第8話 【正体を明かす悠里お嬢様】
悠里は表情ひとつ変えずに、飛んできた光の玉をまるでハエでも払うかのように、容易に手の甲ではじいた。はじかれた光の玉は、ホールの壁に当たり、それと同時に轟音を放ちつつ、玉よりも少し大きめの穴を穿って消えた。穴の周囲は、気のせいか電流が走っているように見える。
その様子を見た男は、「えっ?」と 声をもらすと、目の前で展開された光景が信じられないといった面持ちで棒立ちになっている。
「なんだ、それ……」
その声に三四郎が目を開ける。しかし、彼には何が起きたのか全く理解できていない。たしかなのは、こちらに向かって飛んできた光の玉は、自分には当たらなかったということだけだ。
「今ので終わりかしら、清国の道士さん──」
男は我に返ったとでもいうように、再び経典を開いて呪文のようなものを唱え始めた。それを見た悠里はあきれたような表情を見せた。
「そんなものをつぶやいている暇などないのよ」
と言いながら、目にも止まらぬ速さで男に身を寄せ、男のみぞおちに拳を一発お見舞いした。
「ぐっ」
という息のようなものを吐き出して、男はその場に崩れ落ちた。
「白昼堂々と、それもこんなに人がいる中で──」
男が気を失ったせいか、反転していた世界が通常どおり動き出していた。
他の客たちは、ここで何が起きていたのか、当然のごとく気づいていない。突然、壁に穴が開いたことも、ホールの入り口で男が倒れていることも、すぐには誰も気づかなかった。
アイスクリームの皿をテーブルに置こうとしていた給仕が、知らぬ間に立ち上がっている悠里に気づいて驚いている。
「これは失礼いたしました」
悠里は何事もなかったかのように席に着いた。
しばらくして、ホールの入り口に男が倒れていることに誰かが気づいて、場が騒がしくなってきた。
「お嬢様……」
三四郎はまじまじと悠里を見つめながら、頭の中にうずまいている疑問を尋ねてもいいのかどうか逡巡していた。
男は意識を失っているだけのようだと、給仕の一人が誰かに語りかけている声が聞こえてきた。しかし、どんなにゆすぶっても目を覚ます気配がないようだ。しばらくして、男はどこかに運ばれていった。
テーブルには注文通りのアイスクリームとコーヒーが配膳された。店内のざわつきもかなり落ち着いてきた。
三四郎はずっと黙ったまま、配膳されたものには手をつけずにいた。本人は気づいているのか、苦しそうなため息とも呻きともとれるものを吐き出し続けている。
悠里はというと、三四郎のことなどは気にせずに、アイスクリームを口に運んでいる。この姿だけを見ていると、先程の立ち回りが幻想のように思えてくる。
「三四郎さん──」
コーヒーカップを持ち上げながら、悠里は面白そうに三四郎の呻吟している様子を眺めている。
「アイスクリームが溶けてしまいますよ」
その問いかけに、はっとした仕草を見せ、何さじかアイスクリームを口に運んだ後、意を決したように三四郎は悠里に視線を合わせた。
「悠里お嬢様──」
三四郎に目を合わせながら、悠里は小首を少し傾げた。
「あなたは、いったい何者なのですか?」
「知りたいのですか? 引き返せなくなりますよ」
「引き返せない?」
「ええ、もし三四郎さんが今後も普通の生活をしていきたいのなら、わたしの素性などは聞かないほうがよいと思いますよ」
「普通の生活──!」
しばし、三四郎は考え込んだ。
(もし、聞いてしまったら、死ぬまで悠里お嬢様のそばに仕えねばならないということなのだろう)
なぜだか、その方向性に話がいくのではと思っていた節があって、知らないうちに覚悟はできていたようだ。
「はい、覚悟しております」
「覚悟とは、穏やかではないのね。まあ、わかりました。では、場所を変えてからお話を続けましょう」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三四郎と悠里はお屋敷まで戻ってきた。
「誰にでも聞かれていい話ではありませんから、外ではちょっとね」
書生なのに客間に通された三四郎は、かなり固くなっていた。
洋間にテーブルとソファが置かれている。その他の調度品も、世間知らずの三四郎が見ても高級品だとわかる。その場違いな空間にて、三四郎は肩をこわばらせて、悠里と対峙して座っていた。
「さて、何から話そうかしら──」
悠里は目をつむって、何やら考え込んでいたようだったが、
「まず、わたしには大きな秘密が二つあります。信じるか信じないかは、三四郎さん次第だけれど、今話せるのは、まだ、そのうちのひとつだけね──」
そこで悠里は目を開けた。瞳が赤く光っている。
三四郎は自分のひざががくがく震えていることに気がついた。
「わたしが生まれたのは大化元年、西暦でいえば645年──。年齢は数えで1264歳ということになるのかしら」
(何を言っているのだ、この人は──)
と三四郎は心の中で思ったのだが、人間離れしたお嬢様の様子から、あながち嘘ではないのかもしれないと思い直した。
「ということは、悠里お嬢様は、人間ではある──ということでよろしいのでしょうか」
悠里は少し考え込んでから、
「ごめんなさい。生まれたときは人間だったのだけれど、今では、三四郎さんが考えているところの妖怪に近いのかしら」
「妖怪ですか……」
三四郎の思考がついていかない。
「八百比丘尼って、聞いたことある?」
「やおびくに……ですか」
三四郎にとっては、聞いたことのない言葉だった。反応がおうむ返しばかりになってしまう。
「新鮮な反応で安心したわ──」
嬉しそうに言ってから、悠里は滔々と問わず語りを始めた。
「わたしが十四歳のとき、お父様がお土産として人魚の肉を持ち帰ってきた。当然、気味悪がって、誰も口にしなかったのだけれど、そんなことだと知らなかったわたしは、つい隠れて食べてしまった。
その後、わたしは見かけとしてはまったく歳をとらなくなった。女子はもともと小柄だから、十年くらいは誰も何とも言わなかったけれど、容姿がまったく老けていかないので、それ以降は、誰もが不思議に思うようになって、両親が亡くなった頃には、その村に住める状況ではなくなっていた。わたしは放浪の旅に出た。
女子の一人旅は危険だと思うだろうが、わたしの身体は人間のものではなくなっていた。ずっと、そのことは気取られないよう隠しとおしてきた。心を研ぎ澄ますと、人の動きが遅く感じ、自分の動きは人が目で追えないくらいの速さになる。だから、ならず者や獣に襲われても、何の問題もなく撃退することができた。
とはいえ、十四歳の女子の見た目では、どうしても厄介ごとが向こうから近づいてくる。それを避けるために、比丘尼の姿に身をやつすことにした。けれども、裏の世界でわたしの名声はあがっていき、時の為政者に力を貸すこともあった。
そうやって約八百年の歳月を過ごしたわたしは、もう疲れ果ててしまって、宝徳三年、西暦1451年に京都を訪れたとき、知己になった高辻小路家の当主にかくまわれて、死んだことにした──。
だから、わたしは八百比丘尼と呼ばれている──」
(ああ、どこかで、そんな妖怪の話を読んだことがある。しかし、目の前の悠里お嬢様が、その八百比丘尼とやらいう妖怪だと言うのか……)
三四郎は言葉にすることができず、腕を組んで目をつむった。
(人魚の肉を食った──。そもそも、人魚なんているのか──)
と疑念を抱いたのだが、目の前に座っている悠里お嬢様が妖怪なのだとしたら、人魚もいるのだろうと意味のわからない納得感があった。
(ということは、伝説上のいろいろな妖怪もいるということなのか? うん、さっき襲ってきた清国の道士とやらも、変な化物みたいなものをこちらに仕向けてきたのだったな)
客間に設置された大きな振り子時計が、幾度かボーンボーンと鳴り、かなり時が経っていることを教えてくれた。
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