「時計のない国、だよ」と姫は言った
応募の都合上、本文は千文字で終わりです。
「あっ、やっぱり来た。良かったー」
部室に行くと、うちのサークルの姫が一人で座っていた。
何も約束はしていない。
「誰か暇な人が来るんじゃないかな、って思ったの」
窓から射し込む光。油絵のように浮かび上がる室内。
姫はタブレットに向かっていた。
窓辺には、誰かが持ってきたフィギュア。
部屋の反対側には、時代遅れのレコードプレイヤー。
「家だと遊んじゃうし。レポートが遅れると、魔女さんが『あんたなぁ、何してはったん?』ってうるさいし、ね」
うちの大学の名物教授。和服もヒョウ柄も似合うパワフルな人で、学内では有名なスノーボーダーでもある。特にこの季節は元気だろう。
姫は、スノーボードはやらないのだろうか。
「興味ないなー。それとも一緒に行く?」
予想外の提案だ。姫はにこにこしている。ここが運命の分かれ道————
「なんてね」
姫らしい冗談だ。
「アウトドアよりも、私はやっぱりインドア派。このサークルのみんなも、そうでしょう?」
決め付けは良くないと思うけど。
雑談はそこまでだった。
他に大した話題もなく、姫と僕は、それぞれの作業に集中した。
自分以外の誰かと同じ空間にいると、緊張感が生まれて、効率が上がる。
二人で黙々と机に向かい、僕たちは互いの存在を忘れる。
本当にすっかり忘れた頃になって、当の姫が不意に声を上げた。
「もー、飽きた!」
時計を見ると、小一時間は経っている。
姫が、こちらを見て続ける。
「あのさ、雪合戦しよ」
外に出て、部室棟の裏に回った。
小さな銀世界。
誰もいない。踏み固められてもいない。
姫の雪玉が僕の腕に当たる。
僕もお返しをする。当たらない。
雪玉が行ったり来たりする。不規則に動く振り子のように。
少し遊んでから、僕は時間が気になって。
「時計のない国、だよ」
雪玉が当たった。
姫が、僕だけを見ていた。
雪玉を投げた。
姫だけを見て、投げた。
無限に引き伸ばされる、二人だけの時間。
雪玉の向こうで、彼女が躍る。
その姿は、大人になり、子供になり、姉になり、妹になり。
彼女は笑っていた。
僕たちを刻み、隔てていたものは、すっかりなくなっていた。
雪合戦の結果は、僕の完封負けだったけど。
「遅くなっちゃったね。それと、おなかすいたかも」
部室に戻る。彼女は元の姫に戻る。
「コンソメスープの素と、お漬物しかないや。あっ、干し柿ならあるけど、食べる?」
どういう組み合わせ……。
不思議には思ったけれど、姫と食べる干し柿は、やっぱり甘かったのだ。
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