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第28話 【ストレイシープ】

 悠里は鴻野がこのまま真っ直ぐには家路につかずに、どこかへ寄っていくのではなかろうかと予想していた。主役のいなくなった午餐ごさんをごちそうになってから、宗像家を辞した後のことである。


 鴻野はというと、昨日の昼過ぎに死んだ大島の下宿の近くで吉田千賀子を見かけたことがどうしても気になっていたらしく、誰にも何も話さずに一人で吉田宅を訪問するつもりだったようだ。


 しかし、悠里はそのことに感づいて、鴻野にくっついて行くことにした。当然、従者の三四郎も荷物持ちでお供をする。


 悠里と千賀子は全く面識がないのだが、今朝の新聞で大島が死んだことを知り、大島と千賀子の関係を宗像鈴子からいろいろ聞くことになった。そして、彼女なりに千賀子のことが気になり始めていた。


 吉田家に着いたのは、だいぶ太陽が傾いた頃だった。


 玄関先で一度声をかけてみたが、なかなか家中からの反応がなかったので、鴻野は不在かと思ってあっさり立ち去ろうとした。けれども、悠里が不満げな顔をして鴻野をにらむので、今度は玄関の戸を開けて声をかけた。すると、奥の襖が少しだけ開いて、中からすっと千賀子が顔を出した。


「ああ、鴻野さん──。お久しぶりでございます」


 千賀子はふすまからぬっと抜け出してきた。


「何か、御用でしょうか──。あら、そちらの御嬢様は?」


 千賀子は悠里がいることに気がついて、不思議そうな表情を浮かべた。三四郎のことは、ほとんど気にしていないようだ。


「はじめまして、高辻小路悠里と申します」


 悠里は年に似合わない優雅な雰囲気をかもしながら頭を下げた。


「こちらこそ、はじめまして。吉田千賀子と申します」


 千賀子は少し驚いた表情になって、鴻野の顔を見た。


「彼女は僕の親戚にあたる者です。今日はどうしてもついてくると言って聞かないものですから、仕方なく連れてきました」


「そうですか──」


 千賀子は悠里に向き直った。


「よろしくね、悠里さん」


「はい。こちらこそ急にお邪魔して申し訳ありません」


 悠里には千賀子がとてもつやっぽく見えた。話で聞いていたのとは、まったく違う女性のように思えた。


「それで──どうしたんですか」


「ええ……」


 実は、鴻野もどことなく違和感を抱き始めていた。


「大変なことになりましたね」


 だからなのか、何のかけひきもなく、鴻野は単刀直入に本題へと切り込んでいた。


 その配慮のなさをとがめることもせず、悠里は千賀子を凝視している。


 三四郎も目の前の女性から視線を外すことができなくなっていた。


「はあ……。大変なことって、何でしょうか」


 千賀子は怪訝けげんそうに鴻野の顔を見つめた。


 鴻野はとぼけているのだろうかという目つきで、千賀子の顔をまじまじと見ている。


「大島の件ですよ」


 鴻野は千賀子の反応を探っている。


「はあ……。大島が何か」


 千賀子はいたって落ち着いているように見えた。いや、それを通り越して冷静過ぎる感があった。


 そこで悠里が口を差しはさんだ。


「もしかして知らないんですか」


 悠里の表情からは、感情が消え去っている。この状況に、三四郎ははらはらしていた。


「知らないって、大島がどうかしたんですか」


 千賀子の表情からも感情が消えている。


 この異様な空気感を読み切れていない鴻野は、本当に千賀子が知らないのかもしれないと思い始めていた。目の前の千賀子を見て、しらを切っているのでも、演技をしているようにも見えなかったからだ。


「大島が死にました。これは新聞に書かれてあったことですが、どうやら誰かに殺された疑いもあると……」


「まさか──」


 千賀子は、さっぱり要領を得ないという顔つきになったが、しばらくして、状況を理解したのか、彼女の顔はみるみる青ざめていった。身体がふるふると小刻みに震え始めた。


「それは、どういうことなんでしょうか。殺された疑いもあるだなんて……。わたしには何がなんだか──」


「さあ、それはわかりません。僕も新聞で読んだだけですから」


 悠里は千賀子をじっと見ている。


 何かを決心したのか、千賀子の目がすっと座った。


「本当なんですね──。それで、いつのことなんです」


「新聞では昨日の午前中ということでした。それ以上のことはわかりません。どんな事件なのかも、そんなには詳しく書かれていませんでしたが、だいぶ扇情的せんじょうてきな記事として扱われてはいました」


「午前中ですか……。どおりで、いなかったわけですねぇ。昨日、大島の下宿へ行ったんですけどねぇ──」


 千賀子の目の焦点はどこか変なところで結ばれていた。


「午前中に行ったんですか」


 鴻野は切れ長の一重瞼を細めた。


「ええ──」


 悠里が何か言いそうになったのを、鴻野はすっと手を差し出して制止した。


「あなたは下宿で大島に会わなかったんですか」


「はい。ここを九時頃に出ましたから、十時前には大島のところへ着いていたでしょうか。あいにく不在でして。あの手伝いの方、彼女もいなかったもんですから、帰ってくるまで待っていようと思いまして、茶の間にお邪魔しておりました。それから、ずっと待っていたんですけれど──。時計が一回鳴った後のことでしたから、時刻は一時、いや一時半頃だったでしょうか。結局、大島もお手伝いの方も帰って来ませんでしたので諦めて帰りました」


「会えなかったのですね」


「はい。お話からすると、そのときにはもう亡くなってたということになるんですねぇ」


「大島の死体は下宿のかわやの中から発見されたそうです」


「えっ?──、どういうことでしょうか」


 言葉とはうらはらに、千賀子の声は平坦だった。


「もしかすると、あなたが大島の下宿にいたとき、大島の死体はすでに厠に横たわっていたのか。それとも、どこかで絶命したのを誰かが運んだのか」


「それは、どういう意味でしょうか……」


 千賀子の目じりが釣りあがった。


 悠里が動く間もなく、千賀子が鴻野に対してふっと息を吹きかけた。


 鴻野はぐにゃりと正体をなくした。


「ああ、あなたはいつでも短絡的だわね」


 千賀子に対して、悠里はさとすように話しかける。それと同時に、それまで隠していた妖気をすべて解放した。


 その瞬間、怪訝な様子で悠里を見ていた千賀子の目が点になった。


「あれ、もしかしてお姉さま?」


「もしかしてじゃないわ。鴻野の叔父様は、もうダメかしら」


「命まではとってませんことよ」


 三四郎は目の前の女性からずっと妖しげな気配が漂っていることには、かなり前から気づいていた。それが今、一気に濃密な水準にまで引き上げられた。悠里にも引けをとらない強さを感じた。


 そして、この気配は、東京勧業博覧会で出展された写真の中の一枚から漂っていた、魅了の気配と同じだと思った。


「あなた、九玉藻子くだまあやこという名で、海軍大佐の娘に成り代わっていたのではなくて? どうして、こんなところで千賀子さんとかいう人に成り代わっているのよ、玉藻たまも──」


 三四郎にも、その名は聞き覚えがあった。やはり、そうかと思ったのだが、ということは、この女性も悠里と同じく物の怪の類なのかと思い、これが現実なのかどうか、世の中の道理がわからなくなり始めていた。


(まさに、ストレイシープ、ストレイシープ──)

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