第4話 【高辻御殿、新聞社など】
昨年、日本とロシアの間で締結された日露協約は、フランスの後押しを受けて成立した。これは、極東方面における日本とロシアの基本権益をアメリカやイギリスから守るための帝国主義的勢力圏分割協定という性格を帯びていた。いわゆる秘密協定である。
有力な政商にのし上がった高辻小路 公任子爵もまた、そこから滴るであろう甘い蜜を吸わせていただこうと考えている一人である。
世界各国へ放ってる使用人兼密偵のような配下の者たちから、毎日 数多の情報が入ってくる。その情報をもとに次の一手を思考する場所は、高辻御殿と呼ばれる麹町区番町にある自邸の奥座敷と決めていた。
子爵がそこに引きこもると、当然のごとく、呼ばれるまでは誰も勝手に入ってきてはいけないことになっている。
ある日の夕刻、子爵が奥座敷でひとり、夕餉をいただいていたとき、すっとそこに悠里が音もたてずに入ってきた。
はじめ、子爵は気配を全く感じなかったので、人影がいきなりそこに現れたような気がして、思わず声をあげそうになった。
「なんだ、悠里か──」
と、そこまではよくあることだったが、悠里と目があったときに、手のひらから力が抜けて、箸を取り落した。
悠里の目がかすかに赤く光っていたからである。
子爵の唇がわなわなと震えた。
「ま、まさか──」
子爵はそれだけ言うと、あとは黙ったまま涙を流し始めた。
悠里は、その様子を優し気に見ている。まるで、姉が弟をいたわっているように。
しばらくして、子爵の感情に落ち着きが見え始めたところで、
「悠麿や、そろそろよいかな」
子爵はその呼ばれ方に「はっ」となって、居住まいを正した。
「その呼ばれ方をされるのは久しぶりです。十四年ぶりですね。お待ちしておりました」
感慨深げな眼差しが悠里をじっと見つめている。
「私もだいぶ老けました。こんな姿をみせねばならないのは、なんだか気恥ずかしいかぎりです。もう、お会いできないかもとも思っておりました」
「わたしの現生の名を悠里にしたのは、そなたの幼名を加えたのだね」
「はい、お里様の里にわたくしの悠をつけさせていただきました」
「ふむ、承知した」
悠里の雰囲気ががらりと変わった。
「それでは、これからも悠里で頼みますね、おじい様──」
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新聞社の自分の机上に置かれた装丁の洒落た本を、宮内傳七はしげしげと眺めていた。背表紙には少し崩した字体で『虞美人草』と書かれてある。
これは今年の一月に春陽堂という出版社から発売されたもので、昨年の六月二十三日から十月二十九日までの約四ヶ月もの間、彼の勤める東京朝日新聞紙上にて連載されていた小説を一冊の書籍としてまとめたものだ。
執筆者は夏目漱石という学者あがりの御仁で、帝大から教授にならないかという打診があったにもかかわらず、それを断って東京朝日新聞に入社し、専属の小説家になったという変わり者である。
宮内は彼と浅からぬ因縁があって、彼のことを夏目先生と呼んでいる。実は学生時代に、彼の講義を受けたこともあった。
夏目先生は『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』を雑誌『ホトトギス』に連載して一躍有名になった。今では、身分的に宮内の同僚ということになるのだが、歳は十以上違うし、噂では月給二百円ということだから、待遇的には雲泥の差がある。
それに出社しなくてよいという特別待遇まで与えられている。それでも、毎週水曜日の編集会議には必ず出てきているようであった。
その夏目先生の入社第一作目の連載小説が『虞美人草』で、当初は虞美人草浴衣や虞美人草指輪なる便乗商品が発売され、好況をはくしたことは記憶に新しい。
それだけの社会現象を引き起こした『虞美人草』だが、宮内と夏目先生の浅からぬ因縁もそれを源としている。実は『虞美人草』の作中に「浅井」という人物が登場するのだが、何を隠そう宮内傳七こそがそのモデルなのである。
昨年、実際に連載されているときにも時々、宮内は『虞美人草』に目を通してはいた。しかし、とばし読みをしていたので、なかなか内容をつかむことができなかった。
それが、こうして立派な一冊の本になってみると、なかなか面白い小説になっていたので驚いていた。
ただ、一点だけ納得のいかないところがあった。それは、帝大法科卒の浅井某があまりにも愚かな人間として描かれていたことであった。
「もう少し、なんとかならなかったのか……」
自然と愚痴が口をついて出る。
宮内は昨年の十月に清国の北京へ特派されて、この三月末に帰朝したところであった。帰朝早々に、『虞美人草』が出版されているという話を聞いて、書店から取り寄せたものを、まさについ先程読み終えたところだった。
それでも、すでに本になってしまったものは仕方がない。
何気なく、かたわらに投げ捨てられている何日か前(明治四十一年四月一日発行)の新聞を開いてみた。奇しくも夏目先生の『抗夫』が連載されていて、最終回近しという佳境に入っているようだった。
『抗夫』の前は大阪朝日新聞の東京駐在員で翻訳外電記者の長谷川さん(二葉亭四迷)が『平凡』という小説を書いていたという。『抗夫』の次は、島崎藤村の『春』という小説に決まっているらしい。
文芸欄は華やかだと宮内が独りごちていると、すっと部屋の中に誰かが入ってきた。彼が何気なく視線を動かすと、夏目先生だった。
今日は水曜日だったということを頭の片隅に思い浮かべながら、宮内は『虞美人草』を手に取って、夏目先生のそばに駆け寄った。
「先生、これじゃあまりにも酷すぎますよ」
夏目先生は、宮内の顔と『虞美人草』を見比べてから、普段は気難しげな顔を柔和に崩した。
「宮内君、いつ帰ってきたんだい。大陸の様子はどうだったかね」
夏目先生はわざと話をそらした様子で、にこにこと微笑んでいる。
「まあ、いい勉強にはなりましたが、今はその話ではなく──」
「そうかい、そうかい。それはよかった。今度、ぜひ詳しく聞かせてくれ。何かの参考になるかもしれないから」
宮内の言葉を手で制しつつ、夏目先生は主筆の池辺三山に黙礼した。池辺は巨体を揺すりながら席を立つと、のしのしと近づいてきた。
「宮内君、夏目さんは忙しい身なんだから、あまり邪魔はせんように」
池辺の迫力に押され、宮内は一歩身を引いた。
「それでは宮内君、またの機会に」
夏目先生はそう言ってから、宮内に耳打ちした。
「心外かもしれんが、浅井はあくまでも虚構の人物に過ぎないんだから」
宮内の肩をぽんと叩くと、夏目先生は池辺三山と連れだって奥の会議室へと消えた。
あきらめ顔で二人を見送った宮内は、大きな溜息を吐きながら自席に腰を下ろした。
「まあ、僕が浅井のモデルだということは、他の誰も知らないことだ。よしとするしかあるまい。そうそう、義堂先生と勘三に帰朝の挨拶をせねばならんな。それと、職を斡旋してくれた宗像家にも義理を果たす必要ありか──」
誰に聞かせるでもなく小声でつぶやくと、宮内傳七は『虞美人草』にカバーをかけた。それを机の端へ平積みにされた本の上に載せると、樽のような身体を腰深く椅子に沈めた。