第15話 【心の海に潜る悠里お嬢様】
(三四郎さん、世界を反転させてくれないかしら──)
唐突に、頭の中で悠里の声がしたので、三四郎は即座に悠里を見た。
悠里はすまし顔で座っている。
(さあ、はやくしてちょうだい)
こちらを向いてはいないが、急かしている雰囲気が表情になんとなく出ているのがわかった。
(こんなこともできるのか)
と感心しつつ、三四郎はお空につながる感覚を研ぎ澄まして「止まれ!」と念じた。
悠里と三四郎を除いたすべてが固定された。
「これって、時間も止まっているのでしょうか」
「そんなこと、わたしは知りませんよ。そもそも、止まっているかどうかなんて、どうやって調べるのかしら」
「ええっと──」
「三四郎さん、時間って何なのかご存じ?」
「時間が何とは──? それはもちろん──」
と言ってはみたものの、どう答えていいかわからなくなった。
「ほらね、わからないでしょう。時間って、人間が作り出した概念でしかないでしょう。勝手に一日を二十四等分して、それをもとにしているだけということよね。だから、そんなものは本当はないのかもよ」
「それは──詭弁ではないですか」
「本当に、そう?」
そう言って、悠里は楽しそうに笑った。
「そんなことより、宮内さんという人の話は、どうしてこんなに退屈なのかしら。わたし、もう耐えられなくなっちゃった」
悠里の瞳がすっと赤くなった。
「悠里お嬢様、何をなさるつもりですか」
「聞くのはうんざりだから、一緒に見に行きましょう」
「見に行く??」
「和歌の枕詞に『ふかみるの』というのがあります。漢字は、深い・海・松。深い海に沈んでいく様を想像しながら、同時に宮内さんの頭の中に入っていく様を想像する。
ただし、お空につながっている感覚を常に忘れずに、その状態で、わたしと合わせて『ふかみるの』とつぶやいて──」
これから何をしようとしているのか全く理解できなかったが、三四郎は言われたとおりに実行することにした。
三四郎が悠里の調子に合わせて「ふかみるの──」とつぶやくと、貧血のような、頭の中の血の気がどこかに引っぱられるような感じになった。そして、意識を失ったと思った瞬間、自分をとりまく光景が変わっていた。決して来たことのない場所に立っていた。隣には、悠里がいた。
「ここは、どこですか」
「宮内さんが語っているお話の中の世界よ。わたしたちは、そこに入り込んだということ。でも、あくまでも入り込んで見ているだけだから、この世界の人たちに干渉できるわけではないの。本当に、傍観者として見ているだけ」
話についてけず、何が何だか意味不明状態なのだが、目の前に広がっている光景は、三四郎の意図には関係せずに、現実の世界のように動き続けている。そして、不思議なことに動いている人間の意識まで感じることができる。
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宮内が寝室として用意された部屋でごろりと横になっている。満たされた樽のような腹をさすりながら夢見心地になっている。
(万里の長城までは目と鼻の先まで来ている。しかし、はじめから万里の長城など、どうでもいいので、明日はこのまま北京に帰りたい)
と不埒なことを考えている。
気がゆるみ、宮内は睡魔と戦っている。
その眠気が強くなり始め、徐々に肌寒さを覚え始めたようだ。敷かれた蒲団の上に無造作に転がっていた宮内は、寝転んだまま蒲団の中へ潜り込もうとしている。
そのとき、部屋の外から宮内の名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼は不機嫌に返事をしながらも気だるそうに上半身を起こした。
呼ぶ声はガイドのものであった。
「村長さんが、一杯やりましょうと言ってるです」
宮内は大きな欠伸をして目をこすった。
「わかった。すぐにいくよ」
部屋の外にガイドが待っているので、宮内は重い腰をあげた。
悠里と三四郎は、ガイドに連れられた宮内の後をついていく。
村長の部屋に通された宮内は、到着したときに屋敷の前で出迎えてくれた老人の姿をそこに見つけた。
(彼が村長だったのか──)
そんなことを考えている。
老人の朴訥な雰囲気が酒の場をなごませている。
宮内は老人の話をじっくりと聞いている。
(どうせなら、二人きりで酒でも酌み交わしながら、取材も兼ねてこの村の様子などを聞いてみたかった。そうすれば、地方の農村の現状から清国の疲弊ぶりを描き出せるかもしれない)
などと思っている。
宮内は北京語がほとんどわからないようで、結局、ガイドを同席させている。そのため、難しい話などはできないようだったが、それでも楽しい時間を過ごせているように見えた。
老人の名前は項雲龍というらしい。彼の話によると出自を遠くさかのぼれば、あの英雄である項羽につながるという。
「眉唾ですね」
と三四郎が悠里に話しかける。
けっこうな大きな声だが、当然のごとく誰も三四郎の存在には気づかない。
宮内も眉唾ものだとは思っているようだ。しかし、その気持ちを努めて顔に出さず、感嘆の意を表しながら聞いている。
(姓が同じだからといって、そんなに簡単に先祖が歴史上の有名人だなんてことは滅多にない。最近、日本でも偽家系の巻物造りが大流行しているではないか。それなら自分だって歴史上の有名人の子孫かもしれない)
そんなことを思いながら、宮内は老人の話を聞いている。
村長は自家製の紙巻き煙草を燻らしながら、様々な面白い話を宮内に聞かせている。
(政治問題の記事にはなりえないが、読者の興味を充分にそそるだろう)
そんなことを思いながら、宮内も村長のすすめてくれた手製の紙巻煙草をふかして、じっくりと話に聞き入っている。
三四郎もかなり興味をそそられる話があった。
中でも一番印象に残った話は、彼の先祖だという項羽の慕われ人──虞美人──にまつわるものであった。老人の説によると、『史書』などでは、虞美人は自殺したことになっているが、事実はそうでないと言うのである。
三四郎は、どんなこじつけ話が彼の口から飛び出してくるのかと、変な期待をしていたのだが、答えはきわめて単純だった。
「虞美人は仙人になったんじゃよ」
ガイドは「仙人になったです」と宮内に通訳している。しかし、三四郎には老人の話し方の雰囲気から、「仙人になったんじゃよ」と威厳ある口調で語られたように思えた。
「虞美人が仙人??」
悠里が首をひねっている。
仙人と言われても、三四郎には感じるものはなかった。
仙人といえば、霞を食うんだろうということぐらいしか想像できなかった。ところで、霞って何なんだろうと続けて疑問がわいた。雲みたいなものだろうかなどとぼんやりともの思いにふけっていると、宮内がうとうとし始めた。
(そんなに飲んだかな。いや、酒の度数が強かったのか。それとも、旅行のせいで、疲れがたまっている?)
そんなことを宮内は感じているようだったが、最後には、その眠気に勝てず、眠り込んでしまった。
「ああ、薬をもられたわね」
悠里がぽつりとつぶやいた。
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