第17話 【心の海で戦う悠里お嬢様】
「ああ、おはよう……」
宮内は疑惑に満ちた目でガイドを見て、中庭をじっくりと観察している。昨晩の痕跡がどこかに残されていないだろうかと思っているようだ。
しかし、そこには煤のあとも、多数の人々が踏み荒らしたようなあとも何もなかった。ただ、妙に綺麗に掃きならされている地面に、はなはだしっくりとこないものを宮内は感じている。
「昨晩、すっかりと酔いつぶれちまってね。あれから、君はどうしたんだい?」
「はい。わたしもあなたが寝たあと、すぐに寝たです」
にこにことガイドは笑っている。
「そうか……」
宮内は再び中庭の隅々に神経を走らせた。しかし、やはり何も発見することはできなかった。どうやら、あれは夢だったのかもしれないと弱気になり始めている。
しかし、悠里と三四郎には、それが夢ではなかったとわかっている。
朝食後、出立の時間になると、項雲竜が挨拶にやってきた。ガイドも後ろからくっついてくる。
諦めきれない宮内は、この老人に対して鎌をかけてみることにした。最後の賭けであった。
「昨晩、途中で目が覚めたとき、板戸の隙間から明かりがもれているような気がしたんですが、中庭で何かやっていたのですか」
殊勝にも通訳が北京語に訳してくれている。でも、それが本当に宮内が言った通りの意味に訳されているのかということは宮内にはわからない。
「あなた、この客間に寝てたです。中庭の光、射し込むことないです。それに昨晩はみんな早く寝ました。あなた、夢でも見たんじゃないですか──と言ってるです」
二人とも顔を見合わせて、にこにこと微笑んでいる。
そのとき、悠里が少し首をかしげた。
三四郎には、その理由がわからなかった。
宮内には老人の言っていることをガイドがそのまま訳してくれているかどうかということもわからない。そんな根本的な疑問がふっと鎌首をもたげた。
そう言えば、昨晩のことは全体的にぼやけたようなイメージでしか思い出せない。それに、二人の微笑み方も薄気味悪い──。
宮内は面倒臭くなってきたのと、もう関わるのはよそうという気持ちが強くなって、最終的には、夢だったんだろうと自分に言い聞かせることにした。
ほんの少し腑に落ちなかったが、深く首を突っ込んでいやな目にあうのも億劫だと考え始めているようだった。
「あきらめましたね」
三四郎が悠里に話しかける。
しかし、悠里は問いかけにあいづちを打つこともなく、ガイドを凝視している。
「どうかしましたか?」
と三四郎が言い終わらないうちに、目にも止まらぬ速さでガイドに身を寄せると、手刀が首筋へ叩き込まれようとした。
三四郎は声をたてる暇もなかったのだが、ガイドは俊敏な動きでそれを回避すると、遠くに飛びすさって、悠里との間合いをとった。
「いつから気づいていた?」
「村長の通訳をしたときに、間が少しおかしかったわ。人の思いに干渉できるなんて、あなたはいったい何者?」
ガイドからは先程までの柔和な感じが消え失せている。
「お前のような化物に言われたくないな」
それは流暢な日本語だった。
「たとえ、この身が思念でしかなかったとしても、今のを食らっていたら、本当の身体のほうに損傷を受けていたかもしれない。俺はここまでで抜けさせていただく──」
ガイドがすっと目の前から消えた。
三四郎は宮内へ視線を戻した。宮内が誰と話しているのか気になったからだ。しかし、宮内はまちがいなく今もガイドと話している。
「悠里お嬢様──?」
「ああ、三四郎さん──ごめんなさい。逃げられてしまったわね」
とは言っているものの、悔しい感じではなく、さも愉快だと言わんばかりの顔つきをしていた。
「さあ、わたしたちも戻りましょうか」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
程なくして、私は万里の長城へ向かうために村を出立しました。馬車に揺られていると、割り切ったはずの昨晩のことが自然と思い返されます。
(あれが夢でなかったとしたら、なぜ隠す必要があったのだろうか)
道は相当悪くなり、馬車はそんなにスピードを出すことができませんでした。そのため、かなりゆっくりと進んでいました。
まだ、そんなに村から離れてはいない頃、畑が広がっている相変わらずの風景の中に、周囲の調和を乱す不似合いなものが畑の真ん中にぽつりと存在していることに気がつきました。それは道から二、三十メートル畑に入ったところにありました。
あえて日本にあるものにたとえるのなら、それは小さな稲荷神社という感じのものです。その建物は私の注意をおおいにひきました。
私ははっとしました。
馬車がでこぼこ道をゆっくりと走っていたからこそ、目がそれを認識することができたのだと思います。
その建物には観音扉のようなものがついていて、そこがその建屋の出入口になっているようでした。そして、その扉の前に昨晩見たあれがあったのです。
あれとは虞美人草で編まれた虞美人の台座のことです。全く傷んでいなかったので、もしかするとあれは造花だったのかもしれません。
太陽のもとで見たそれは、少しみすぼらしく、昨晩の異様な雰囲気を失っていました。しかし、たしかにそれは見覚えのある座蒲団のようなそれでした。
紫色の花で編まれた丸い敷物──。
私は昨晩見たことは現実であったと確信しました。しかし、その動かぬ証拠を見てしまったことはおくびにもだしませんでした。表情は少し変化してしまったかもしれませんが、顔を窓の外に向けていたのでガイドにも御者にも見られはしなかったはずです。
そのとき、唐突に北京で宗像順一が言っていたことを思い出したのです。
途中で立ち寄る村をじっくり観察してきてくれ──。
(これのことを言っていたのだろうか──?)
「まだかい長城は? もう、疲れてきたよ」
動揺を悟られないように、私は御者に話しかけました。そして、腰をずらして深く座り直し、ため息を吐きながら目をつむりました。少し、わざとらしかったかもしれません。
はい、ガイドに昨晩のことを問い詰めるような愚行は犯しませんでした。もちろん、ガイドも御者もあの村人たちと裏でつながっているに違いないと思ったからです。
その日、私は自分の一生の中でも指折りの長い一日をおくった気分でした。
そして、ガイドを意識しながらも、その緊張感を表には出さず、万里の長城観光という苦痛の旅程をなんとかこなし、無事に北京へと帰ってきたのです。
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