禁城で西太后への謁見が許された。
西太后は話好きだった。それは年老いた人間にありがちな性癖ともいえた。
一応、非公式な謁見をすませた後、ラスプーチンは彼女の離宮に呼ばれることになった。そこで、思わぬ歓待を受けることになるのであるが、そのときの会話の流れは西太后の一番の関心事である不老不死の話題に絞られていった。
どこから情報を仕入れたのか、西太后はラスプーチンがロシアの皇太子アレクセイの病を治したことを知っていた。そして、どのような方法を使ったのかという質問を彼に浴びせた。ラスプーチンは簡単に答えた。
「神に祈っただけです。人は心の力を何も理解していないから、わたしが手をかざしただけのことを奇蹟だなどというのですよ──」
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ラスプーチンの意識は、その言葉を発したときの余韻を伴って現実へと引き戻されていった。彼の脳裏には、生に固執した一人の醜い老婆の見るに堪えかねる顔が浮かんでいた。その顔は彼に吐き気を催させた。
(所詮、不老不死などという思想は、よまい言に過ぎないのだ。人間は死ぬことによって、人間として完成する。だから、その死は厳粛に受け止めるべき必要がある)
(各々が完成する瞬間を、各々が予測することはできない。死の瞬間は唐突にやってくるように見えるが、それは決して唐突ではない。すべてを全うしているからこそ、やってくるのである)
(神がお導きくださる瞬間を人事で延ばすことなど不可能なのだ。もし、神がお導きでなかったなら、ピストルで頭を打ち抜いても一命とりとめることになるであろう。しかし、その逆であったなら、転んだだけなのに頭を打って死ぬこともある)
(ほとんどの人間が定められし時を先へ先へと延ばしたいと考えている。その気持ちはわからないでもないが、しかし、それは愚かなことだ)
離宮での会談において、西太后が躍起になって不老不死の薬を探し求めているという話を延々と聞かされた。「不老不死の薬ではなく、若返りの薬でも探したほうがよいのでは」と、もう少しで口に出してしまうところだった。
西太后の話を聞くに及び、彼女の真意が不死にあるのか、それとも若返りにあるのか理解できなくなった。あの年格好で永遠に生き長らえても意味があるとは到底思えなかった。
いずれにせよ、そのような便利なものがこの世にあるわけはないのだが、その話が遠因となって、彼が日本へ足を伸ばそうと決断したことは事実だった。
ただし、ラスプーチンは不老不死や若返りなどということに興味は抱いたわけではない。その会話の中にダイヤモンドの原石を見つけただけに他ならない。
ラスプーチンはイワンに視線を移した。先程から、彼が話しかけてよいものかどうか迷っていることには気づいていた。彼はその隙をイワンに与えることにした。
イワンはようやく安心したように口を開いた。
「忘れていた報告がありました。大隈重信という伯爵から面会の要請が来ておりますが」
ラスプーチンは露骨に顔を歪めた。
「何の用だ」
「さあ、わかりません。どう返答いたしましょうか」
しばらく思案していた彼の口元が微かにほころんだ。
「どこから漏れたのか、わたしが日本に来ていることを知っている以上は、その御仁と会わないわけにはいくまい。その交渉はお前に任せる」
ラスプーチンは立ち上がって、さも修道僧らしく胸で十字を切った。
「これもすべて神のお導きか──」
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