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第5話 【ニコライ大主教と悠里お嬢様】

 カサーツキン・ニコライ大主教は七十歳を超える老体ではあるが、ほとんど若き日と変わらず、精力的な布教活動を東京で続けていた。


 彼はロシアの首都ペテルブルグの神学大学の卒業を目前にひかえた一八六一年、日本では文久元年と呼ばれた年に、函館のロシア領事館附の修道司祭として日本にやって来た。


 そこから日本での伝道を開始し、気がついてみれば四十七年もの歳月が流れた。


 彼が布教活動を始めた頃の日本は、まだキリシタン禁止令が生きていた時勢であった。そのため、最初のほぼ十年は宗教的な活動は努めて自粛するようにしていた。それの穴埋めをするかのように、いつか布教活動に活かすことができるだろうという信念のもとに、日本文化や日本語の研究にその時間を費やしていた。


 郷に入れば郷に従えという考え方から、彼は日本人にあったキリスト教のあり方を模索した。その試行錯誤が実を結び、今では伝道師としての彼の名声は確固たるものとなった。


 ニコライが活動の拠点としている東京復活大聖堂は、日本ハリストス正教会の中心を担う場所である。神田駿河台にあるビザンチン風のこの建物は、明治十七年三月に起工され、巨額の経費が投じられて、七年の歳月を要して完成した。設計者はロシア工科大学教授ミハエル・シチュールポフ博士であり、工事監督はイギリス人のジョサイア・コンドル博士であった。


 東京のどこからでも見える、または鐘の音が聞こえるといわれているこの大聖堂は、庶民から親しみをもってニコライ堂と呼ばれていた。


 その大聖堂の奥まった場所にある彼の執務室はいたって質素であった。その外見のきらびやかさとは対照的に、ただ必要なものが整然と置かれただけの場所であった。どこまでも実務的に作られていた。


 ニコライはその執務室の中で、珍しく憂鬱な表情を浮かべていた。


 その元凶は目の前に腰を据えた黒い修道服を身にまとった線の細い男であった。男は執務室で静かにニコライと対峙していた。ほとんどの時間、二人は黙り込んでいた。そして、時折、思い出したかのように口を開き会話を交わしていた。しかし、その会話に何か意味があったかといえば、必ずしもそうとは言えなかった。


 その客人はロシアから隠密裏にやって来た修道僧であった。彼はグレゴリー・ラスプーチンと自ら名乗った。


 ラスプーチンは話を切り上げて席を立とうとしていた。


「それでは大主教様、日本にいる間、お世話になります」


 真摯な態度でニコライに礼をとってはいるが、そのどこか遠いところには慇懃無礼な雰囲気が漂っていた。


「とんでもない。皇帝陛下から頼まれた客人です。お世話がゆき届くかどうかわかりませんが、なんなりと些事さじをお申しつけくだされ」


 ニコライは 好々爺(こうこうや)のように微笑んだ。ラスプーチンはロシア皇帝の寵愛を受けし者で、粗雑に扱うことなどは許されることではなかった。


「いいえ、お世話などとは恐れ入ります。日本滞在中の宿を手配していただいただけでももったいなく存じます」


 ラスプーチンは微笑み返した。それを受け流して、ニコライは問いかける。


「ところで、ここにやって来る前に清国の北京を経由してきたそうですが、どのような様子でしたか。内政事情が相当悪くなっていると聞き及んでおりますが」


 一瞬、ラスプーチンの目が険しくなった。けれども、ニコライはまるでそんなことには気づいていないような素振りで返事を待っていた。


「いかにも、おっしゃる通りです。あの国はもう駄目でしょう。なんせ、指導者が狂っておりますからな」


 ラスプーチンは鼻で笑いながら、何かを思い浮かべるような語り口調であった。


「なるほど、そう見えましたか」


 ニコライは悲しげな表情を見せた。


「ああ、随分とお引き留めしましたな。申し訳ない」


「いいえ、こちらこそご多忙のところをありがとうございました」


 ラスプーチンは音もなく席を立った。ニコライは下男に彼を案内するように指示し、部屋を出て行く彼の背中を見つめていた。


「あれが奇蹟を起こすというグレゴリー・ラスプーチンか。どうして、皇帝陛下は──」


 ニコライは口を閉ざして首を横に振ると、胸で十字を切った。口は言葉をつぶやくように動いていたが、声は漏れ聞こえはしなかった。


 そこへ、ちょうど入れ違いのような形になって、海老茶色の袴を召した女学生が入ってきた。


 背中まである黒々とした長い髪をまっすぐにおろした様子は、平安時代の女官のようであり、透き通るような白い肌は、まるで物の怪のようであった。


 少し憂いを帯びた端正な顔立ちをした少女は、にこりと微笑んだ。


「どうかなさいましたか、ニコライ大主教──?」


 ニコライは苦笑まじりに顔をあげたが、その少女を見るやいなや、表情が凍りついた。


「もしや、お里殿か──」


「今は、高辻小路悠里と申します」


「ああ、なるほど──。高辻小路子爵のところにおいでですか」


「はい」


「ここ十数年、姿をお見掛けしませんでしたが、しかし──当然のことなのでしょうが、初めてお会いした約四十年前から、全く容姿が変わりませんな」


「はい、このくらいの年齢の容姿が一番気に入っていますので」


 ニコライは少し眉をひそめた。大主教の立場としては、この状況を素直に容認することはできないが、だからといって、どうすることもできない。


「まあ、こんなところを見られたのがあなたでよかった。悠里さん──でしたな。しかし、あなたも人が悪い」


「すみません。ドアが開いていたものですから、ついノックもせずに中を覗いてしまいました。お取り込み中なら出直しますが」


 悠里は、廊下ですれ違った背の高い修道僧のことを念頭においていた。


「いや、いいんです。それよりも中にお入りなさい。わざわざ、こんなところにおいでになったということは、理由わけありなのでしょう。お茶でも入れさせましょう」


 ニコライの相好そうごうがようやくいつもの柔和さを取り戻した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 執務室を出ると下男が彼を客人用にしつらえられた宿舎まで案内した。東京復活大聖堂の敷地内に用意された宿舎の一室に入ったラスプーチンは、大きく息を吐き出した。


「まったく、心の内側を見透かされていたようでたまらない」


 独り言をつぶやきながら、彼はロシアの首都ペテルブルグを出るときに伴なってきた手下とも呼べるべき男が訪ねてくるのを待っていた。手持ち無沙汰になったラスプーチンは、皮張りの硬いベッドの上に腰をかけたまま珍しく物思いにふけっていた。


(先程、廊下ですれ違った少女──あれはいったい何者なのだ? どう考えても人間とは思えなかった。しかし、人間でないものが、この大聖堂に入って来られたりするものだろうか)


 少女の姿を思い浮かべただけで、背筋がぞくりとした。


(そうだ、目だ──。偽装しているが、あの目は本当は赤いに違いない。ということは、吸血鬼か──。いや、吸血鬼はここには入ってこられまい。とすると、いったいあれはどのような化物モンスターなのだ……)


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