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第22話 【花の符合】

「何ですか兄さん。いくら知った間柄とはいえ、そんな格好で」


 今度は目を丸くして鈴子を見た。


「なんだよ、鈴子、すっかり立派な物言いをするようになったな。でも、これで俺もすっかり安心した。安心したら急にのどが渇いた。茶を一杯くれ」


「入れる必要はないよ」


 鴻野は書生が自分に持ってきてくれた茶を差し出した。


「今、入れてもらったばかりだから」


 宗像はにやりと笑って空いているところにどっかりと座り込んだ。


「いや、すっかり見違えた。その格好を見ると、もう女学校に通っているのかい?」


「はい」


 悠里はお淑やかに返事をしつつ、宗像順一をじっくりと観察した。


 身体のつくりが大柄なのは前からのことだが、にじみ出る存在感に豪快さが増しているような気がした。これは、人間としてならば、ただ者ではないと思った。


 宗像はお茶で口を潤すときょろきょろと辺りを見まわして何かを探し始めた。


「どうなすったの?」


 鈴子があきれて兄を見ている。


「たまの骨休めなんだから、そんな顔で見るな」


 宗像はむっつりと鈴子を見た。


「はいはい。それで何を探しているんですか」


「新聞だよ。今日の新聞」


「それなら、茶の間にでも置いてあるんじゃないかしら」


「そうか、じゃあ自分で取ってくる」


 のっそりと宗像は立ちあがった。そのついでに鴻野を見て、にやりと相好を崩した。


「君の背広姿もなかなかいいじゃないか。生きているうちに、そんな姿を拝めるとは思わなかった」


「お互い様だよ」


 鴻野の返事を聞き流した宗像は、大声で笑いながら居間を出ていった。


「すみません。突然、帰ってきたと思ったら、あんな調子なんだから。本当に困っちまいます。悠里さんもびっくりしたでしょう」


 悠里は豆鉄砲でも食らった鳩のような顔をしている。いや、そのように装っている。


 三四郎には、そのことがよくわかった。


 鴻野は楽しそうに目を細めて、声を出さずに笑っていた。


「いいや、相変わらずです。あの性格にはなれているから大丈夫ですよ。それより、どうしてまた急に日本へ戻って来たのです。何か聞いてますか」


「いいえ、ただ忙しそうなことは気配からわかります。日本を出るのが明日になってもおかしくない──なんて大げさなことを言ってもいました」


「そりゃ、また急な話ですね」


「そうなんです。外交官って、そんなに忙しいんでしょうか」


 鈴子は心配そうに首を傾げた。


「宗像の叔父様って、あんな方だったかしら?」


 悠里が心底驚いたような口調で会話に入り込んできた。


「ああ、昔からあんな感じさ。だからって、心の中はあんなじゃないよ。逆に、心のほうはいたって繊細なんだ。ああ、見えてね」


 鈴子は黙ってうなづく。


「真吾さんにそう言っていただけると助かりますわ。ところで、悠里さんのさっきのお話の続きはどうなったの?」


「やっぱり、話さなくては駄目かしら──」


 いい頃合いで宗像が二階から降りて来たので、悠里は話さなくてよくなったかしらと思っていたところだった。


「ええ、そりゃ駄目よ。もう、気になって仕方ないもの。聞くまでは帰しませんよ」


「仕方ないわ。じゃあ、どこから話そうかしら」


 悠里は面倒くさくて話したくないのだ。助けを求めて鴻野を見たが、鴻野は軽く眉間に皺を寄せて、切れ長の目をつむっていた。


 悠里が観念して、上野で遭遇した事件の話を始めようとしたとき、廊下から宗像の大声が響いてきた。


「真吾、ちょっとこれを見ろ」


 宗像は新聞を手に振りかざしながら再び居間に入ってきた。


 鴻野は閉じていた目をすっと開けて、冷ややかな視線を彼に送った。鈴子は、その物凄い剣幕に目を見開いて驚いた。


「ほら、ここだ」


 宗像は新聞の第三面を開いて鴻野の前に差し出した。


 鴻野は大見出しの踊っている記事に目をとめた。活字を目で追っていくうちに、彼の青白い額がさらに青くなった。


 変死体発見──という大見出しを後ろから覗き見て、悠里は小首を傾げた。


「どうしたの、叔父様?」


 悠里は鴻野のこんな様子を見たことがなかった。


「大島が死んだそうだ」


「大島って、あの帝大の大島さんのこと?」


 鈴子は青ざめた顔をして悠里の横顔を見た。


 悠里には、その人物が誰なのか、すぐには思い当たらなかったが、鴻野の妹が死んだときに関係していた男の名が、たしか大島ではなかったかと記憶がよみがえった。


「誰かに殺された可能性があると書かれてある」


 悠里は鴻野がテーブルに置いた新聞に目を通し始めた。


「こうしてはいられない。すまないが、俺はちょっと出かけてくる。再会の宴は、また今度にしてくれ」


「どうしたの兄さん。そんな格好のままどこへいくの?」


「わかっている。ちゃんと着替えてから出かけるさ」


 勢いよく宗像が居間を出ていこうとしたとき、新聞の活字を追っている悠里の目が興味深げな色に染まっているのを三四郎は見逃さなかった。


 そして、悠里が素っ頓狂な声をあげた。三四郎には、いかにもわざとらしく出した声に聞こえた。


 しかし、宗像はその声に驚いて動きを止めた。鈴子は不安そうに悠里を見た。なぜだか、鴻野だけが納得した顔をしていた。


「同じだわ。紫色の花がそばに落ちていたって書いてあるわ。それが同じ花なのかはわからないし、花の名前もわからないけれど、こんなことって……」


 悠里はあきらかに震えている。三四郎は、その演技力に目を見張った。


「どういうことだ。同じって? 何か知っているのか」


 宗像は悠里を問い詰めようとした。それを鴻野が制止した。そして、二週間程前に上野公園の神社の前を通ったときに遭遇した出来事について簡単に語った。


 動物園に向かっている途中、神社の敷地内でうつぶせに倒れていた死体を見たこと。そして、その死体が紫色の花を握っていたこと。


 うつむきながら鴻野の語りを聞いている悠里の口元に、ほんの少し笑みが含まれていることを三四郎は見逃さなかった。


「紫色の花の符合か。死んでいた清国人も紫色の花を持っていたというんだな」


 宗像は腕組みをして何やら考え事をしている。


「それはいつのことだ」


「あれは雪の降った翌日のことだから、たしか──九日だわ」


 悠里は天井を見上げ、記憶をたどりながら答えた。


「今日が二十三日だから、ちょうど二週間前か」


 鴻野の視線は宗像の目をとらえた。


「その花は虞美人草に似ていた。僕の家に掛軸かけじくがあっただろう。その絵の花と花弁や葉がそっくりのように、僕には思えた」


「そんな掛軸あったか」


「ああ、ほら銀色の背景に紫色の花が描かれたのがあったじゃないか。酒井抱一さかいほういつの銘が書かれてあるやつだよ」


 宗像は目をつむって記憶をたどっている。


「おお、そう言えばあったような気がする。なるほど、虞美人草か。その情報は少し気になる」


 おもむろに開かれた宗像の目は遠い彼方を見ているようであった。その様子に鴻野は少なからず不審を抱いた。


「ところで、客をほっぽりだしたまま、どこにいくつもりだ」


「ああ、そうだ。出かけるところだった。本当にすまないが、今日のところは勘弁してくれ。このうめ合わせはきっとするから」


 宗像は書生に人力車を呼びにいかせ、自分は二階へ駆け上がり、きちっと背広を着こなして下りてきた。鴻野はその姿に目を見張った。


「やけに立派になったじゃないか。馬子にも衣装とはこのことだ」


「まあ、お互い様さ」


 邪気のない応酬の後、宗像は真摯な態度で悠里の前に立った。


「悠里嬢、本当にすまない。そのうちにじっくり時間を作って、ロンドンやペテルブルグや北京の話をたっぷりと聞かせてやるから」


 宗像は迎えにきた人力車に乗って出かけていった。残された三人はまるで台風が過ぎたあとのような静寂の中にいた。


「どうしたのかしら、兄さん──」


 不安げに兄を見送った鈴子は、誰にともなく語りかけた。


 鴻野は繰り返し大島勘三の死亡を伝える新聞記事を読んでいた。


 悠里は外国の話が聞けなくなったことに落胆していた。宮内を怪しげな村へ行かせたのは宗像順一だったわけだから、当の本人からいろいろ情報を仕入れたかったのだ。


 それからしばらくの間、三人は無言のときを過ごしていた。その沈黙を破ったのは鈴子だった。


「どうなさいます。主役がいなくなってしまいましたが……。食事だけでもすませていってくださいな。せっかく用意したんですから。ごめんなさいね、悠里さん。楽しみにしていたんでしょ」


「順一らしいといえば、それまでなんだが──。せっかくだから、食事だけでもいただいていくかい?」


 鴻野は優しげな面持ちで悠里の返事を待っていた。


「ええ、そうします。いただいていきます」


 だいぶ落ち着きを取り戻していたような悠里の様子を見て鈴子は安心したようだった。


 その様子を見て三四郎は、


(大丈夫ですよ、みなさん。おそらくすべて演技ですから)


 と心の中で思っていた。


「しかし、悠里さん。さっきの話だけど、そんな縁起でもないものを見ちまったのね」


 悠里は小首を傾げて、寂しげに微笑んだ。


 ふと、鈴子は大島の許婚いいなずけである千賀子のことが心配になった。同様に鴻野もまた、千賀子のことが気になっていた。


 しかし、その心配は鈴子とは別の意味合いを持っていた。


 大隈伯との面会の折、人力車に乗っていたときに見かけた千賀子の様子が、ほんの少し変だったことを思い出していたからだ。


 そのことが頭の片隅に引っかかっていて、彼女がこの事件に関係しているのではなかろうかと考えてしまったのである。


 そのことが珍しく鴻野の心に小波さざなみを生じさせていた。

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