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第21話 【宗像家を訪問する悠里お嬢様】

※不定期連載ですが、いつもお読みいただきありがとうございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。

 勝手向きはすべて下女と書生に任せてあったので、何かをしなければならないということはなかったのだが、宗像鈴子は朝からそわそわと落ち着かなかった。


 この手持ち無沙汰がかえって鈴子の心を浮き足立たせていた。二階の自分の部屋にこもって時間をつぶすために始めた裁縫も、今日は全く手につかなかった。


 昨日、兄が突然帰ってきた。兄というのは、ロシアに外交官として赴任しているはずの宗像順一のことである。


 日本に戻ってくるという連絡はなかった。まだ外国にいるものとばかり思っていたのに、ひょっこりと玄関に現われたのである。


 それが当然のように、「帰ったよ」と大きな声を発しながら玄関で靴を脱いでいる兄の姿を見たとき、鈴子は二重瞼の大きな目が、今にも飛び出しそうになるくらい見開いているしかなかった。


 あまりの驚きのために、「お帰りなさい」という言葉さえもなかなか出てこなかった。それとは対照的に、父は何の驚きも見せずにただ一言、「首にでもなったのか」と大声で笑ってうたいの稽古に出かけてしまった。


 鈴子は突然の帰国理由を兄に聞いてみたのたが、兄はただはぐらかすだけで、明確な返事をもらうことはできなかった。それでも、何やら多忙なことは理解できた。


 なぜなら、任務の進み具合次第で横浜から出るロンドン行きの船にいつ乗るようになるかわからないと兄の口から直接聞くことができたからだ。それは、明日かもしれないし一ヵ月後かもしれないという。


 その兄は自分の蒲団へ久しぶりに潜りこんだまま、まだ起きてくる気配はない。


 時計の針はもうすぐ正午を指そうとしていた。そろそろ客がやって来てもいい時間である。兄は依然として部屋から出てこない。


 鈴子は手につかない裁縫道具を放り出して、一階の茶の間に下りてきた。そして、そこのちゃぶ台に身をもたせ掛けながら、そこはかとなく物思いにふけっていた。


 柱時計の振子の音だけが、鈴子の耳に聞こえていた。


 その静寂をかわいらしい少女の声が破った。


「ごめんください」


 柱時計が正午のかねを打つのとほぼ同時だった。声の主に書生が対応しているのがわかった。どたどたという駆け足とともに、下女が茶の間に顔を出した。


「高辻小路様がお見えになりました」


「わかりました。居間にお通ししておいてちょうだい」


 下女の姿を見送ってから、鈴子はちゃぶ台から身を離して、頃合いを見計りながらゆっくりと居間へむかった。


「いらっしゃい」


 居間に入るなり、鈴子は嬉しそうに悠里へ声をかけた。


「お久しぶりです」


 ソファーに座っていた悠里はすっと立って挨拶を返した。


 海老茶色の袴が十四歳の美少女にはとても似合っていた。微笑んだときにできる片えくぼに愛嬌があった。髪はまっすぐにおろしている。


「相変わらず時間に正確ね。あなたが来たのと正午の鐘が鳴ったのがほとんど同じだったわ。さあ、お座りになって。すぐにお茶がきますから」


「あっ、どうぞおかまいなく。今日は鴻野の叔父様に無理を言って来させていただいたんですもの」


鈴子は、後ろに控えている三四郎に目をやった。


「当家の書生です。帝大の文科に通っています。外国の話が聞きたいというので、荷物持ちを兼ねさせて連れて参りました」


「小川三四郎と申します」


 三四郎があわてて頭を下げる。


「宗像鈴子です。真吾さんの後輩ということかしら」


 鈴子は鴻野真吾に気があるので、それだけで好印象となったようだ。


「それで、宗像の叔父様は?」


「まだ、寝ているのだと思うわ。やっぱり、相当疲れているんじゃないかしら。朝になっても一度も下に顔を出さないのよ」


 悠里がソファーに腰かけるのを見届けてから、鈴子も静かに腰を下ろした。三四郎は書生らしく、後ろに控えている。


「三四郎さん、そこではなんだから、ちょっと待ってて──」


 鈴子は書生を呼んで椅子を持ってこさせて、ソファの後ろに据えた。三四郎は恐縮しながらもそれに腰かけた。


「それにしてもねぇ──」


 鈴子は思わず吹き出してしまった。悠里にかかれば、二人とも叔父様になってしまうのかしらと思ったからだ。


「どうしたの鈴子さん。何がおかしいの?」


「だってねぇ。二人が叔父様だったら、わたしも叔母様になっちゃうじゃないの」


 悠里のほほがみるみる赤らんだ。


「ごめんなさい。別に、そんなつもりで言ったんじゃないんです。だって、鈴子さんはまだ若いじゃないですか」


「でもね、世間では二十歳を超えたら行かず後家って言われるらしいわよ」


 鈴子はわざと意地悪く言ってみた。自分にはない悠里の初々しさに、ほんの少し嫉妬を覚えたからだ。

「そんな……」


 悠里は恐縮して下を向いてしまった。何気ない自分の言葉のために鈴子を傷つけてしまったという感じである。


「冗談よ、冗談。全然、気にしてないわ。ただ、ちょっとからかってみただけよ」


 羽二重はぶたえのハンカチを口にあてながら、鈴子は無邪気に笑った。


 三四郎を声には出さなかったが、悠里のふるまいを見て驚愕していた。


 郷に入っては郷に従え──という言い回しが妥当かどうかわからないが、まさしく十四歳の少女を演じきっている悠里を見て、三四郎はあらためて悠里のすごさを実感していた。


「ところで、悠里さん──お気に入りだった今流行りの束髪はやめてしまったのね。でも、このほうが断然あなたには似合っているわ。もう、本当に公家のお姫様みたいなのですもの。やっぱり、黒髪はまっすぐ伸ばしたほうが映えると思う」


「そんなお世辞を言っても、何もでませんことよ、お、ば、さ、ま──」


「なんですって!」


 二人が居間でこのようなやりとりをして笑いあっていたとき、鴻野真吾は宗像家の前にたたずんで、門を構成する太い二本の角柱かくばしらを眺めていた。


 扉は開け放たれてあった。


 無用心だと思いつつ門をくぐり、静かに格子戸こうしどを開けて玄関へ入った。


 子供の頃からの見知った家だから、何の気兼ねもなくここまでは入った。しかし、ここから声をかけるのはいつでも億劫だった。


 だから、鴻野は必ず玄関のたたきをこちこちとステッキでたたく。その音で自分の訪問を告げ、誰かが気づくまでたたき続ける。その音は屋敷全体に響くのである。


 石をたたくような音が唐突に鳴り出して、悠里は不思議そうに耳を澄ました。鴻野が来ていることは気配で察していたが、どういうことかわからずに、悠里は首を傾げて鈴子を見た。


「真吾さんよ。あの人、いつもこうなのよ。おかしいでしょ」


 悠里は鈴子の顔をまじまじと見た。


 その視線には頓着せずに、鈴子は居間の入り口に向かって下女のおせいに声をかけた。


「清や──。清──」


 しかし、返事が戻ってこない。


「あら、おかしいわねぇ。さっきまでお勝手にいたと思ったのだけれど……。買物にでもいってしまったのかしら。ちょっと、ごめんなさいね」


 立ちあがった鈴子を見て、悠里は少しまぶしそうに目を細めた。


鈴子が玄関に顔を出すと鴻野はステッキでこちこちとたたきをたたいていた動作を止めた。


「いらっしゃいまし。ご無沙汰しておりました」


 端正な鴻野の顔を見ながら鈴子は軽く首を傾げた。鈴子には、彼の顔色があまりよくないようにみえた。


 鴻野は帽子のひさしの下から鈴子の顔を見た。鈴子のほおは、ほんの少し上気したようにほてっていたが、彼女は決して鴻野の視線から目をそらさなかった。彼は目だけで挨拶を返した。


「起きてますか」


 鴻野が無造作に聞く。


「さあ、どうでしょうか。朝からまだ一度も顔を見てませんわ。昨日は父と二人でだいぶお飲みのようでしたから。ところで、身体の具合でも悪いのですか」


 二重瞼の目尻が心配そうに垂れ下がった。


「そんなことはありません」


 鈴子の心遣いに感謝しながらも、鴻野は自分の話題を避けるようにとりとめのない話題を持ち出した。


「ところで、親父さんは、またうたい稽古けいこですか」


 自分でしておきながら、この質問は無意味だとでもいうような顔をしている。


「ええ、相変わらず朝から通ってますわ」


 鴻野はあらぬほうを向いて、ただ黙ってうなづいた。


「さあ、お入りになって。悠里さん、もう来てますよ」


「ありがとう」


 鴻野は壁に返事をしながら、粗柾あらまさ俎下駄まないたげたを脱いで玄関をあがった。そして、質素な荒いしまの銘仙の背中を見ながら鈴子のあとをついていった。


 彼女に続いて居間に入るなり元気な声が彼を迎えた。


「鈴子さん、お先にいただいてます。さっき、書生さんが持ってきてくれました。あっ、叔父様、遅刻ですよ」


「やあ、すまない」


 鴻野は帽子を持った手を軽くあげた。その帽子と上着を鈴子は鴻野から受け取った。


「今、お茶を入れさせますわ」


「いや、おかまいなく」


 鴻野は断ったが、鈴子はそれでも書生に聞こえるようにどこかに声をかけた。


「お茶をもうひとつお願い」


 返事はないが、おそらくそれはすぐに運ばれてくるだろう。鴻野はもうその問題には触れずにソファへ腰をおろした。


「あら、なんだかお顔の色が──。何かあったんですか」


 鴻野が何も答えないので、悠里はすぐに話題を変えてしまった。


「そうそう、叔父様、今日は無理を言ってごめんなさいね」


 悠里はお茶をすすりながら鴻野に話しかける。


「叔父様か──」


 鴻野は優しく微笑んだ。


 その表情が鈴子にはうらやましく思われた。


「今しがたもね。真吾さんが叔父様だったら、わたしは叔母様ねって、悠里さんをいじめていたところなの」


 鈴子は愉快げに少女のように笑った。


「そうそう、だからわたしも”お・ば・さ・ま”と攻撃していたの」


 悠里は屈託なく笑っている。


 鴻野はそんな二人の様子を面白そうに眺めていた。


「言動も行動も、その前に少し考えてからにしたほうがいいみたいだね。軽はずみなことばかりしていると、この前のように怖い目にあうことになる」


 鴻野は真顔になった。


 そこに書生がお茶を持って入ってきた。不器用な仕草で鴻野の前にそれを置き、軽く一礼をして彼は居間を出ていった。


「書生、変わりましたね」


「ええ、前のが大学を卒業しましたから。それより、この前のように怖い目って、何ですの?」


 鈴子は二人に問いかけた。


 悠里から一切の表情が消えた。鴻野は難しい顔をして悠里を見ている。


「いったい、どういうことなんですか」


 鈴子は話をせがんだ。


「直接、君から話してあげなさい。自分の行動を戒める意味もこめて」


 鴻野は割り当てを悠里へと振った。


 悠里が仕方なく語り始めようとしたとき、階段をどたどたと下りてくるような足音が聞こえてきた。


 皆がその足音に気をとられた。


 足音は廊下を歩く音に変わり、すぐに居間の入口に書生の着るような紺の矢絣やがすりをだらしなく羽織った宗像順一が姿を現わした。


 本当に今起きたばかりなのか、油の抜けた髪がぼさぼさと膨らんでいた。


「やあ、久しぶりだな。元気でやっていたか。おっ、そこにいるのは──もしかして悠里嬢なのか」


 宗像は珍しいものでも見るように鴻野と悠里を交互に見た。そして、後ろにちょこんと控えている三四郎を不思議そうに眺めた。


 鈴子があきれたような目つきで兄の順一をにらみつけた。

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