第26話 【不老不死を求めて】
きらびやかな服をまとった老女は、離宮の庭園に造らせた人工池のほとりにたたずみながら、城壁のはるか向こうにそびえる万寿山を眺めていた。
そばにひかえている侍女には何の気兼ねもせずに、ただ昔日の記憶が心の中を走馬灯のように駆け巡る境地の中に、己を漂わせていた。
1908年(明治41年)4月下旬のことである。
自身が西太后と呼ばれるようになってから今日まで、おそろしく永い年月が経ったように感じていた。
現実に数十年の歳月は彼女の容姿を醜く変貌させていた。しかし、その醜さを刻んできた要因は歳月だけだとはいえなかった。
彼女の生家はたいした家柄ではなかった。そのため現在の地位までのぼりつめるには、権謀術数がうずまく中に身をおいて、この清国に暮らす誰よりも神経をすり減らして生きてきたと自負していた。
皇帝の后にのぼりつめて権力を手中にした後も、宮廷という特異な環境に身をゆだねながら、身を切られる思いに絶えず震え苦しんできた。そして、その思いが歳月とともに彼女の容貌に深いしわを彫りこんでいった。
近臣を殺し、嫁を殺し、夫を殺し、息子を殺した。そして今、皇帝をも殺そうとしている。
皇帝を牢に投獄して、もう十年になる。そろそろ体力的にも衰えてきたようだという話は、牢を監視している側近から聞いている。
彼が死ぬのが先か、それとも──。
しかし、彼女はまだまだ死ねないと思っていた。次の皇帝に立てようと思っている人材は、まだほんの幼子でしかない。
この国の行末を、自分の手で揺らぐことのないものにしてからではないと死ねないというのが、彼女の考えの根底にある信念であった。そのためには、あと何年生きなければいけないのか。
というよりも、このままでは永遠に死ぬことは許されないという脅迫観念のようなものを、彼女はもうだいぶ以前から抱き始めていた。そして、そのことが精神をむしばみ続けた結果、彼女は自身が心のよりどころとしているものの全くないことに気づかされた。
何かにすがりたくなった彼女は、その頃から急激に仏教への関心が強くなっていった。
死とはいったい何であるのか──。
最近では、ふとそのような思いが頭をよぎることが多くなった。
自分が決めるものではなく、他人が定めるものでもない命尽きる瞬間──。
この世に生を受けたときから、決まっているようで決まっていない終わりのとき──。
それは、生きることに対する定められし時の到来を意味する。
あいまいなようでありながら、誰にでも定められた時──。
それは、仏様だけが知っているのかもしれない……。
彼女は自身を仏に見立てた仏事を離宮の庭園でよくおこなった。
配下の側近を全員召集し、インド風の着物を羽織り、万寿山を眺めながら蓮の花を模した台座に座った。そして、永遠の命を望みながら、ひたすら僧侶に御経を読ませた。
しかし、意外と合理的な思想に支配されていた彼女には、そのような精神的行為が不死へとつながることはないということはわかっていた。そのため、ままごとのような仏事を不定期的に敢行しながらも、彼女はもっと物理的な不死を得る方法を探させてもいた。
ちょうど二十年前、西暦でいうと1988年(明治21年)の春の午後、臣下の一人が注目すべき書物を持ってきた。そのときの様子を彼女は回想し始めた。その記憶は今でも鮮明に彼女の記憶の中に焼きついている。
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彼女に一冊の書物がもたらされた。それは葛洪という人物が著した『抱朴子』という古書であった。
その書物には不老不死に関する記述があるという話だった。そして、不老不死を得る方法も詳細に書かれてあるということであった。
この書物は内篇と外篇の二つの篇から成り、内篇はそれまでの神仙道を集大成したもので、道教理論の最も体系的な論述のひとつである。
懐疑論者との対話形式で、仙人の実在証明と不老長生術を証明している。
その術には、仙薬、導引、胎息、房中、護符、存思などがあるが、特に黄金の不変性にあやかって、錬金術で得た金丹や金液を服用するのが最上と記されている。
仙人には天上の天仙、地上に残る地仙、棺より抜けた尸解仙があり、また丹薬を求めて入山する際の歩行法まで記してある。
日本にも奈良時代に伝来し、知識階級の間では広く読まれたという。
彼女は側近たちに『抱朴子』を読んだことのあるものがいないか尋ねた。すると、ある宦官が名乗り出た。彼女はその宦官に『抱朴子』の不老不死に関する部分だけを要約して話せと命じた。宦官はよどみなくすらすらと話し始めた。
「仙人の術は学問によって理解することができ、よって、誰もが智慧を働かせて宇宙の神秘に精通すれば、不老不死を得ることはできるようでござりまする」
彼女は目を輝かせた。
「すると、不老不死は夢ではないということか」
「御意にござりまする。しかし、長生を得るためには、最終的に仙丹を服用することが必要だと書かれてありまする」
「その仙丹とは何だ。薬の類か」
「まあ、そのようなものでござりまする。薬といっても、その材料がなかなか手に入りませんので、簡単には調合できるものではないようでござりまする」
彼女の眉間には深いしわがよった。
「もっと詳しく述べよ」
宦官は自分の思考をまとめるかのように目をつむった。
「仙薬にも種々あり、それぞれを練るには様々な薬品が必要でござりまするが、陛下がご所望の仙薬は特に珍重な薬品を練り合わせる必要があるのでござりまする」
「ほう。わらわに必要なのは何じゃ」
「陛下に必要なのは金丹にござりまする」
「金丹とな?」
「御意──」
彼女はしばらく物思いにふけったように、ねっとりと宦官の目を凝視し続けた。
「その材料と生成法を申してみよ」
「『抱朴子』によりますと、金丹にも数種類あるようでござりまするが、生成法が記されていますのは丹華という金丹だけにござりまするので、その生成法を申し上げたいと存じまする」
彼女は続けろという意味でくっと顎をあげた。
宦官はそらんじるように話し始めた。
「まず、玄黄を作り、各数十斤の雄黄水、礬石水、戎塩、鹵塩、礜石、牡蠣、赤石脂、滑石、胡粉を煮て、泥となし、これを火に焼くこと三十六日して成る……」
「さっぱり、わけがわからんな」
「まだ、続きがござりまする」
「では、続けろ──」
宦官は再び目をつむった。
「こうしてできあがった丹を玄膏で丸め、猛火の上に置いておけば、しばらくして金に変じる。これこそが、不老不死を約束する金丹である──」
彼女は宦官を見下ろしている。
「それを飲めということか」
「御意にござりまする」
彼女の顔が気難しくなった。
「それなら、最初から金を飲めばいいのではないか」
宦官は心持ち身を引いた。
「『抱朴子』にこうありまする。世の中にある金を服用しても不老不死を得られないことはないが、確実に長生を得るためには練成された金が必要であると」
彼女はどこか遠くを見ていた。まるで宦官の言葉など聞いていないかのように。
沈黙が辺りをしばらく支配していた。
「その丹華とやらを作ることはできるのか」
「作れないことはありませんが、ただひとつ厄介なことがござりまする」
「それは何じゃ」
彼女の口元がにやりと歪んだ。それは人を殺しても表情ひとつ変えない冷酷無比な暴君の表情であった。
宦官は生唾を飲み込んだ。
「ただ、玄黄というものがどのようなものなのかわかりませぬ」
「そういうことか──」
彼女の表情に落胆の色が見えた。
宦官は自分の命はもうないものと思った。出世欲に目がくらんで、『抱朴子』の説明などかってでなければよかったと後悔の念を抱いたが、あとの祭りであった。
案の定、彼女は衛兵に顔を向けさっと首を振った。その仕草に鋭敏に反応した衛兵は、宦官に向かって駆け寄り後ろから彼を羽交い締めにして引っ立てようとした。
宦官は恐怖に顔を引きつらせながら、それでも最後の力を振り絞って声高らかに叫んだ。
「ただ、玄黄は日本にあると聞いたことがありまする」
宦官は苦しまぎれに叫んだ。確信はなかったが、わざと断定をくだしたように言った。延命をはかるには時を稼ぐしかなかった。
彼女は日本という言葉に素早く反応した。というのも、先の戦争を思い出さずにはいられなかったからだ。あのときは物凄い辛酸を嘗めた。ぶるぶると身体が震えた。
「なぜ、日本にある!」
日頃、抑揚のない彼女の言葉尻がかすかに震えていた。
衛兵さえも動きを止めた。宦官は衛兵に羽交い締めにされながら話し続けた。
「『抱朴子』の中に徐福という仙人が出てきまする。叙述によりますると、秦の始皇帝が不老不死を求めていろいろ手をつくしていたときに、最後の手段として蓬莱山という国に徐福を遣わしたと書物には記されておりまする。もちろん、徐福は金丹を探しにいったのでござりまするが、その蓬莱山こそ、現在の日本だという説があるのでござりまする」
彼女は衛兵に目で合図した。
宦官は束縛から解放された。乱れた鬢をさっと撫でつけて、服装を正した。青ざめた表情は、そう簡単に戻りそうにはないようだった。
「玄黄の玄とは老子や荘子のいうところの道のことでありまする。また、黄とはまさに金の比喩でござりましょう。いわば、黄金への道ということ。つまり黄金の国と呼ばれた日本こそが、玄黄のある場所かと……」
「ほほう──」
彼女が納得しかけたとき、そばに控えていた者たちの中から声があがった
「それは詭弁だわ」
はっとして、宦官は声の発せられたほうに視線を移した。
そこには、西太后にも劣らないきらびやかな衣装をまとった女官が立っていた。
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