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第1話 【高辻小路家の悠里お嬢様】

 その風貌に似合わないお転婆な調子で、高辻小路家たかつじこうじけのひとり娘である悠里は学友とのおしゃべりに夢中になっていた。退屈な女学校での講義が終わり、神田錦町三丁目の停車場で路面電車が来るのを待っていたときのことである。


「授業に出てきた伊呂波歌、あのような意味だったなんて知っていました?」


 学友の一人が悠里へと話題をふる。


「いいえ、『いろはにほへと』という言葉くらいは知っていましたけど、全体があのようになっていたことは、今日はじめて知りましたわ。ええっと……」


 悠里は続けて、抑揚をつけながら口ずさんだ。


「色は匂へど 散りぬるを 我が世 たれぞ 常ならむ──」


 頭がずきりとした。悠里を立ち眩みが襲う。


「悠里さん、大丈夫?」


 急に様子がおかしくなった悠里を見て、まわりの学友たちがおろおろし始める。


「大丈夫よ──」


 とは言いながらも、悠里は停車場のベンチへと腰をおろし、額に手を当てて目をつむった。


 黒々と重みのある髪を人気女優の川上貞奴かわかみさだやっこ風に、前髪とびんを前方へ出してボリュームのある束髪に結い、それを舶来製の大きめの赤紫色のリボンで飾っている。海老茶色の袴を身につけているところが、当世の女学生風ではあるが、切れ長でありながら愛嬌のある眼、すっと通った鼻筋、薄いのにみずみずしい唇が、家柄と育ちからくる品の良さを漂わせていた。


(これはいったい──?)


 今、ちょうど長い夢から目覚めたような感覚が悠里にはあった。現実が夢で、夢が現実のような感覚。


 高辻小路家に生を受けてからの十四年、これまでの記憶はすべて現実であるはずである。しかしながら、その他に、とてつもなく膨大な量の記憶が頭の中に生じていた。


 そして、その記憶が、現在の悠里とは別人格の者の持ち物であったようであることを、徐々にではあるが理解し始めていた。


(何も知らなかった私が、本当の私と融合していく)


「そうだった……。そういうことだ」


 高辻小路家は東京遷都のときに宮家と一緒に東京に移ってきた公卿の家柄である。政治の中心が京都にあった頃から続く家柄で、室町時代の頃より高辻小路という氏を名乗るようになった。


 氏が示す通り、その当時は京のほぼ中央を東西に走る高辻小路沿いに邸宅を構えていた。藤原氏の傍流ということもあり、家系は由緒正しきものであるが、幕末にはご多分にもれず貧乏公卿に落ちぶれていた。


 それが、東京に出てくるという英断によって一変することになる。


 明治十七年に導入された華族令により、高辻小路家は子爵の爵位を受け、高額の下賜金を御上から支給されるようになった。それを元手にして、悠里の祖父である高辻小路 公任きんとう子爵が軍需産業に関係する貿易会社を興した。


 先見性にすぐれていたのか、商才があったのか、富国強兵の道を歩んでいた日本国と歩調をあわせるように、子爵は政商へとのし上がっていく。その成功は日清・日露の戦争で決定的になった。


 昨今、巷間ちまたで流行っている戦争成金のようでもあるが、家柄がいいのでそのようには見られていない。いまや、日が昇るごとき勢いを有し、名実のともなった華族になったのである。


 しかしながら、その子爵の孫にあたる悠里は奢ったような素振りは見せず、お高くとまっている感じもない。自由奔放な彼女の雰囲気が魅力を光り輝かせるのか、すれ違う男たちで視線をとめないものはまずいない。


 実際のところ、彼女もそのことを自覚し、容姿には少なからず自信があるようである。少なからず、とは控えめな物言いで、つい先日発売された『文芸倶楽部』の芸妓美人投票で、第一位となった萬龍まんりゅうにさえひけをとってはいないと頑なに信じている。


 そのあたり、少し浮世離れした精神の持ち主であることは否めないようだ。


 ようやく、人心地ついてきた頭をゆっくりとあげながら、悠里は誰に語りかけるでもなく静かにつぶやいた


たれぞ、常ならむ……」


 これまでと同じトーンで言ったつもりだったが、そこはかとなく漂う色香のようなものを隠すことには失敗していた。


 急に大人びた雰囲気に変わった悠里を、学友たちは不思議なものを見るような感じで、しかしながら奥ゆかしくためらっていた。


 その変化に気付いた悠里は、さりげなさを装いつつ、足もとに気をつかったふりをしながら、


「ああ、危なっかしくて、おちおち歩くこともできやしないんだから」


 無意識のうちに首を少し傾げるのは、どうやら彼女の癖であるようだ。


 桜が見頃を迎えたというのに、昨日の午後八時頃から降りはじめた季節はずれの雪が、まだ人通りの少ない路地の所々に残っている。交通量の多い大通りでは、冬でも珍しい朝からの除雪作業をする必要があるほどだった。


 午後になってようやく、街は普段並みの機能を回復させつつあった。路面電車も平常運転ができるまでに復旧しているようである。


 学友たちは悠里の雰囲気に圧倒されつつも、そこは華族のご令嬢たちである。何事もなかったかのように、悠里の言葉に迎合するように相づちを打つ。


「ええ、本当に。御一新からもう四十年も経つというのに、四月に大雪が降るなんて、どうなっているんでしょ。近代々々って、世間では何でも近代的が流行っているようだけど、天気も近代的にならないものかしらねぇ」


「まあ、天気の近代的って、いったいどんな状態なの?」


「さあ、そんなこと知らないわ」


 意味のない笑い声がどっとわきあがり、黄色い声が雪で冷えた街並にこだまする。


 通りすがりの身なりのいい紳士が驚いたように振り向いて、困ったものだという表情を作りながら女学生たちを見ている。しかし、そんなことには目もくれず、彼女たちの嬌声は潮の満ち引きのように一定の間隔をおいて湧き続けた。


 彼女たちは学習院女学部に通う女学生たちである。もし、ここが神田錦町三丁目の停車場でなかったら、どこかの不良女学生と間違われるくらいの大騒ぎぶりである。


 悠里の通う学習院は弘化こうか四年に京都で公家の学問所として創立され、明治十年に神田錦町に再興された由緒正しき華族学校である。その女子部に通学している彼女たちは世が世なら、市街には一歩も足を踏み出さないような深窓の御令嬢たちなのである。


 それが、この有様である。最近、世間一般では女学生の風聞は決していいものではない。学習院女子部にもその影響は少なからず出始めている。


 それでも、彼女たちの話題には色恋沙汰に混じって、時折、文学や哲学のことなどもあがってくる。そのへんが学習院女学部生の面目をなんとか躍如しているところであるのかもしれない。


「ねえ、週末に日本橋の三越前に活動写真がくるそうよ」


 話題は突拍子もない方向へどんどん飛ぶ。


「まあ、本当なの? あっ、あなた──、あの方といくつもりなんでしょ。いいなぁ、わたしは心が冷蔵庫だから」


 そこで、どっと笑い声があがる。


 冷蔵庫とは当世女学生の間で流行している言葉で、寂しいという気持ちを表すときの隠語である。


 おしゃべりは絶えることなく、前の話題の端々から次の話題は続々と生まれ、最後には必ず黄色い声で締めくくられる。女学生とはいっても、まだ十四、五歳の彼女たちにとっては、仕方のないことなのかもしれない。


 悠里は少しおしゃべりに飽きてきたのか、遠くの風景に目を泳がせる回数が多くなっていた。知らないうちに、先程の覚醒によるおびただしい記憶に引きずられて、心ここにあらずという表情になりそうなのを、これも急激に発達した自制心によって気づかれないようにしていた。


 程なくして、警笛をひと鳴らししながら、電車が停車場に滑り込んできた。


 一瞬、少女たちのざわめきは止まったが、すぐに勢いを取り戻し、その空間がそのまま車内に移動していこうとしたとき、電車を降りようとしていた身なりのいい老婆が悲鳴をあげながら、ホームへと転がり落ちてきた。


 続けて、何かわけのわからないことをわめきながら、ならず者のような身なりの男がけだるそうに降りてきて、まわりを威圧するように見渡した。


 悠里は、他の誰にもわからないように、その男に視線を送り、適切だと思った六文字のひらがなを頭の中に思い浮かべた。


(うつしごころ──)


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