第19話 【大隈重信と悠里お嬢様】
「御客人は来ておるかね」
玄関のほうから、とても快活で大きな声が響いてきた。
鴻野はとりあえず胡座のままではあるが、座蒲団の上で背筋だけは伸ばした。三四郎は全く落ち着かない様子である。
悠里は相変わらず、優雅なたたずまいで座っている。
「いやあ、失敬々々。少し急な用事が入ってしまいましてな。それが思った以上に手間取ってしまったのです。ほほう、噂以上のいい男だな──」
と言ったところで、悠里の存在に気づいて大隈は固まってしまった。
鴻野は切れ長の目をすっと細めて、入ってきた人物を冷静に観察してみた。
服装は近所のどこにでもいる親爺が着ていそうな、白い絣に兵帯を巻いただけのいたって簡単ないでたちであった。
しかし、面貌は新聞などに載っている、あの厳つい大隈伯爵そのものである。その対比が醸し出す落差に鴻野は少し戸惑ったが、決してそれを表情に出すようなことはしなかった。
ただし、今ここでのこの厳つい表情については、普段通りの顔つきというよりは、悠里を見たことにより生じていることは明白だった。
「お久しゅうございます。高辻小路家の悠里でございます。伯爵 大隈重信閣下におかれましは、ご機嫌麗しゅう存じます」
どうしてだか、大隈は激しく動揺したようなそぶりを見せ、何かを言いかけたのだが、考え直したかのように口をつぐんだ。そして、その言葉に会釈で返すと、座卓をはさむように座って三人と対峙した。
鴻野は大隈が足の不自由なことを知っていた。しかし、それを感じさせない足の運びに感心していた。大隈はそんな鴻野の様子を敏感に察していた。
「足が気になりますかな?」
鴻野は何と答えてよいのかわからなかった。
維新前、江戸幕府が諸外国と結んだ不平等な条約によって、当時の日本は領事裁判権というものを欧米列強から押しつけられていた。それの撤廃に大隈は尽力していた時期があった。今から約二十年前、大隈が外務大臣に就任していた頃のことである。
彼は改正条約の調印の一歩手前にまでこぎつけたのだが、その進め方に不満を持った対外硬派の団体である玄洋社の青年に爆弾を投げつけられ、右足を負傷したのである。
「おお、申し遅れました。はじめまして、大隈重信です」
柔和に相好を崩してはいるが、目は決して笑ってはいない。
「こちらこそ、鴻野真吾と申します」
二人は簡単な挨拶を交わした。
「ええっと、悠里さん──。そちらの方は──」
悠里が答える前に、三四郎があわてて自己紹介をした。
ひととおりの挨拶が済んだところで、
「さてじゃ──。今日、お呼びだてしたのは他でもない──」
「早稲田への奉仕ならお断りです」
鴻野は機先を制したつもりだった。
はじめて、大隈の目が本当に笑った。
「大学に来るか来ないかということは二の次のことじゃ。しかし、はっきりとした良い性格をしておるのう。貴殿のような男が、なぜ哲学にかぶれておるのか不思議じゃわい」
「それは、あなた方がつくりあげてきた明治という時代が、そうさせるのですよ」
「なるほど、一種のパラドックスだということか」
大隈は寂しげに笑った。
「まあ、その話は今はよそう。わしはなぁ、鴻野さん。ただ、素直にあなたの書いた論文に感銘を受けたのじゃよ。たしか、こんな文句がありましたな──」
大隈は目をつむってそらんじ始めた。
「万人はことごとく生死の大問題より出立する。この問題を解決して死を捨てるという。生を好むという。ここにおいて万人は生に向かって進んだ。ただ、死を捨てるというにおいて、万人は一致するがゆえに、死を捨てるべき必要の条件たる道義を、相互に守るべく黙契した。されども、万人は日に日に生に向かって進むがゆえに、日に日に死に向かって遠ざかるがゆえに、大自在に跳梁して毫も生中を脱するの虞れなしと自信するがゆえに道義は不必要となる」
鴻野は少なからず舌を巻いた。自分の書いたものでありながら、自分でさえもこれだけ正確に復唱できるとは思えない文章を、この目の前にいる老人はつまずきもせずに鴻野に聞かせたのである。
数年前、この内容の文言をたしかに鴻野は学士論文の中に書いた。そして、実は宗像が昨年ロンドンに赴任したときに送ってやった手紙の中にも、同じような内容のことを書いてやった。そのためか、そんなに懐かしいという感じではなく、むしろ近しいものを抱かせる文章であった。
「僕は、昨年ある友人に同じような文言を手紙に書いて送ったのですが、その友人は返事の手紙に『ここでは喜劇ばかりが流行る』なんていう洒落た言葉をひとつだけ書いて返してきました」
鴻野は一度言葉を切って、大隈の目を真っ直ぐに見た。
「大隈伯爵──あなたなら、どんな返事をしてくれますか」
大隈は真顔になった。
「なるほど、なるほど……。その友人の気持ちはよくわかるつもりじゃ。ああ、鴻野さん、伯爵なんていう飾りなどはつけなくて結構じゃ──。さて、わしは武骨者じゃから、そんな洒落た言葉は思いつかんが、まあ無理をして言わせてもらうと、『悲劇の偉大なるを悟る。その本質は悲劇ではなく喜劇だ』といったところかのう」
鴻野は無表情のまま見透かすような目で大隈を見つめた。
「なるほど、よく理解されていらっしゃる」
「まあ、年の功とでもいうか、いや、むしろ老いの弊害といったほうがいいか。あなたも知っての通り、御一新のときから今日まで、がむしゃらにわしは日本国のために頑張ってきたつもりじゃ。あなたくらいに若いときなら、わしも全くといっていいほど、自分が死ぬということなど考えもしなかったが……」
ほんの一瞬、大隈の視線がちらりと悠里をとらえる。
「しかし──、やはり人間は老いには勝てん。どんどん弱気になる。そして、死期がひたひたと迫ってくることに気がつくんじゃ。定められし時が近づいてくるんじゃ。それが、いつぽっくりとやってくるのかわからないところが、こいつの恐ろしいところでもあるわけじゃよ」
鴻野の怪訝そうな視線に気づいたのか、大隈は軽く咳払いをした。
「もう、二十年も前になるじゃろうか。わしは一人で長寿の研究を始めましてな。和洋を問わず、生死に関することが書かれておる珍本奇本の類を探しまくって目を通していました。そして、つい最近、ひょんな偶然から、あなたの学士論文を読む機会に恵まれたというわけです。鴻野さん、あんたは凄い。その若さですでに生の隣に死が棲んでいることを知っておるのだから──」
鴻野は皮肉な笑みを浮かべた。
「珍本奇本の類ですか」
「あなたの論文がそうだとは言っとりゃしませんぞ」
ここで大隈は快活に笑った。
「けどのう、わしは生の隣に死が棲んでいることを気づいたときに、それなら隣にいかなければいいんじゃと思ったのですわい。ここが哲学者と凡人の違いなんでしょうな」
大隈は笑いやんだが、目は少年のように輝いていた。
「実は、ついに不老不死の方法を見つけられそうなんじゃ」
「はあ?」
鴻野は間の抜けた声を出さずにはいられなかった。
「笑わんでくだされ。凡なる老人の最後のたわむれと思って聞いてくだされ」
「ええ……」
鴻野は呆気にとられていた。真剣な話をしていたつもりが、いつのまにか俗っぽい話題に転換されてしまったと思った。しかし、軽蔑するつもりはなかった。大隈の語った「悲劇の偉大なるを悟る。それは悲劇ではなく喜劇だ」という言葉には一定の評価を下していたからである。
だから、鴻野は大隈の言う通り、ここからは余興だと思って彼の話に耳を傾けることにした。
しかし、大隈にとってはここからが本題だった。
「実は近々、大日本文明協会というものを発足させようと考えておるのです。賛同してくれる者も多くてですな。文学博士の坪内君を筆頭に、同じく文学博士の井上君と三宅君、法学博士の高田君など諸学界の著名人から評議員になってくれるという約束をとりつけておるのです」
大隈はさも愉快だというように大笑いした。
「そこでじゃ、いずれ鴻野さんにも協会に入ってもらえんかと考えましてな。とりあえず、早稲田にお呼びして、あの論文にそった研究をしてもらおうと思ったわけです」
鴻野は絶句した。そして、本当に呆れてしまった。
大隈はかまわず話を続けていく。
「そこでなんじゃが、まずは大日本文明協会の発足と活動の理由を聞いていただきたいんじゃが──」
大隈はよろしいかという意味の視線を鴻野に注いだ。
鴻野は観念することにした。
「わかりました。では、とりあえず話だけはうかがいましょう」
大隈は熱く語り始めた。
「フランスのパスツール研究所にメチニコッフという学者がおりましてな。まあ、年齢的にはわしよりも七歳も後輩なんじゃが、その先生の大著述に『不老長寿論』というのがある。まず、手始めにそれの翻訳を試みるつもりですわい。
わしは生物学には明るくないんだが、かなり前に『素問』という書物を読んだときに、『精神、内に守らば疾いずれより来らん』という格言に出くわしましてな。健全なる精神を有する人間を病魔が侵すことはできないと確信したわけです。『不老長寿論』には、その病魔の正体が書かれておるわけで、だからこそ翻訳して日本国の臣民にも、ぜひ読ませねばと考えた次第なんです」
「なるほど──」
鴻野はとりあえず相づちを打った。年寄りのよまい言を聞かされるのかと思ったら、意外にもまともな話だったので、少し肩の力を抜いた。
「しかし、肝心なのは健全な精神をいかに作り、いかに保つかということじゃ。それがなければ話は始まらん。では、どうすればいいのか。その一番の方法が、実際には健全な精神なんか持っていなくとも、己が健全な精神を持っていると思い込むことなんですわい。わかりますかな?」
鴻野は詭弁だと思った。
「では、どうすれば思い込めるのです?」
「うむ──。それは、最終的には個人の資質でしょうな。ただ、その資質に左右されない方法をやっと見つけたのです。そして、ついにその方法を手に入れられるかもしれん。なんでも、その方法を用いれば、どんなに弱い人間でもたちまちのうちに健全な精神を持っているという思い込みの境地にたどり着くことができるという話なんじゃが──」
一瞬、大隈の表情にかげりが見えたように鴻野は思った。
「どうやら、それは死と紙一重らしいんじゃ。まさに、『生の隣に死が棲んでいる』ですわい。本来なら、わしはそんな危険な方法を人にすすめようと思ってはおらんのだが、容易に健全な精神を有するためには、今のところ、その方法くらいしかないというのが現実でしてな──」
「大隈さん──。まだ、あなたはその方法を手に入れていないのですか」
「まあ、そういうことじゃ。その方法を発見した人物が、それを論文としてまとめておるところでな。まだ、完成しとらんようで、わしはまだ読んでおらんのじゃ。ああ、断っておくが、わしにはそんな容易な方法など必要ないぞ。これでも、日頃から健全な精神を養っているつもりですからな」
「なるほど──」
鴻野は大隈に伝わっている少なくない武勇伝のいくつかを思い出していた。たしかに、この男ならそのような方法に頼らなくても、健全な精神を有し、それを保っていられることも可能だろうと思った。
「まあ、結局は精神の問題なんじゃ。だから、わしはあなたに関心を抱いた。あなたの論文を読んだときに、こんなことを考えたのです。『もし、哲学的な見地から不老不死の方法を探ってみたならば、どんな結論が出てくるのか』と──。考えただけで心が踊りましたからな。わしの気持ちがおわかりになりますかな?」
鴻野は静かに返答した。
「その問題については、またの機会にお願いします」
大隈は腕を組み、しばらくの間、目をつむっていた。
「わかりました。この問題は、今日はここまでということにしておきましょう。ところで、悠里さん──」
大隈の言葉により、自然と皆の視線が悠里へと集まる。
「どうして、このような場に同席しようと思われたのですか?」
それまで二人の会話を黙って聞いていた悠里は、憂いを帯びた眼差しを大隈に向けた。 その雰囲気は、とても十四歳の少女のものとは思えない。
黒くまっすぐに背中まで伸びた髪、白く透き通るような肌、お人形のような顔立ちに、年齢にそぐわない妖艶さが加わると、まさに物の怪を連想させるほどの美しさである。
「それは、どなたかの心の中で、昔見知った気配を持つ男を見かけたからですわ。案の定、ここの玄関脇の書生部屋に座っていましたけれど──」
皆がいろいろな思いを抱いて、誰も言葉を発しなかった。不思議な緊張感を保ちながら、静かに時が流れていく。
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