第10話 【仙人の研究を始めた男②】
一年前の追憶は、下女のお駒が二階にあがってくる気配によって終止符が打たれた。手の中で弄んでいた銀時計をひきだしの奥深くにしまい終えたと同時に、開け放した障子の外から声がかかった。
「おや、またお調べものですか、あまり精をだしすぎると身体に毒ですよ」
大島は顔をあげず、返事もせずにやり過ごそうとした。
お駒は敷居の内側に朝刊を静かに置いたあともなかなか立ち去ろうとしない。大島は物憂げに彼女のほうへ振り向いた。
「何かようかい?」
「はい」
お駒は意味ありげに笑っている。
「用があるなら早く言いなさい」
大島は穏やかな調子で言った。
「お客様ですよ。こんなに朝早くから、いつもご熱心なことで」
大島は何も言わなかった。その態度を彼女は大島の決まりの悪さだと考えた。
「あら、いやだ。失礼しました」
お駒が階下に下りていったのとほとんどすれ違いに、千賀子の姿が部屋の入り口に現われた。身にまとっているものはありきたりの藤色の銘仙の袷だが、それを白足袋の甲が隠れぬよう上手に着こなしている。
「さあ、どうぞ」
大島は座蒲団を用意しながら千賀子を手招いた。千賀子は音もたてずに敷居をまたいで中に入ってきた。足を踏み入れたとき、長襦袢らしきものが裾からちらりと見えた。
「先生の具合はどうですか」
千賀子の顔は少しやつれ気味になっている。
「お陰様で父はこの頃はだいぶ丈夫になったようです」
千賀子は座蒲団に腰を下ろしながら、畳の上に置かれてある埋木の茶托を眺めた。千賀子の小さな耳たぶは美しく座り、ほほから首への線が暈かしたように見事である。
「それは何よりです」
大島はそんな絵のような千賀子の美しさには気づかず、座卓の上に置いていた煙草入から葉巻を一本取り出した。そして、几帳面に先端をハサミで切り取って燻らし始めた。
煙草入は座卓の上に戻された。それには闇を照らす月光に富士と三保の松原らしき風景が精巧に彫られている。
これは一年前に鴻野綾子から贈られたものだ。
その他には、座卓の上にいつも雁首のついた長い竹のパイプが置かれているのだが、大島がそれを使うところを千賀子は一度も見たことがない。
千賀子は憂いを帯びた目で、その煙草入に流し目を送っている。
一年前に一緒になることを約束したこの二人は、未だに籍を入れてはいない。
千賀子の父であり、大島の恩人でもある吉田義堂はすぐにでも一緒になれと大島に迫ったのだが、大島は博士の学位を取ってからにしたいと自分の意見を通した。やはり自分の立場を安定させてからでないと落ち着かないという理由のためである。
義堂にしてみれば、日に日に衰えていく自分の体調を考えるとだいぶ不服であったが、大島の考えも男子として筋が通っていると思った。また、噂では博士論文を書くためのしっかりとした構想はできあがっていると耳にしていたので、そんなに待つこともないだろうと大島の主張を承諾することにしたのである。
ところが、大島はすでに完成しているはずの博士論文を、実は主題ごと放り投げてしまっていた。そして、『道教思想にみる不老不死の考察~仙人伝説の信憑性~』という論文を書くための研究に没頭していたのである。
その論文も大詰めを迎えてはいる。ただ、はたしてそのような論文で博士に成れるのかどうか。それについては大島自身からして成れるとは思っていなかった。そして、このような状況になっていることは、もちろん大島以外誰も知るよしもない。
あれから一年経った。
再び裏切られたのではないかと義堂が気をもんでいることなど大島は百も承知していた。不信感を抱いている義堂が千賀子に適当な理由を持たせて、ちょくちょく様子を探りに来させることが何よりの証拠だと思った。
「どうです? お仕事のほうはだいぶ進みましたか」
「まあまあ、といったところでしょうか」
大島は論文の進行状況については、決して他人にはもらさない。何を研究しているのかでさえ、自分から他人に話したことはない。しかし、どこで聞きつけてきたのか、最近、彼の仙人研究について話を聞きにきた者もいる。障子に目あり、壁に耳ありである。
千賀子のほうでは暖簾を押したような感じで、いつも大島からはっきりした答えをもらったことがない。そのことに、少し物足りなさを感じていた。その思いが自然と一年前のことを思い出させる。
一年前に上京してきたとき、千賀子は胸いっぱいの夢を持っていた。しかし、それは初めての上京ではなかった。六年前までは、東京の女学校に通っていたのだ。だから、東京に戻ってきたといったほうが正しいのかもしれない。
十五歳のときに女学校を退学して、父のいる京都に移った。そのとき、父の家で書生をしていた大島と知り合ったのだ。だから、大島とひとつ屋根の下に暮らしていたのは、ほんの一年弱でしかない。けれども、その古き五年前までは、千賀子にとっては夢のようなときであったことは事実だった。
五年前の夢を千賀子はそのまま胸に抱いてやってきたのに、現実は無惨にもその小さな胸を打ち砕いた。
大島はすっかり変わっていた。眼鏡が金縁に変わっていた。久留米絣は背広に変わっていた。五分刈が光沢のある英国式の髪に変わっていた。何よりも心が変わっていた。外見は見違えるように立派になっていた。
大島は自分から遠ざかるために変わったように思われた。変われない自分を恨めしく思った。ただ一言、近寄れないと思った。五年後に東京で再会した大島は、千賀子の夢の中の大島ではなくなっていた。
上京してから間もなくの頃、京都時代の義堂の弟子である宮内傳七という男がひょっこりと訪ねてきた。彼は大島の代理できたという。そして、単刀直入に大島が千賀子と結婚するつもりはないということを義堂に告げた。
義堂は腕を組み、黙ってその話を聞いていたが、すぐに烈火のごとく怒りだした。宮内はその様子に面食らい、あいまいに話をまとめて吉田家から逃げ出した。千賀子はそのやりとりを隣の部屋で襖越しに聞き、涙が止まらなかった。結果、一度はすっかりと諦めてしまった。どうすることもできないと思った。
しかし、宮内からその話の顛末を聞いた宗像順一の活躍で状況は一変した。
道義を説かれた大島は千賀子と結婚することを誓った。そして義堂も千賀子も優柔不断な大島の翻心を受け入れることにした。
その結果、一人の女が死ぬことになった。
千賀子はそのことに対し、心が痛んだことはない。それは自分のあずかり知らぬところで起きていた出来事だと割り切っているからである。
千賀子はそういう女である。
「すみませんが、そこの新聞を取っていただけませんか」
大島は敷居のすぐそばに置かれている新聞を指差した。
「ええ」
千賀子はにこりと微笑んでそれを大島に手渡した。
そこにお駒が下からお茶を運んできた。大島は新聞から顔をあげない。千賀子は彼女にお礼を言いながら、お盆ごとそれを受け取り、大島の座卓の上に自らの手で湯呑を置いた。
「ありがとう」
大島はわずかに顔をあげて、再び新聞に目を落とした。お駒はその様子を見て、大島がはにかんでいるものだと思い、笑いをこらえながら階段を下りていった。
「何か面白い記事でも載っていますか」
「いいや、特にこれといったものはないようです」
それからしばらく、二人の間に会話はなく、大島はわざとらしい熱心さを見せて新聞へ目を通していた。
千賀子はこの状態が自然でもあるかのように、お茶をすすりながら大島の表情をのんびりと眺めていた。
ところが、この静寂は千賀子の驚いたような問いかけで破られることになった。
「どうかなすったんですか」
大島の表情がさっと青ざめたのである。
千賀子の問いかけに大島は答えようともせず、ある記事に集中していた。そして、はっと気づいたように顔をあげると、取りつくろったように返事をした。
「いや、別に──。何でもありません」
それからの大島は何か考え事でもするかのように目をつむったり、再び新聞に目を通したりしていた。千賀子は落ち着きを欠いた大島の動作を不思議そうに見つめていた。
大島はおもむろに立ちあがった。
「すみません。ちょっと出かけることになりました。そこまで送っていきますから、今日はもうお帰りなさい」
大島は千賀子を追い立てるように外出の身支度を始めた。芭蕉の絵が描かれている押し入れの襖を開け、下段に置いてある柳行李から白いシャツと紺の背広を取り出して身につけた。そして、カシミヤの靴下に急いで足を通した。
千賀子は甲斐甲斐しくそれを手伝いながら、大島の注目を引いたと思しき記事の見出しを、こっそりと盗み見た。
玄関で帽子をかぶり、ステッキを手にした大島は千賀子を連れて下宿を出た。
大島の座卓の上には、新聞が開かれたままになって置かれていた。ちょうど、大島が食い入るように眺めていた項である。大島が目を通していた記事には、「雪の下から清国留学生の死体発見」という見出しがつけられていた。かいつまんだ内容は次のような感じである。
~~四月九日午後二時頃、上野公園にある神社の敷地内から男性の変死体が発見された。身元は早稲田大学師範科に通う清国人留学生の項成功氏と判明している。全身が切り傷だらけであることから、他殺の線で捜査が進められている模様。
警察の発表によると、死体が雪の下から発見されたことから、殺害されたのは雪が降り始めた八日の午後八時以前だと推測されている。目下、欧米から導入されたばかりの法医学的見地から、正確な死亡時刻の割り出しを急いでいるようだが、雪によって長時間冷却されていたため、死体の傷みはほとんどなく、現在の技術では特定することは難しいとの見解も出されている。
また、死体の手には紫色の花が握られていたことから、ある情報筋の話によると、それが何らかの手がかりになるのではないかということも伝えられている~~
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