第3話 【怒れる悠里お嬢様】
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男はものすごい勢いで走ってくる。
受け止めるのは危険だと判断した鴻野は、半身になって足をかけようと思った。しかし、彼よりも俊敏な動きで悠里が鴻野の前に躍り出た。
男が悠里にぶつかったと思われた瞬間、男はくるっと一回 宙を舞って、悠里に組み伏せられていた。
あまりの動きの速さに、周囲の人々は何が起きたのかわからないようだったが、鴻野だけはほんの少し肩をすくめて、やれやれといった表情をみせていた。
「注意しても無駄だろうけど、もっと人目を気にしなさい。まがりなりにも、君は高辻小路家の御令嬢なんだぞ」
そんな言葉など聞こえていないといった様子で、男を組み伏したまま、がっしりと抑え込んでいたのだが、なんとか逃れようとする男の抵抗に、悠里は予想以上の力強さを感じて、その表情を微妙に変化させた。
そして、頭の中で男に問いかけた。
(うぬは、いったい何者だ──)
男はぎょっとしたような仕草を見せながら、ちらりと悠里を見たあとは、観念したように動かなくなった。男の顔からは血の気が失せて、あぶら汗をだらだら流している。
やがて、巡査がやってきた。悠里にとっては本日二度目の厄介ごとだったが、男をもう一度威圧してから、そのまま巡査に引き渡した。
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甘味の店を出た二人は山下口から上野公園へと入っていった。話の流れの中で、いつしか動物園に行くことになっていた。
公園内には、まだ所々に雪が残っていた。特に森の樹々によって覆われている地面は、誰にも踏み荒らされていない真っ白な雪が降り積もったままの状態で残されていた。
動物園にいくためには、精養軒を左手に見ながら通り過ぎ、さらにもう少しだけ奥に進まなければならない。動物園までの経路はしっかりと除雪がおこなわれていたので、歩くことに関しては何ら問題はなかったが、雪が視覚に訴えるせいか、なんとなく肌寒く感じられた。
「ねえ、叔父様──」
悠里は何のてらいもない素朴な微笑で鴻野を見あげている。
「昨日の雪のことなんだけれど、新聞には異常気象だって書かれてあったわ。四月に雪が降るなんて、やっぱり変よね」
「さあ、どうだろうね……。でも、もしかするとそんなに不思議なことではないのかもしれない」
「どうして?」
鴻野は悠里のほうには顔を向けずに話しだした。
「異常気象っていうのは、これまであまり例がなかったからそう言うんだろう。だけど、日本人が科学的に天気を研究しだしてから、まだ数十年しか経っていないんだ。それだけの経験からなら、ほとんどの天候が異常気象だと言えなくもないんじゃないか。地球ができてからの数十億年という歳月で考えてみたら、四月の東京に雪が降るということも、別に不思議なことではないのかもしれない。逆に、この数百年、数千年が異常気象の真っ直中にあるのかもしれないしね」
「ふーん」
あいまいな相づちを打っているが、鴻野がかなり的を射たことを言っているので、実はかなり感心していたのだ。
「それよりも、わたしたちラクダに見えるかしら」
全く脈絡のない悠里の物言いに、鴻野は一瞬とまどった。
昨年の上野動物園の入場者数は百十万人を超えたという。その目玉になったのは、これから二人が見にいこうとしているキリンとふたこぶラクダであった。このふたこぶラクダの二つのこぶは片時も離れずに並んでいることから、転じて男女の二人連れをラクダと女学生の間では呼称するようになっていた。
実は、悠里の質問の裏には、二人が恋人同士に見えるだろうかという意味がこめられていたのである。
哲学者の鴻野にして、ラクダという謎掛けに近い言葉からすぐに頭に浮かんだものは、単純に絵で見たことのあるふたこぶラクダの姿だった。他には、よく使うラクダの膝掛けを想像できただけであった。
この男にしては珍しく頓珍漢なことばかり考えていた。それでも、主語がわたしたちということから、二人あわせてラクダということになる言葉の遊びであろうと推測することはできた。しかし、答えについてはさっぱり想像できなかった。
学校にいても、ときどき学生の話についていけなくなることがある。自分ではまだ若いつもりでいたが、すでに歳なのかもしれないと初めて自覚することになった。
「難しいことを言う──」
涼しい笑みを見せながら鴻野は首を振った。
悠里はその言動から、やはり恋人同士には見えないのだろうと少し寂しい気がした。
「なんだか冷蔵庫の中にいるみたい」
「ああ、とても冷えるね」
冷蔵庫という隠語も、やはり鴻野には通じない。
そうこうしているうちに、二人は精養軒の手前にある神社を通り過ぎようとしていた。
悠里はふと足を止めて、神社のほうへ視線を移した。鴻野もまた同じように立ち止まった。何やら人だかりが騒いでいるのが目に入った。
「どうしたのかしら?」
好奇心旺盛の悠里は、はやくもそちらに心を奪われていた。
「ちょっと、見にいってきてもいい?」
「どうぞ、ご自由に──」
鴻野の返事が聞こえたのかどうか、悠里はもう人だかりのほうへ向かって、雪解けの水でぬかるんだ地面を抜き足差し足で歩き始めていた。そして、人垣の後ろから、何があるのだろうという感じで背伸びをしたり屈んだりしてのぞき込んだ。
突然、悠里は動きを止めた。
「駄目だよ、子供がこんなところに来ちゃ」
悠里がいることに気がついた誰かがとがめるように言い放った。
様子のおかしいことに気がついた鴻野は、泥しぶきがズボンのすそにはねるのも気にせず、悠里のそばへと駆け寄った。
「どうした?」
悠里は何も言わずに指をさす。
鴻野はうつむいている悠里の肩を抱きながら、悠里の指先を目で追った。鴻野の手には悠里の震えが伝わってくる。
しかし、鴻野にはそれが恐怖ではなく、怒りのためのように感じられた。彼女が指差した場所には人が横たわっていたのだが、そのせいで悠里の様子に意識をもっていかれた。
身体にはうっすらと雪がかぶっている。あの様子では生きてはいまいと悠里は思った。うつぶせに倒れているので、はっきりとはわからなかったが、服装などから考えると男のようだと思った。
集まった群衆ががやがやと騒いでいる。
「いき倒れでもしたのかね」
「ああ、昨日は雪が降るくらいだったからなぁ。花見気分でやってきたのはいいが、おっとどっこい凍え死んだんじゃねえか」
「花見をしながら雪に遭難して凍死かい。それは実に洒落ているじゃないか。どうせ死ぬなら、俺もそんな粋な死に方をしてみてぇ」
不謹慎にも笑いが起こる。
しかし、彼らの無駄口など悠里の耳には届いていなかった。ただ、死体が握っているものに心を奪われていた。それは鮮やかな紫色の花だった。彼女はその花に見覚えがあった。
「虞美人草だな……」
鴻野がぽつりとつぶやいた。
去年のちょうど今頃に自殺した鴻野の妹のことを、悠里は思い出さずにはいられなかった。
鴻野の妹は毒を飲んで死んだ。男女の三角関係に敗れた末の出来事だったと聞かされている。それは彼女の虚栄が導いた身の破滅に他ならなかったと。
鴻野の妹の通夜の日、遺体を北枕に寝かせた部屋の床の間に、一幅の掛軸がかけられてあった。それまでは、あまり気にして見たことのない一幅だった。
その絵には紫色の花弁の虞美人草が描かれていたのだが、目の前に横たわる男だと思われる死体が握っているその花が、その絵に描かれた花に似ていたのである。
そうこうしているうちに、制服を着た巡査が数人走ってきて、人ごみを解散させようと働き始めた。
鴻野は怒れる悠里を促してその場を離れた。
「どうして、そんなに怒っているのだね」
その問いには答えずに、悠里は足取り重く鴻野に従った。
「さあ、動物園で気晴らしをしよう」
それまでは怒りを身にまとっていたはずなのに、悠里の雰囲気ががらりと変わった。
当世の女学生の心がどのようにできあがっているのか、鴻野には全く理解できなかったが、彼女の目が笑っていないことには気づいていた。