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石鹸

 この異世界に生まれ変わって我慢ならないことは数多ある。特に衛生面においては日本の環境とあまりにも違いすぎて、目眩がするほどだ。

 今のところ私は城の外に出ていないので伝聞でしか無いが、町の中では道を歩いていると、建物から排泄物が降ってくるのだという。

 冗談だろう? と、思ったがノーラたちは大真面目だ。町の人々は部屋の中でおまるに排泄して、出てきたものを窓から投げ捨てるのが一般的なのだという。

 分かった。私は一生を城の中で過ごすわ。

 と、固く決意したが、十歳になれば学校に通うために王都に出向かなければならないのだという。幸いなのは学校には寮があって、町に出ないで生活ができるということだろう。領地と王都の屋敷と学校の行き来は馬車でできるから問題ない。馬車の天井に何かが落ちる音がしても私は聞かない振りをする。

 閑話休題。

 私は今そこにある問題に立ち向かわなければならない。すべては自堕落に、頑張らないために、最低限の生活環境は整えなければならないのだ。

 お尻洗浄器、カトラリー、パンツと緊急性の高い問題から片付けた。だがここに、緊急性こそ高くないものの我慢ならない問題が残っていた。

 石鹸である。

 文字通り糞みたいな衛生観念をしているくせに、この世界の貴族は人に会う前に体を綺麗にしようとする習慣がある。つまり朝起きたらまず体を洗うのだ。それはいい。とてもいいことだ。日本人としては寝る前にひとっ風呂浴びたいという気持ちもあるが、人と会う前にまず体を清めるという考え方はとてもよく理解できる。風呂があり、入浴の文化があることも素晴らしい。

 だがそこに登場することになる石鹸。これがいただけない。前にも話したとは思うが、この世界の石鹸は柔らかく、そして臭い。とても臭い。最初に手にしたときは、これが本当に石鹸なのかどうか疑ったものだ。今でも疑問視している。

 とは言え、フランソワーズはこれを石鹸だと認識しているし、実際風呂にも置いてある。風呂に入るのに体を洗わないという選択肢も無いので、私はこの柔らかい石鹸を手に取り、体に塗りつけて泡立てる。臭い。臭いが我慢だ。泡立つことは泡立つので石鹸なのだろう。体は綺麗になっている。そう信じるしか無い。

 って、我慢できるかーい!

 私は憤懣やるかたないといった体で立ち上がった。入浴の介助のため立ち会っていたノーラが目を丸くする。


「ノーラ! 私は石鹸を作るわ!」


「石鹸なら今お使いですが」


「私はこんなものを石鹸とは認めない!」


 柔らかいじゃん。石じゃねーじゃん。例によって発音はサヴォンだから、漢字とは関連性がないとは分かってるんだけどさー。分かってるんだけどさー。

 一応、家庭でもできる石鹸の作り方は知っている。水で溶かした苛性ソーダに油を入れて混ぜ、固まるまで放置するだけ。好みでアロマオイルを入れてもいい。苛性ソーダは劇物なので扱いには注意が必要だが、それだけ気をつけていれば誰でも簡単に石鹸が作れる。

 しかし問題は苛性ソーダをどう手に入れるのか、だ。

 この臭い石鹸はどうやって作られているのだろう?


「ねえ、ノーラは石鹸の作り方は知ってる?」


「はい。動物の脂と木の灰を混ぜ合わせて作ります。この城でも作っていますよ」


 打てば響くと言った感じでノーラはさっと答える。きっとノーラも自分で作ったことがあるんだろう。


「ふむ、臭いの原因は動物性の油脂か。オリーブオイルを使うだけで改善できそうじゃない?」


「オリーブオイルから石鹸が作れるのですか?」


「そのはずよ。動物の脂を使う代わりにオリーブオイルで石鹸を作らせてみて」


「もったいない気もしますが、お嬢様がそう仰られるのであれば」


 ノーラが僅かに逡巡する気配を見せたことが気になった。


「ひょっとしてオリーブオイルって値段が高かったりする?」


「庶民にとってはそうですね。お嬢様が気にされるようなことではないですよ」


「うん。まあ、それはそうだけどね」


 幸いなことに公爵令嬢として生まれ変わり、お金に苦労したことはない。とは言え、私のわがままによる浪費で家を傾けたりしては大変だ。主に私の未来が。


「オリーブオイルが高い理由を聞いてもいい?」


「オリーブを中心に栽培するような農家がありませんからね。どうしても量が少なくなるのです」


「値段が高いならオリーブの栽培に手を出す農家も出てきそうだけれども?」


「それだけで食っていけるようなものでもありません。農民は小麦を作って税を払い、後は自分たちが食べる物を栽培するので手一杯ですから」


「なるほど」


 農民は税と食べる分を栽培するのに手一杯で、金に替わるオリーブを大々的に栽培する余裕が無い。


「税が重すぎるということはない?」


「それはとても難しい問題です。正直に申し上げますと、税を軽くしたところで、農民はその分、休みを増やすだけでしょう。その分の余暇と土地を使ってオリーブの栽培に手を出すとは思えません。なにかを栽培するにしても他のなにかすぐに食べられる物でしょうね」


「まあ、税を軽くしてとお祖父様に言うわけにもいかないわよね」


 私の生活はその税によって支えられているのだ。それを減らすというのは自分の首を締めることに他ならない。


「オリーブを栽培する農家が増えれば、オイルも安くなるんだろうけれど」


「農家が本腰を入れてオリーブを栽培すれば、当主様もそこから税を取らないわけにはいかなくなってきます。現状は農道に植えられている分や、自生している分から採取して売っているだけなのでお目溢ししてもらっていますので」


「ああ、彼らの小遣い稼ぎを潰すのも問題ね。貴重な収入だろうから」


 どうやらオリーブオイルの安定供給は得られそうにない。

 そこで私は身震いし、大きくくしゃみをする。そうだ。真っ裸で立ち上がったままだった。しゃがみこんでお湯に体を浸す。


「しかしオリーブオイルから臭わない石鹸を作ることができるのであれば、旦那様も本腰を入れられるかも知れません。この臭いには誰だって辟易としておりますので、値段の問題さえどうにかできれば普及するのは間違いないかと」


「まあ、誰だってこの臭いはキツイわよね」


 泡の浮いた湯船は首まで浸かっただけでも、ぷーんと臭いが鼻を刺激する。お風呂上がりの石鹸の臭いが獣臭というのは、どんな罰ゲームだって話だ。もちろんそれを誤魔化すために香水をばんばん振りまくのだけど、臭いに匂いが混じって、もういい匂いなのか、臭いのか、わけが分からなくなってくる。多分、他人の臭いがそんなに気にならないのって、自分も同じ臭いを振りまいてるからだよな。

 湯船から出た私をノーラが布で拭いていく。パンツを履かせてもらい、ドレスを着せてもらう。最初は何もかも他人にしてもらうのは気恥ずかしかったが、もう慣れた。気分は王侯貴族。というか、ガチ貴族だった。

 私はレオニーに指示して早速石鹸作りに走らせる。失敗してはいけないから、まずは少量。私が使える分だけでいい。うまく行けば数日後にも臭わない石鹸が使えるだろう。

 そしてその目論見は驚くほどうまく行った。オリーブオイルを使った石鹸は、動物性油脂を使った軟石鹸とは違い、しっかりと固まってくれたのだ。これには作らせた私も驚いた。それから匂い。まったくの無臭ではないし、懐かしき日本の石鹸のようないい匂いはしないが、動物性油脂の軟石鹸と比べたら段違いに臭くない。これなら体を洗うのにもまったく抵抗が無い。

 私は早速、自分を念入りに洗った後、正餐の時間にお父様とお母様に披露した。


「臭くない石鹸ですって! それはとても素敵ね、フラン」


 固まった石鹸を手に、その匂いを嗅いだお母様は朗らかな笑みを浮かべる。


「またしても新しい発明品かい? また陛下のところに馬を走らせなければいけないな」


 そう言いながらもお父様も嬉しそうだ。


「オリーブオイルが動物の脂の代わりになるとはね。だけどこれはフランのお小遣いにはならなさそうだね」


「そうなのですか?」


 別に生きるのに困らないだけのお金があればそれで十分だけど、この石鹸は十分商品になりそうなのに、なんでだろう?


「オリーブオイルと灰さえあれば作れるんだろう? 製法が知れ渡れば誰でもこの石鹸が作れることになる。お金の動く余地が無いよ。いや、でも知らせる必要はないのか。陛下には知らせないわけにもいかないだろうけど、お願いしてウチの産業にすることはできるか……」


 そう言ってお父様は考え込む。


「どちらにせよ、オリーブの増産は必須だし、新しく植えたオリーブの木から実が採れるようになるには何年もかかるな。農地がそれだけ潰れるわけだし、うまく産業になったとしても、この儲けをフランのお小遣いというわけにはいかないね」


「私としてはこの臭わない石鹸が普及するだけで十分です」


「そう言ってくれると助かるよ。しかしお尻洗浄器にこの食器、女性のための下着と来て、新しい石鹸か。この短い期間にこれだけのものを思いつくなんて、フラン、君になにがあったんだい?」


「どういうことでしょうか?」


 私は必死に平静を装ってそう答えた。いくらなんでも一気に日本のものを導入しすぎたのだと今更気づいてももう遅い。


君は誰だ(・・・・)?」


 お父様の目は私がフランソワーズではないことを確信している。だけどそれは間違いだ。私は確かに細谷茉莉花の記憶を持っているが、フランソワーズの記憶もある。確かに生きた年月が長い分だけ茉莉花的に物事を考えてしまうが、フランソワーズとしての私が消えてしまったわけではない。お父様とお母様を自然とそう呼んでいるのも、フランソワーズの記憶があるからだ。


「私は私ですわ。お父様」


 真っ直ぐにお父様の目を見つめ返して私は答える。決して嘘は言っていない。言えないことはあるけれど、私がフランソワーズだということだけは本当だ。

 しばらく私とお父様は正面から見つめ合っていたが、やがてお父様がふぅと息を吐いた。


今は(・・)そういうことにしておくよ」


 私は心の中で冷や汗を流しながら、目の前の肉をナイフで切り分けて口に運んだ。どうやらしばらくは大人しくしているしかないようだ。幸い、どうしても我慢ならないようなことは全部解決した。のんびり、がんばらないで生きていこう。

ひとまず思いついたネタはここまでです。

他にも異世界で不便そうなことを思いついたら更新しようかと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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