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第20話 【式神を返す悠里お嬢様】

「三四郎さん──」


 悠里の言葉に三四郎が目で応じた瞬間、世界が音もなく反転した。


 悠里と三四郎だけを残し、世界が固定化されてしまった。


「何か来るわよ」


 悠里の言葉が終わらないうちに、部屋の入口から大蛇が鎌首をもたげて入ってこようとしている。


「式神かしら?」


 大蛇に対してよりも、微笑んでいる悠里を見て、三四郎は驚愕の表情を浮かべている。


「ふふっ、わたしもなめられたものね。よりにもよって、あんなかわいい蛇だなんて──」


 悠里が何やらぶつぶつ言い始めた。


かやしにおこなうぞ。逆しにおこない、ろせば向こうは血花ちばなに咲かすぞ。味塵みじんと破れや、そわか」


 三四郎にはよく聞き取れなかったのだが、何だか呪文のようなものを悠里が唱えた。


 すると、今にも部屋の中に入ってきそうになっていた大蛇が、すっと引っ込んだ。


 そして、しばらくすると室外から何やら格闘している音が聞こえてきて、それが静まったところで、玄関脇の書生部屋に座っていた男が入口に立った。


「あら、無事でしたか?」


 座ったまま、悠里が涼し気な口調で問いかけた。


 男は衣服がぼろぼろになっていて、ところどころから出血していた。おそらく、先程の大蛇と格闘した結果なのであろう。表情は苦渋に満ちている。


「もう、やめたほうがいいと思います。あなたではわたしに勝つことはできません。ご存じないのかもしれませんが、わたしだって陰陽道の簡単な呪術くらい扱えるのですよ。あなたの式神を返すくらい、いたって容易なのです。なんせ、晴明せいめい様の直伝ですから」


 そこで初めて、悠里が男へ視線を合わせた。瞳が赤く輝いている。


 男は悠里の目を見て、怖気づいたように少し身を引いた。


「お前はいったい、何者なのだ。御前に危害を加えるようなことは──」


 男の言葉にかぶせるように、やさしく悠里が問いかける。


「あなたの行動は、八太郎の指金ではないのですよね?」


「どうして、御前の幼名を……」


「それは、彼とは彼が幼いころからの知り合いですから。ゆめゆめ、彼がわたしを襲おうなどと考えるとは思ってはいませんが、念のためにお聞きしています」


「それは、俺が勝手にやったことだ」


 悠里がにこりと笑った。


「そういうことであれば、今回の件は不問にします。あなたがお若かったころ、一度だけあなたを見かけたことがありますが、わたしのことを大隈伯から聞いていないということね。ところで、あなたのお名前は?」


「名乗る名前などない」


「そうですか、わかりました。さて、どうなさいます。まだ、やりあいますか」


 男は首を横に振り、部屋から出ていった。


「悠里お嬢様、いいのですか。また、同じようなことをしてくるのではないでしょうか」


「いいえ、こちらが敵対していないということがわかれば、指示がない限りは自重するでしょう。とりあえず、もとに戻してください」


 三四郎がお空につながる感じで、反転している世界を戻そうと思考する前に、世界がもとに戻った。おそらく、書生部屋の男が自ら戻したのだと思われる。


 場は先程までと同様、不思議な緊張感を保ったまま、誰も一言も発しない状況が続いていた。


「閣下──」


 悠里がやさしい声で大隈に語りかける。


くだんの男には、すでにもの申しましたので、もうお気になさらず──」


 大隈はすべてを察したかのように目をつむった。


「おさと──失礼、悠里さん、承知しました。お心遣い感謝します」


 そう言ってこうべをたれた大隈を見て、鴻野がいぶかしげに二人を見比べている。しかし、何かを察したのか、口をさしはさもうとはしなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 立派な木目を刻んだ机に向かっていた大隈重信は、苦虫を噛み潰したような顔を窓のほうへ向けていた。その窓からは西洋風の庭園を望むことができた。どうやら、ここは彼の書斎らしかった。


 机の上には今朝の新聞が広げられていた。彼には珍しく、下世話な記事の多い第三面が開かれていた。


 その表情には鴻野真吾と会談していたときの好々爺の名残は少しもなかった。


 大隈は机の片隅に立てている小さな額縁を眺めている。その額縁には若かりし志士時代の自分の写真が入っている。ちょんまげを結い、刀を差して、毅然とたたずんでいる。


 信念のもとに走り回っていた頃の記憶が自然と脳裏によみがえり始める。


 蘭学を勉強するために長崎に留学し、そこでアメリカ人宣教師のフルベッキに英語を学んだ。そのとき目に触れたアメリカの独立宣言は彼の志を奮い立たせた。


 明治維新のときは、佐賀藩を同志とともに脱藩し、将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還をすすめるため東上した。しかし、あえなく京都で捕縛され、そのまま佐賀に送り返された。


 あのときは間違いなく死など恐れてはいなかった。それが、今やこのざまだ──。


 彼はたかぶる気持ちを静めるかのように目をつむった。

 

 しばらくして、この書斎にノックの音が響いた。


「入りなさい」


 武人のように低く鋭い声が部屋中にこだました。大隈はノックの音をずっと待ちかまえていたかのようだった。


 彼の声と同時にすっと男が書斎の中へ入ってきた。


 仕立てのよい背広を着たその男は、背筋を伸ばしたまま滑るような足取りで老人に近づいた。


 その男の顔には感情がなかった。それは見る人に蝋人形を想像させた。


「どうして、勝手なことをした。気配を感じれば、勝てるわけないことを容易に察することができるだろうに──」


「申し訳ありません」


 それ以上、男は言い訳をしなかった。


「おおかた、わが身を案じてくれての行動だと思うが──まあ、いいだろう。ところで──」


 大隈は机上に広げている新聞を指さした。


「この記事はどういうことだ。こんな報告は受けておらんぞ。まさかとは思うが、お前の失態ではあるまいな」


 彼は新聞の開かれたところを手でバンバンとたたきながら、蝋人形のような顔を持つ男に鋭い視線を投げつけた。


 男はちらりと新聞に目をやった。


「いいえ──」


 ただ、男はそう答えただけであった。


 大隈は満足げにうなづいた。


「では、誰がやった」


「わかりません。正確なことはいっさい──」


「そうか、せっかく時間を費やして内偵を進めてきたのに、無駄になってしまったのう。それで、どうなんだ。この大島という学者の研究はどこまで進んでおったのだ」


「はい、ほぼ完成していたことは間違いありません。警察のほうで、大島がつづっていた博士論文らしきものを押収しております」


「おおっ、そうか」


 大隈の目がきらりと輝いた。


「ただ、原稿用紙の束の中には結論部分が書かれているはずの原稿が見当たらないということです。まだ、書き上げていなかったか、それとも、誰かが持ち去ったか──」


「まだ、書き上げていなかったらどうするんだ。作者はすでに死んでしまっているのだぞ。未来永劫、その結論を知りえないではないか。警察では何と言っておる?」


「警察は論文には関心を持っておりません」


「とりあえず、内務卿の原君に言って、押収している論文の写しを手に入れられるように根回ししておいてくれ」


「わかりました」


 大隈は少しいらだっていた。


「しかし、何じゃ。この事件、お前はどう考える」


「はい。最近になってからのことですが、大島勘三の周囲では何かきな臭い動きが起きていたことはたしかなようです」


「どんな動きだ」


 男は声をひそめて、老人の耳元でしばらく何かをささやいていた。


「ほう、そんなことがあったのか」


 大隈はくるりと男に背を向けた。


「いっぱい食わされたかもしれんな。そうだとすると研究論文の結論部分は必ずあるぞ。この事件の真相をつきとめろ。そして絶対に手に入れるのだ。このまま、こけにされてたまるものか」


 大隈は再び正面へ向き直った。少し落ち着きを取り戻したような面持ちをしている。


「その方面については、直接、わしのほうから外務卿の林君に尋ねてみる」


「御意のままに」


 男はうやうやしく腰をかがめた。


 蝋人形の顔を持つ男が出ていったあと、大隈は一人書斎に残っていた。先程の自分が少なからず子供じみていたような気がして、我知らず口元を歪めていた。


 いつから、自分はこんなふうになったのだろうと考えていた。しかし、すべてはとしのせいだと自分を慰めていた。


 窓外に広がる庭園の風景は青々と新緑に萌え始めていた。

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