第11話 【帰朝報告】
宮内傳七は一年ぶりに吉田義堂の住居を訪問していた。つい先日、清国の北京から戻ってきたばかりだが、いろいろ含むところがあり、早速帰朝の挨拶に訪れたのである。
ほぼ一年前、宮内は京都時代からの旧友である大島勘三に頼まれて、大島と千賀子の縁談を破談させるためにここにやってきた。そのとき以来の訪問である。
当時、義堂に話した大島からの伝言内容は、筋の通った明白なものに違いなかったと未だに彼は思っている。
大島が成功するためには博士号は大切なものである。博士号を取るためには結婚などしていられない。千賀子との縁談もしっかりと約束していたわけではないので、それを断っても不義理とは思われない。しかし、幼い頃から世話になったには違いないから、これからその恩を物質的に返していくと大島は宣言した。とてもできた話だと思った。
それなのに、義堂は激しい怒りを露骨に表した。
宮内はどうにか話を切り上げて、逃げるように義堂宅を飛び出した。自分が怒られるのは筋違いだと思ったけれども、はじめて彼は娘を持つ親の心情というものを知ったような心地がした。
父親の娘に対する愛情、父一人娘一人という強い絆──。
法学士という肩書きを持ち、すべてを理詰めで生きてきた自分には知りえなかった世界。そこには機械的には推し量れない人情という抽象概念が大きく幅を利かせていた。世の中、筋が通っているだけでは立ちいくというものではないことを彼はそのときはじめて悟ったような気がした。
当時、宮内は義堂宅を出たその足で、かねてから職の口利きを依頼していた宗像家を訪れた。そこで、大島の代理人となって破談の申し入れをしてきたことを彼は洗いざらい話してしまった。
大島からは他言無用と言われていたが、その約束は守られなかったのである。義堂の怒りは宮内にとって、相当の衝撃を与えたのであった。
特に理由もなく同席していた宗像順一が、その話を聞いた途端に血相を変えて家を出ていったところまでは知っている。そのあとの経緯は宮内にはよくわからない。
その後、鴻野の妹が急に亡くなって、大島が千賀子と結婚するように段取りが進んだという話は風の便りに聞いていた。
宮内は裏で宗像順一が活躍したのだろうと思っていた。
宗像順一とは宗像家の長男で、昨年の春、外交官の試験に合格してロンドンに赴任した。その後、一度日本へ戻ってきたが、すぐにロシアへ赴任したという。そのことは本人から直接聞いた。先月、宮内は偶然にも北京の繁華街で宗像と出会ったのだ。なんでも、緊急の用向きでロシアから清国に出張中だとか言っていた。
宮内自身は宗像の父親の紹介で新聞社の政治記者として採用された。そして、昨年の十月に清国の北京へ特派員として派遣された。その半年の任務を終えるとともに、社会部へ配置換えとなったため東京に戻ってきたのである。
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宮内は義堂の前に手をついて頭を下げた。
「先生、ご無沙汰いたしております。本来なら、二度とこちらにうかがえるような人間ではございませんが、あれからわたしも人間的にだいぶ成長したと思っております。本当に申し訳のできないことをしたと深く反省しております」
義堂は下げられた宮内の頭をじっと睨みつけていた。
「頭をあげなさい。とうの昔に終わったことだ。すべて丸くおさまっておる。自分の非を認め、謝りに来てくれただけで十分だ。もう、気にせんでいい。それに、今日は他のお客人も来ていることだし──」
宮内はほっとして、樽を連想させるぼってりとした身体をのっそりと起こした。ぼてぼてと太った身体そのままに、動作はいたって緩慢である。
そして、なぜだかこの場に同席している品の良い美少女と野暮ったい書生風の男をちらりと見てから、視線を義堂へ戻した。
普段から丈夫には見えない義堂の身体は、一年前よりも幾分かふっくらしたような感じだった。それでも、宮内と比べてしまうとみもふたもない。もとから骨は細く、顔などはことさら華奢にできあがっている。そのへんは細面の千賀子に受け継がれているのかもしれない。
京都にいた頃には、威厳のあった口髭なども、今では胡麻塩を通り越してすっかり白くなった。よくよく観察してみると、一本ごとにひょろひょろしているように見える。
「今日は、清国での話を聞かせてくれるということだっただろう。高辻小路家のお嬢様が一緒に聞きたいと申されてな」
「高辻小路悠里と申します。急なことで申し訳ございません。このような機会はなかなかありませんので、どうぞお話を聞かせてください」
義堂の言葉を引き取って、美少女が優雅に頭を下げる。
宮内は年齢にそぐわない悠里の所作にどきりとする。
「たしか、鴻野のご親戚でしたね。たいしたお話はできないと思いますが──そちらは?」
三四郎があわてて頭を下げた。
「高辻小路家で書生をしている小川三四郎です。よろしくお願いします」
「ところで、悠里さん──清国にご興味があるのですか」
「はい、大陸のお話はおじい様からよく聞かされるのですが、お仕事のお話ばかりなのです。もっと、数千年の歴史みたいな、文化的な面白いお話をうかがいたいと思いまして。どうしても、書物だけでは物足りなくて、実際に体験された生きたお話を聞かせていただきたいと思ったのです」
宮内はようやく状況を納得したというような表情になった。
「なるほど、そうであれば、ちょうどよかったかもしれません。先生、たしか、あちらの文化に造詣が深かったように記憶していますが──」
「そうだね、書には少なからず興味があるし、そのせいで漢詩にも目を通す機会は多いことは多いが──」
義堂は照れを隠すために苦笑している。
「実は、とても風変わりなものをあちらで見てきました」
「何だねそれは?」
「ひとつの信仰みたいなものなんだろうと思います。宗教とまではいかないのだと思ってはいるのですが」
「ふーん、信仰かい?」
「そうです。先生は博物学者ですから、もちろん洋の東西を問わず様々な文献に精通なさっていると思いますが、これからわたしがお話しするような信仰が、果たして世界のどこか──どこでもいいのですが、何か文献のようなものに書きとめられているかどうか教えていただきたいのです」
「なるほど。ただ、わしも現役を退いてからだいぶ経ってしまって耄碌しておるし、どれだけ頭を回転させられるか、はなはだ怪しいもんだが──。とりあえず、聞くだけ聞いてみよう。話してみなさい」
宮内は眉間に皺を寄せながらうなづいた。目には期待の色がまざまざと浮かんでいる。そして、唾をひとつ飲み込んでから肩が揺れるほど大きく息を吸い込んだ。
義堂は精神を集中するかのように目をつむった。そして、居住まいを正すように音もなく息を吐いた。
悠里は、得体の知れない気配が、ここを監視していることに気がついた。
不穏な空気を察知することもなく、宮内は語り始めた。
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社命によって宮内は清国の現状を視察するために北京に渡った。そこでは清国駐在の公使に連れられて紫禁城に入るという体験もできた。紫禁城は、ぼろぼろに疲弊しきった北京の町中とは、全くかけ離れた場所であった。その不釣合さが、この国の行末を暗示しているように宮内には感じられた。
宮廷内には西太后の肖像画が飾られていた。噂に聞いていた残酷極まりない印象とは違い、ただ服装だけをきらびやかに着飾った平凡な田舎じみた婆さんのようにしか見えなかった。
紫禁城はたしかに豪華絢爛であった。しかし、かつてはみなぎっていたであろう活力のようなものはどこにもなかった。
(なるほど、これでは日本国との戦争にも勝てなかっただろう)
ということが宮内には理解できた。
維新以前に日本が手本にしたこの国からは、すでに何も得るものはないということが確信できた。すでにこの国は内部から崩壊していると思った。
宮内は失望していた。興味を失った取材ほど手持ち無沙汰なものはない。だからといって、それではさようならと簡単に日本へ戻ることはできない。東京で夢が破れて、田舎へ帰っていくのとはわけが違うのである。
退屈な日々は遅々としてなかなか過ぎてはくれない。宮内は暇を持てあまし、まだ陽の沈まないうちから歓楽街に入り浸る毎日をおくるようになっていた。
帰国する半月ほど前であった。いきつけの飲み屋で管を巻いていたとき、偶然にも宮内は宗像順一と再会した。はじめは他人のそら似に違いないと思ったので、声をかけようかどうか迷ったのだが、思い切って声をかけることにした。
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