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第0話 【洞窟の比喩】

 視界の片隅で、何かが動く気配を感じた。自然と視線がそちらへ持っていかれる。


 そこにはこの部屋の唯一の窓があった。窓を通して、お屋敷の門と広々とした庭の一部が見えるようになっている。


 おそらく、鳥でも横切ったのであろうと、書生の小川三四郎は思うことにした。惰性のまま、しばらく窓を見ていた三四郎は、枝が落ちていく光景を見ることになった。


「枝……」


 その辺に、背の高い松が植えられていたことを思い出し、先程のも、枝が落ちたのだろうという結論に達したのだが、なんとなく気になったので、窓に寄って、庭を見渡した。


 すると、お庭の真ん中にお嬢様がお一人でお立ちになっていた。


 こちらに背を向けているので、三四郎が見ていることには気づいていない。三四郎は少し身を引いて、仮にお嬢様が振り返ったときに気づかれにくくしようと思った。黙って見ていることを気づかれると、使用人としては気まずい立場となる。


(何をされているのだろう?)


 しばらく眺めていたのだが、お嬢様が小さく手刀を切るようなしぐさをされたと同時に、松の木の高いところの枝が、すぱっと何かで切られたように落ちてきた。


 三四郎の目は点になった。


「今のは、お嬢様が……」


 何かいけないものを見たような気がして、三四郎は部屋の奥へと引っ込んだ。


 よくわからない感慨が頭の中を駆け巡って、膝ががくがくとするのを止めることができなかった。恐怖というよりも畏怖に近いのかもしれない。


(人間、本当に驚いたら、こんな感じになるんだな……)


 その時、三四郎の頭に浮かんでいたのは、なぜだかわからないが、大学で知識の幅を広げようと思って受講していた哲学概論の授業で取り上げられていた話だった。


(あれは、誰の何という理論だったかな?)


 いても立ってもいられなくなって、三四郎は書生部屋を飛び出した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 三四郎は、哲学概論を講義していた教授の個室へ押しかけていた。まずは簡単に自己紹介をしてから、頭の片隅に浮かんでいる疑問を正直に問いかけてみた。


 すると、教授は白髪頭を幾度かせわしく縦に振ってから、無言で備えつけの黒板に図を一気に描き切った。

 挿絵(By みてみん)


「これは俗に『プラトンの洞窟』と呼ばれているものだ。イデア論を説明するために、古代ギリシアの哲学者プラトンが考えた比喩だよ。少し前の講義で説明したはずだが?」


「すみません。イメージだけしか残っていなくて、はっきりとは覚えていませんでした」


 一瞬、教授は自分の耳を疑ったような仕草をみせたが、それは、すぐに憐れみを示すような表情に変わった。


「では、プラトンの著書である、『国家』の第七巻に記されている言葉をそのまま引用してみよう。少し端折るから、意味が取れないようなら都度質問してくれたまえ」


 教授はかなり古そうな、手垢だらけのしなびた書籍を開いて朗読を始めた。


「地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、いましめのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ(AB)」


「彼らの上方はるかのところに、火(I)が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道(EF)が上のほうについていて、その道に沿って低い壁のようなもの(GH)が、しつらえてあるとしよう」


「それはちょうど、人形遣いの前についたてが置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」


 教授はそこで、一度朗読をやめて、三四郎を見た。


「図の状況は理解できたかね」


 三四郎は黙ってうなづいた。


 教授は満足げに頬をほころばすと再び朗読を始めた。


「その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ」


 そこで、三四郎は手を挙げて、彼の朗読をさえぎった。


「囚人たちはいましめのために後ろを振り返ることもできないということでしたね」


「そういうことになる」


「ということは、彼らは人々が運んでいた実物を見たことは、今までに一度もないということになりますね」


「さすがに君はのみこみが早いようだ。それだけ状況を理解できていれば、先へ進んでも問題なかろう」


 教授はひとつ咳払いをするとしなびた書籍の字を追い始めた。


「そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部(CD)に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね」


 三四郎は、もう質問はしなかった。


 その様子を見て、教授はすっと目を細めた。


「視覚を通して現われる領域というのは、囚人の住いに比すべきものであり、その住いのなかにある火の光は、太陽の機能に比すべきものであると考えてもらうのだ」


「そして、上へ登って行って上方の事物を観ることは、魂が〈思惟によって知られる世界〉へと上昇して行くことであると考えてくれれば、ぼくが言いたいと思っていたことだけは──とにかくそれを聞きたいというのが君の望みなのだから──とらえそこなうことはないだろう」


 プラトンという古代ギリシャの哲人が遺した言葉が、そのまま三四郎の疑問に対する答えだったようだ。教授が長々と朗読してくれた意図が、ここにきてようやく理解できた。それと同時に、三四郎の心の中に生じていたひずみのようなものが、カチリと音を立てて矯正されたような気がした。


「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる……。誰の言葉だったかな?」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 三四郎はかなり満足してお屋敷まで戻ってきた。


 自分の務めをほっぽり出して出かけていたことは、すっかり忘れていた。だから、書生部屋の引き戸を勢いよく開けた瞬間、室内のちゃぶ台に身をもたせかけて座っているお嬢様と視線があったとき、いったい何が起こったのかわからなかった。


「三四郎さん、どこに行ってたのかしら?」


「……」


「あなた、出かける前に何か見なかった?」


 三四郎は体中の血の気が引いていくのがわかった。何か言おうと試みるのだが、唇がぶるぶると震えるだけだった。


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