【短編】これが婚約破棄なのですね【商業化進行中】
「最近、流行りの『悪役令嬢』や『婚約破棄』って憧れてしまうわ」
金髪碧眼の美しい容姿を持つ伯爵令嬢レイナは、情熱的な舞台を見たあとで、俳優達の熱演に酔いしれながらうっとりとそんなことを呟いた。
隣にいる弟ロニーが「姉様はこの舞台が本当に大好きですね」と呆れたように微笑んでいる。
「そうなの。特に悪役令嬢役を演じている彼女の大ファンなのよ。悪役令嬢ってかっこいいわよねぇ。本当に憧れてしまうわ」
そんなことを軽々しく口にしたせいなのか。
その一か月後に行われたレイナの誕生パーティーで、婚約者であるアルベルトが見知らぬ美しい女性と恋人同士のように寄り添っているのを見ることになってしまうなんて、このときのレイナは夢にも思っていなかった。
*
レイナの誕生パーティー、当日。
招待客で溢れる煌びやかな会場を見回しながら、レイナはため息をついた。
(アル……。今日は来れないのかしら?)
レイナの婚約者であるアルベルトは、艶やかな黒髪に紫色の瞳を持つ美しい青年だ。侯爵家の嫡男だが、隣国に長く留学していたそうで、この国の社交界で見かけたことはなかった。
そんなアルベルトとレイナの出会いは、まさに運命。
大好きな舞台を見た帰り、お付きの者が伯爵家の馬車を呼びに行っているほんのわずかな時間に、レイナは初対面の男性に声をかけられた。
「なんて美しいお嬢さんなんだ。お名前をお伺いしても?」
男性のあまりの距離の近さに、レイナは困惑した。
「こ、困ります……」と伝えると、相手はレイナの腕を乱暴に掴む。
「声まで愛らしいなんて! これはもう運命ですよ。さぁさぁそこのカフェで、私とお茶をしましょう」
「や、やめてください」
力強く引っ張られ、レイナが恐怖を感じた瞬間、「そこまでだ」という声と共に男性の手がパンッと振り払われた。次の瞬間、足を引っかけられ男性は盛大に転んでいる。
「いってぇ!? なんだ、テメェ!」
そう怒鳴った男性からレイナを守るように背中に隠してくれたのが、アルベルトだった。
そのとき、颯爽と現れて助けてくれたアルベルトは、平民のような服装をしていたため、あとから侯爵令息だと分かってレイナはとても驚いた。
その後に成立したレイナとアルベルトの婚約は、侯爵家側が強く望んだもので、二人の仲も良好だった。
そのアルベルトが、今日はパーティーが始まる時間になっても現れない。
レイナは『急用で来れなくなったのかしら?』と思ったが、誠実なアルベルトなら連絡をくれるはず。
(事故に遭ったとかじゃなければいいけど……)
代わりに弟ロニーのエスコートを受けてレイナは会場へと入り、アルベルトの姿を探していた。誰かに聞いてみようと思ったが、会場内に親しい友人が何故か一人も見当たらない。
ロニーがため息をついた。
「まったく、アルベルト兄さんには困ったものです」
「いつもは、こうじゃないのよ?」
「そうは言っても、最近、姉様に会いに来ていないようですし、今日は姉様の誕生パーティーなんですよ!? どんな用事があるにしろ、遅れるなんて絶対に許せない!」
語気を荒くする弟をなだめるために、レイナは「私は大丈夫よ」と微笑んだ。
ただ少しだけ不安な気持ちもあった。
最近、貴族の間では『婚約破棄』というものが流行っている。それは、親同士が決めた婚約を『真実の愛に目覚めた』という理由で一方的に高位の男性側から破棄することだった。
元を辿れば、他国の王子が、性格の悪い公爵令嬢との婚約を破棄し、心優しい隣国の姫と結婚したことに始まる。それが世間に衝撃を与えとても刺激的だったため、『婚約破棄』はその後あちらこちらで舞台化された。
レイナも初めて舞台を観たときは驚き、見事にハマってしまいその後、何度も繰り返し見に行った。舞台では、王子のお相手は平民の女性に脚色されていて、それがまた非現実的で楽しいのだ。
(王子と平民女性との切ないロマンスが素敵なのよね)
それだけではなく、王子を愛している美しい公爵令嬢が、嫉妬の余り闇へと落ち、悪役令嬢になっていくのも見どころの一つだった。悲しみと憎しみ、そして、王子への執念とも呼べるような深い愛。その激しい感情を、圧倒的な演技力で演じる女優がいて、レイナは彼女の大ファンだった。
しかし、『婚約破棄』も『悪役令嬢』も、お話の中での出来事であって普通ではあり得ない。逆にあり得ないことだからこそ、これほどまでに人気が出たともいえる。
(それに、あの優しいアルに限って『婚約破棄』はないわね)
最近、会いに来てくれないのはきっと忙しいから。今日、来られなかったのも、何か理由があるに違いないと、レイナは自分に言い聞かせた。
その時、バンッと勢い良くパーティー会場の扉が開いた。一斉に人々は扉のほうに視線を向ける。そこには、レイナの婚約者アルベルトの姿があった。
(アル?)
いつもの優しい笑顔ではなく、アルベルトの顔は見たこともないくらい真剣だ。
いつのまにか会場の音楽が鳴り止んでいる。
静まり返った会場にアルベルトのカツッカツッカツッという靴音だけが響いた。アルベルトはレイナの真正面で立ち止まると、レイナに向かって勢いよく右手を突き出す。そして、会場中に響き渡る声でこう宣言した。
「レイナ、君との婚約を破棄する! そして、私はここにいるシャーロットに真実の愛を捧げよう」
アルベルトがまるで舞台役者のような仕草で、その場にいた一人の女性に右手を差し出す。シャーロットと呼ばれた女性は嬉しそうに頬を染めてアルベルトの側に駆け寄った。
「アルベルト様!」
「シャーロット!」
恋人同士のように寄り添う二人をレイナは呆然と見つめていた。そして、ふと我に返る。
(こ、これは……まさしく婚約破棄!)
舞台で幾度となく見たあの婚約破棄が、今、目の前で行われている。
(しかも、私が悪役令嬢の立場だわ!)
二人の真実の愛を邪魔しているのだ。
目の前で起こっていることが現実とは思えなくて、レイナは「アル……」と呟いた。そのとたんに、アルベルトはビクッと身体を震わせる。
「今の言葉、本当なの?」
「えっ、あのっ」
はっきりしないアルベルトが、隣にいたシャーロットに笑顔のまま腹部に肘鉄をお見舞いされたように見えたのは、レイナの気のせいだろうか。
「も、もちろんだ! 君との婚約は破棄だ!」
「……そう」
アルベルトの意思は固いようだ。レイナはとても悲しくなった。舞台のように憎しみや嫉妬の気持ちは湧き起こらない。本当に、ただただ、悲しいだけ。
(アルは他に好きな人がいたのね。それなのに、今まで私と婚約してくれていたなんて……。きっとつらい日々を送っていたに違いないわ……)
優しいアルベルトのことだ。一人で今までたくさん苦しんだのだろう。
(でも、私は楽しかった……)
アルベルトと何気ないことを話して笑い合ったり、将来のことを語ったり。あの笑顔や言葉が全て嘘だったとは思えない。
アルベルトを見つめると、サッと視線を逸らされた。彼の愛を得たシャーロットは、勝ち誇ったようにレイナを見ながらアルベルトの腕にそっと手を添える。
そのとたんに、レイナの心は切り裂かれたように痛んだ。
「ねぇ、アル……。私が婚約者だから、今まで優しくしてくれていただけなの? 私のことは、少しも好きじゃ……なかった?」
アルベルトの顔が歪んだ。それは今まで見たことがないような苦しそうな表情だった。
(そうだわ。私は悪役令嬢なのだから、もう何を言っても彼の気持ちは戻ってこないのね)
レイナはスカートを少し持ち上げ軽く膝を曲げた。
「分かりました。……お幸せに」
「レイナっ!」
アルベルトに名を呼ばれるのもこれが最後だろう。そう思うと涙が滲んだ。このままここにいれば、無様にも泣いてしまう。貴族として伯爵家の令嬢として、それだけは許されない。
レイナはアルベルトに背を向けて静かに歩き出した。
「待ってくれ、レイナっ!」
なぜか追いかけてきたアルベルトに、レイナは左手首を掴まれた。
アルベルトがこれ以上、何を言うのか怖くて聞きたくなかった。でも、レイナは最後にこれだけは伝えようと思った。
「アル、貴方を……愛してしまって、ごめんなさい」
レイナの瞳から涙が一粒こぼれ落ちたとたんに、アルベルトは叫んだ。
「もういいだろう!」
会場中に声を響かせたあと、アルベルトはレイナの弟ロニーを睨みつける。
「早く! 早くアレを出してくれ!」
ロニーは「なんのことですか?」と眉をひそめた。
「何って、アレだ! ほら、早くレイナに事情を!」
アルベルトの言葉を遮り、ロニーがレイナの元に駆け寄ってくる。
「姉様、大丈夫ですか!?」
青い瞳に涙を浮かべたロニーは、レイナの手をぎゅっと握った。
「アルベルト兄さんは、なんて酷い男なんだ! 姉様、あんな男のことなんて、さっさと忘れてしまいましょう!」
ロニーがそっとレイナに抱きついた。
「ありがとう、ロニー」
気丈に振る舞っていたが、本当は足が震えて今にも倒れてしまいそうだ。
そのとたんに、アルベルトに強く腕を引かれロニーと引き離された。肩を抱き寄せるアルベルトをレイナは驚き見上げる。
「ア、アル?」
ロニーを睨みつけるアルベルトの目は鋭い。
「ロニー! なんのつもりだ!?」
「兄さんこそなんのつもりですか? あ、もう婚約破棄したので、兄さんではなかったですね。どうか、そちらのシャーロットさんとお幸せに」
ロニーは両手を広げて「さぁ、姉様はこちらへ」と微笑んだ。
「ロニー……お前、騙したな!?」
「人聞きが悪いですね。貴方から一方的に婚約破棄を宣言しておきながら、何を今更」
「あれは、レイナが『悪役令嬢』や『婚約破棄』に憧れているから、サプライズパーティーをしようと、お前が言い出したんだろうが!」
ロニーは「なんのことだか?」と鼻で笑う。
「お前の提案のせいで、俺はこの一か月間、演劇の稽古まで受けることになったんだぞ!? そのせいでレイナに会う時間が取れなくて、どれほどつらかったか!」
「はぁ? アルベルト様は妄想癖でもあるんですかねぇ?」
「こんの、腐れシスコン野郎! レイナの前でだけ良い子ぶりやがって!」
「何だと!? アンタみたいな裏表の激しい奴にだけは言われたくないね! 姉様の前でだけ紳士ぶりやがって!」
「俺はレイナに出会って変わったんだよ!? 優しくて聡明で美しいレイナに相応しい男になっただけだ!」
「それを騙してるって言うんだよ! 本当は留学なんて行っていないくせに! 素行が悪すぎて侯爵家から追い出されて平民のように暮らしていただけのくせに!」
「そうだよ! 俺が荒れていたのは事実だ! でも、お前がレイナに近寄る男を全て追い払いまくったから、俺みたいな男しか残らなかったんだろうが! 事情はどうあれ、レイナに出会わせてくれたから、今まで見逃してやっていたものを!」
「姉様は結婚なんてしなくていいんだよ!? ずっと僕の側にいるんだ!」
お互いの襟首を掴みながら感情的になっている元婚約者と弟を、レイナは呆然と見つめていた。
(いったい……何が?)
いつも穏やかで優しい二人が乱暴な言葉を使って罵り合っている。
レイナが状況把握に困っていると、アルベルトの真実の愛のお相手、シャーロットが近づいてきた。何を言われるのかととっさに構えたが、シャーロットはレイナに向かって深く頭を下げる。
「お嬢様、この度はお誕生日おめでとうございます。何やら、おかしなことになっておりますが、私共は決してお嬢様を苦しめようとしたわけではなく!」
そう言う彼女の顔は青ざめている。
(あら? このお顔……)
メイクも髪色も違うが、この意思の強そうな綺麗な瞳には見覚えがあった。
「もしかして、貴女、舞台女優の?」
シャーロットが食い気味に「そうです! お嬢様を驚かせてお祝いしたいと依頼を受けて今日は劇団員を引き連れて参りました!」と言うと、パーティー会場にいた多くの人が、その言葉を受けてうやうやしく頭を下げる。
「では、このパーティーは?」
「はい、『サプライズパーティー』というものです! お嬢様の本当の誕生日パーティーは後日開催されると聞いています。私達は、決してお嬢様に無礼を働こうとは思っておりません! ほどよい所で、ネタ晴らしをする予定だったのです」
シャーロットの横で男が『サプラーイズ!!』と書かれた看板を慌てて出した。
アルベルトが『アレを出してくれ』と言っていたアレは、この看板のことのようだ。
「なるほど、事情は分かりました。……とても傷つきましたし、悲しい思いをしましたが……」
「申し訳ありません!」
必死なシャーロットに、レイナは微笑みかけた。
「貴女達はお仕事をしただけですものね。罪はありません。ところで……」
レイナはそっとシャーロットの耳に囁きかける。
「私、貴女の大ファンですの。サインいただけまして?」
シャーロットは目を見開いたあとに「はい!」と大きな返事をした。
憧れの人の直筆サインを貰い感動しているレイナの元に、弟のロニーが駆け寄ってきた。
「姉様、見ましたか!? これがこの男の本性です!」
アルベルトがロニーを押しのける。
「それはこっちの台詞だ! レイナ、君の弟はとんでもないぞ!」
レイナがため息をつくと、二人はようやく静かになった。アルベルトは泣きそうな顔で「本当にすまない……」と謝罪する。
「君を喜ばせたい一心で、間違ってしまった。君を泣かせたかったわけじゃないだ! 本当に、ごめん」
「アルベルト様……」
レイナは小さなため息をついた。
「そうですね。今回は『悪役令嬢や婚約破棄に憧れる』と言った私が不謹慎でした」
アルベルトが「ほら、ロニーも謝れ!」と言ったが、ロニーはそっぽを向く。
「僕は謝りませんからね!? 姉様はこの男に騙されているんだ! こんなやつとは婚約破棄するべきだ」と涙を浮かべる。レイナは、何度目になるか分からないため息をついた。
「ロニー。この件は、またあとでお話しましょう」と告げて、シャーロットの手を取り歩き出す。
「さてと」
レイナはシャーロットと劇団員達にニコリと微笑みかける。
「本日は、素敵なサプライズをありがとうございました。このあとは、どうかお仕事は忘れてパーティーを楽しんでくださいね」
会場内から歓声が上がり、再び会場に音楽が鳴り響いた。
嬉しそうに食事を始めたシャーロットに、レイナはそっと声をかける。
「シャーロットさん。ロニーを反省させたいのですが、何かいい案ありまして?」
シャーロットはニヤリと口端を上げた。
「お嬢様、実は隣国では『ざまぁ』というものが流行っていまして、婚約破棄された令嬢が他国の王子に見初められて、元婚約者も家族も捨てて、他国で幸せになるというお話があるのです」
「まぁ、それは……とっても素敵ですわね」
「はい、我が劇団には、王子のように見目麗しい団員も所属しております」
「それはそれは」
レイナとシャーロットは、美しく優雅に微笑み合う。
*
後日、再び開かれたレイナの本当の誕生パーティーにて。
他国からきたという美しい銀髪の王子が、レイナに一目惚れし告白した。
「なんて可憐な方なんだ。近頃、婚約破棄されたと聞きました。ぜひ、私の国に一緒に来てください」
レイナは、白い頬を赤く染めながら「まぁ」と呟く。
それを見た弟ロニーの顔から一気に血の気が引いた。
アルベルトが「レイナ!」と強く名を呼んでもレイナの視線は王子様に向けられたまま。
ロニーが「ね、姉様?」と声をかけると、レイナはロニーにニッコリ微笑みかけた。
「あなたの言う通り、アルベルト様とは婚約破棄するわ。そして、彼の国に行きます」
「えっ……」
レイナの肩を王子が優しく抱き寄せた。幸せそうにレイナは微笑む。
「もう二度と会えないと思うけど……。ロニーもそれを望んでいたのでしょう?」
「ち、違う! 僕は……」
ロニーが絶望の表情を浮かべたとき、王子の背後でメイドのふりをしていた舞台役者のシャーロットが『サプラーイズ』の看板を出した。
それを見て膝から崩れ落ちたロニーにレイナは微笑みかける。
「ね? いくらサプライズでも騙されると傷つくでしょう? これからは、アルベルト様とケンカせず仲良くしてね」
「は、はい」
そうお返事したロニーの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっている。
王子から奪うように、アルベルトがレイナの肩を抱き寄せた。
「事前に聞いていたから我慢して見守っていたが、君に俺以外の男が触れるのは不快だ」
そんなアルベルトにもレイナは微笑みかける。
「私もそうだったわ。シャーロットさんに嫉妬したもの。だから、これくらいの可愛い仕返しは許してね」
「うっ」
クスッと笑ったレイナは、まるで舞台上の悪役令嬢のように意地が悪く、そして、美しかった。
おわり