第18話 【ひょんなところで】
お供の三四郎を従えて、鴻野真吾が下宿している建屋の門をくぐったとき、室内の気配から先客があることを、悠里はすぐに察した。
「ごめんください──」
程なくして、甲野が玄関に顔を出して、
「いいところに来てくれた。助かったよ」
と言いながら、不思議そうに悠里の隣に立っている三四郎を見た。
「当家の書生です」
悠里が優雅な抑揚で紹介する。
やはり悠里の雰囲気は変わったなと鴻野には感じられた。
三四郎があわてて自己紹介をする。
二人は別室に通されて、そこで待つことになった。けれども、安普請の下宿である。来客とのやりとりが、そのまま聞こえてくる。
どうやら、鴻野は早稲田大学の事務長の秘書だという人物と対峙しているようだ。その秘書が一方的に話をしている様子がうかがえる。
語り口調からすると、その秘書は物静かな雰囲気を持った好青年のように思えた。しかし、のらりくらりとした鴻野のペースに翻弄されて、徐々にいらだちを見せはじめているといったところだ。
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「鴻野さん、ちゃんと聞いてくださっているんですか」
「ええ、聞いています」
鴻野は面白くなさそうに返答した。
「こんなに必死に説明しているのに、いつもこうなんだから……」
鴻野と同年代だと思われる秘書は、それでも冷静に鴻野の顔を眺めていた。
その視線がうるさく感じられて、鴻野は目をつむった。
「どうして、僕が必要なのです。何の功績もなく、ただの高等学校の教師でしかないんですよ。何か裏があるんじゃないかと疑ってしまうのが道理ってもんでしょう」
煙をもわもわと吐き出した鴻野は、ゆっくりと吸い殻を灰皿に押しつけた。
「だから、そのことについては先程から何度もご説明しているではないですか。大隈伯爵があなたの学士論文に目を通されてですな、それがとても面白く有意義なものだと──」
秘書は以前から何度もこの手の話をしていた。しかし、鴻野にとってみれば、その話は眉唾ものだとうんざりしていた。
「あの論文のどこがそんなに有意義なのです。自分で申し上げるのも何ですが、あれは余興で書いたものですよ。そのため大学を卒業するのにも及第すれすれでした。もし、それが有意義なものであったのならば、僕は陛下から銀時計を頂戴しているはずです」
鴻野はそう言ってから、ふっと皮肉な笑みを見せた。
「どうして、今頃になって大隈伯爵ともあろう人が、あんなものに目をつけられたんでしょう?」
秘書の冷静沈着な目に微かに動揺の色が走った。鴻野はそれを見逃さなかった。
「やっぱり、何か企んでいますね。僕を大学なんかに呼んで、何をさせるつもりなのです。僕はただの哲学かぶれの凡人ですよ。研究する課題も持っていなければ、大学生を教える頭もありません」
鴻野の口調は終始抑揚がない。
「困りましたな……」
秘書の表情に苦渋の色が見えた。
「わかりました。この話はまたの機会ということに致しましょう」
二人はしばらく無言のまま向き合っていた。鴻野は二本目の煙草に火をつけた。
「ところで──」
秘書は急に人懐っこく相好を崩しながら、両手を自分のひざの上にそろえて、頼み込むように話しだした。
「今日は別件がございましてね」
「別件?」
鴻野は一瞬気が抜けた。肩透かしを食らったような心持ちだった。
「実はですね」
「ええ──」
瞬時に秘書の表情が厳しく引き締まったので、鴻野もまたすっと姿勢を正した。
「わたしどもの総長が直接あなたに会ってお話をしたいと申されているのです」
「何ですって?」
鴻野はさすがに呆れたという顔色を見せた。言うまでもなく、総長とは早稲田大学総長の大隈重信伯爵のことである。
「もし、よろしければこれから一緒に来ていただけませんか」
「しかしですね……」
結局、同じことではないかという思いが彼の脳裏をよぎっていた。間接か直接かという違いだけのことである。
「行ってみましょうよ、叔父様──」
いつの間にか悠里が部屋に入ってきており、後ろで三四郎があたふたとしている。
「何を言っているんだ。君には関係のないことだろう」
「そちらのお嬢様は?」
秘書が怪訝な顔をしている。
「高辻小路子爵家の御令嬢です」
一瞬、秘書はにやりとした笑みを浮かべたが、すぐさまそれを引っ込めた。
「高辻小路悠里と申します。わたくしも大隈伯にお会いしたいので、叔父様、一緒に伺いましょう」
「失礼でございますが、お嬢様──、我が主とはお知り合いなのでしょうか」
秘書がこの流れに乗ろうとしていることは明白だった。
「ええ、以前、おじい様に伴われて、ご挨拶したことがございます」
鴻野は面倒くさくなってきた。
「わかりました。お会いだけはしましょう」
「いやぁ、良かった。これを断られてはわたしの立つ瀬がなくなるところでした。お嬢様、お口添えありがとうございます」
善は急げとでもいわんばかりに、秘書は席を立った。
そのときボーンと時計がひとつ鳴った。
いつの間に手配をしたのか、下宿の門前には黒塗りの人力車が四台待っていた。
秘書は先にいく三台の人力車に、それぞれ鴻野と悠里と三四郎を座らせると、自分は四台目に腰かけて、車夫にいってくれという合図をした。
「わたしも行くのですか??」
人力車に乗るなど畏れ多いといった表情で三四郎が恐縮している。
しかし、そんなことは意に介さず四台の人力車は出発した。しばらくして大通りをそれ、かなり細い路地へと入っていった。
鴻野はこのあたりの風景を以前にも見たことがあるような気がした。たしか大島勘三の下宿に近いところではなかったかという記憶が脳裏の片隅にぼんやりと浮かんでいた。
見覚えのある丁字路に差し掛かったとき、左側の路地から、ふらふらと女が出てきた。
先頭の車夫はびっくりして人力車を急停止させた。その後の三台も車輪を軋ませながら、玉突きにならずに、どうにか止まることができた。
「ばかやろう!」
先頭の車夫が大声で怒鳴ったが、女は何も聞こえなかったように脇を通りすぎていった。
鴻野はその女を見たとき、やはり大島の下宿はそこを左に曲がったところではなかったかと思った。
というのも、その女は吉田千賀子という名の大島の婚約者だったからである。彼女とは少なからず因縁があった。
鴻野は声をかけようと思ったが、車夫の罵声に機会を失っていた。
「みなさん、お怪我はありませんか」
秘書の問いかけに全員が生半可にただうなづいた。
人力車は再び走り出し、その丁字路を右へと曲がった。そして、そのまま直進して、質素な旅館のような建物の前で停車した。
鴻野は意外な感じを抱いていた。てっきり、どこか有名な料理屋のようなところに連れていかれるのではないかと思っていたからだ。
秘書に続いて人力車から降りた鴻野たち四人は、そのまま彼に従って、そこの玄関をくぐった。
たたきのすぐそばの部屋に書生風の男が座蒲団の上に正座していた。悠里がその部屋の中をのぞき見たとき、書生風の男もちらりと悠里へ視線をよこした。
「あら、ひょんなところでお会いしますね」
どんなに姿格好を書生風に見せてはいても、悠里の目はごまかせなかった。その書生は宮内の語りに入り込んで、ガイドに成り代わっていた男だった。
一瞬、ぎょっとした表情を見せたが、何事もなかったかのように軽い会釈が返ってきた。
悠里はにこやかな表情になって、
「ふふっ、そういうことね」
とつぶやきながら、こちらも何事もなかったかのように通り過ぎた。
建物の中に、他に人の気配はなさそうだった。奥の部屋に通された三人は座卓に用意されていた座蒲団の上に腰をおちつけた。
「ここで少しお待ちください。すぐにいらっしゃいます」
秘書は三人を残して、この旅館風の建物から出ていってしまったようだ。
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卓上には灰皿が用意されていたので、鴻野は懐から煙草を取り出して口に咥えた。天井を見上げるとその低さにある種の懐かしさを感じずにはいられなかった。
昨年の春、宗像順一と一緒に京都を旅行したときに泊まった宿が、ちょうどこのくらいの天井の低さであった。あの旅館の隣の屋敷に住んでいた親子が、まさに上京しようとしていた吉田義堂と千賀子であったことは、今考えても因縁としか思えない。そして、不思議なめぐり合わせの末、妹の綾子は短い生涯を終えることになった。
あれから、もう一年も経ったのかと感慨がさらに深くなった。
このようなことを今思い出したのは、先ほど吉田千賀子を見かけたことが一因にもなっているのだろうと鴻野は考えていた。
回想はとりとめもなく、様々な思いへとつながっていく。
昨年の春のことを考えていたと思ったら、いつの間にか学生の頃に行った花見を思い出したり、それが先日遭遇した上野公園の出来事へと移ろっていく。そして、その印象が長時間待たされていることへの不快な気持ちを呼び起こした。
人を呼びつけておいて、己は平気で遅れてくる。大隈伯とはそのような人物かと冷めた心で考えながら、鴻野はすっかり呆れていた。しかし、彼は憤慨しているわけではなく、ただ不快なだけであった。
灰皿の中の吸い殻はもうだいぶ溜まっている。
鴻野は悠里も一緒だったことを思い出して、様子をさりげなくうかがってみたのだが、微動だにせず、綺麗な姿勢のまま座っている。
その姿を見て、十四歳の少女とはとても思えない、と鴻野は感心してしまった。
それからさらに三十分ほど待った頃、ようやく玄関のあたりが騒がしくなって、先程の書生らしき男が誰かを出迎えているような気配が伝わってきた。
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