第2話 【呪術を使う悠里お嬢様】
ならず者の視線が悠里をとらえた。新しい獲物を見つけた獣のように、その視線が悠里にまとわりつく。
「おい、そこの──」
「空蝉の──」
悠里が小声で独り言のように言葉をつぶやいた瞬間、ならず者は語りを止めて、一瞬何が起きたのかわからないといった素振りを見せた。そして、ホームで寝転がったまま起き上がれない老婆を見ると、本当に今気づいたというように慌てて駆け寄り、
「ばあさん、大丈夫か」
と介抱をし始めた。
これからどのような惨事が起きるのかと身構えていた周囲の人々も何が起きているのか全くわからず、皆がきょとんとした顔つきでその光景を眺めている。
介抱されている老婆にいたっては、気味悪そうにならず者を見ている。
「悠里さん、先程、何かつぶやいていましたけれど──私には『うつせみの』と聞こえましたが──?」
学友の一人が悠里に問いかけた。
「ああ、ダメな人間だと思ったから、ついそういう意味で──」
学友には、悠里の言いたいことがさっぱりわからない。
「でも、実はまともな人だったみたいね」
もちろん、そんなわけはない。この状況は悠里が呪術を使って引き起こしたのである。
悠里がつぶやいた「空蝉の」という言葉は、和歌の枕詞のひとつである。枕詞として使われるとき、それ自体に意味はない。
彼女の場合、枕詞を引き金にして、枕詞にかかる言葉が意味する状態を相手に与えることができる。つまり精神操作の呪術を使うことができる。
先程の場合は、まず、正気の状態を意味する「うつしごころ」という言葉を思い浮かべ、次に、その状態をならず者に生じさせるために、引き金となるそれにかかる枕詞「空蝉の」をならず者に投げかけたということである。
ただし、これは誰にでもできることではなく、また、鍛えたからといってできるようになることでもない。要するに、天啓のように授けられない限り持つことのできない能力である。
程なくして、誰かが呼んだのか巡査がかけつけてきた。ひとまず、ならず者は連れていかれ、女学生たちは電車に乗り込むことができた。
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しばらくして、電車がお茶ノ水に停車したときである。乗り込んでくる人々の中に、悠里は見覚えのある人影を見たような気がした。目を凝らしてみると、イギリス製でもあろうか、仕立てのよい黒い背広を着た紳士が座席の一番はしに座ったのが見えた。
紳士は中折帽を膝の上に置いて静かに目を閉じた。黒々とした髪がイギリス式に品よく刈り込まれていた。
「あらっ、叔父様──」
小声でつぶやいた悠里は、続けて学友たちに一方的な暇の挨拶をしてから、揺れる車内の中を平然と移動していった。
はかま姿の女学生が揺れる社内でバランスを崩しもせず歩いていくのは、一見異様な光景ではあったが、紳士はたどりついた悠里には気づかず目をつむったまま動く気配を見せない。
彼女は切れ長の目をすっと細めて恨めしげに紳士をにらんでいたが、自ら声をかけようとはしなかった。
しばらくして、悠里に叔父様と呼ばれた男は、何やら人の気配が自分の前に立っていることに気づいた。切れ長の一重瞼を開けて、哲学者然とした蒼白き額をほんの気持ちだけ斜めにあげた。描かれたように繊細な唇が、この男を少し神経質そうに見せていた。
「お疲れのようね、鴻野の叔父様──」
鴻野の叔父様と呼ばれたこの男は、悠里の顔を見て、少し驚いた表情を浮かべてから優しげに微笑んだ。役者顔負けの美男子である。女学生に叔父様と呼ばれるには不相応なくらいの若き青年に見えた。
「どこの不良女学生かと思いきや、高辻小路のご令嬢でしたか」
鴻野はしなやかに立ち上がると、空いた座席を指し示すように右腕をさっと伸ばした。
「どうぞ、お姫様」
悠里は揶揄を含んだ彼の言葉と態度に対して、ほんのりと朱のさした頬をふくらませた。
「あんまりだわ。いつまでも人を子供だと思って。それにわたくし、お姫様などではありません」
頬の色がほんのりとした色から目に見えて紅くなった。からかわれるのはいつものことながら、出鼻をくじかれた格好になって、うまく冗談で返すことができなかったのだ。
対する鴻野はいつもと調子が違ったので、おやっというように眉を軽く寄せた。
「やあ、これは失礼。あまりにも車内がうるさかったもんだから、不良しかいないと思っていたんだよ。それに、これはレディファーストっていうものさ。西洋では当たり前の風習だそうだ」
言葉とは裏腹の鴻野の落ち着いた顔を見た悠里は、ぷいっと怒った素振りを見せて学友たちの輪の中に戻ろうかと思った。しかし、その学友たちがこっちを向いて何やらひそひそやっているのを見て、何食わぬ顔をして戻ることはできない状況になってしまっていることに気がついた。
そこで仕方なく悠里は空いた座席に腰を下ろして顔を伏せ、完全に鴻野を無視する態度を示した。
「なんだ、本当に怒ったのか。それなら、僕だって言いたいことがある。たしかに僕は君の叔父にあたるけど、まだ二十八だよ。叔父様と呼ばれるには、少し若すぎると思わないかい」
表情には真面目さが装われてはいたが、目にはどこかしら優しさのようなものが漂っていた。
鴻野の言葉を聞き終わるとすぐに悠里は顔をあげ、得たりといった表情を見せながら、きっと彼の目をにらんだ。
「二十八なら立派なおじさんよ」
そして再びぷいっと下を向いた。
悠里の隣に座っていた身なりのいい婦人が、こらえきれずに吹き出した。
「やあ、これは一本取られた」
鴻野は再び優しく微笑んだ。
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電車はそれからいくつかの停車場にとまった。鴻野は自宅に一番近い最寄りの停車場である飯田橋を過ぎても降りるに降りられなかった。もう、機嫌は直っているはずなのに、悠里は相変わらず鴻野を無視し続けている。
彼は仕方なく譲歩することにした。
「ここからだと少し遠回りになるけれど、広小路にでも戻って、何か甘いものでも食べて帰るかい?」
この言葉を待っていたと言わんばかりに、悠里はにこっと笑って鴻野を見あげた。そこには、まさしく当世風の抜け目ない女学生の顔があった。
二人は次の駅で降りて、逆方面の電車に乗り換えることにした。
天気が良かったので、鴻野は湯島あたりの停車場で電車を降り、広小路までのんびりと歩いていきたい気分だったが、悠里は雪解けの水でぬかるんだ道を歩きたくなかったので、電車でいくという意見をどこまでも譲らなかった。
結局、外壕線を万世橋で降りて、上野広小路方面の電車に乗り換えることになった。
ちょうど、ホームに降り立ったときに、
「ひったくりよ、誰かその男を捕まえて──!」
と女性の声があがり、前方から、風呂敷包みを脇に抱えた男が走ってきた。
「あっ!」
と声をあげて、鴻野は悠里より前に出ようとした。
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