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トイレ 2

 心の中でさめざめと涙を(こぼ)しながら、私のおしりからうんこが出ていった。健康そのものの一本糞は日本人であった頃では考えられなかったことだ。ぎゅっとお腹に力を入れて絞り出したところでお腹はすっきりし、便意も消えた。

 そして自然とトイレットペーパーを探して目線を動かして、私はとんでもないことを思い出した。この世界にはトイレットペーパーが無いのだ。それどころか、これまで私は自分でお尻を拭いたことがない。すべてはノーラがやってくれていた。だから私がすっきりした顔をしたことに気付いたノーラは私のところにやってきて――。


「ノーラ、待って、私自分で――」


 自分でどうするのか?


 ノーラはどうやって私のお尻を拭いていた?


 お尻を(ぬぐ)うその柔らかい感触は人肌ほどに暖かく湿っていて、私のお尻を吹き終えたノーラはいつも水桶で手を洗っていた。


 って、手で拭くのか! インドかよ!


 死んだと思った自尊心(27)にはまだ息があった。

 自分の手でうんこを拭うのはやりたくない。かと言って他人の手でお尻を拭かれたくもない。もしいま私の前に神様が現れてひとつだけ願いを叶えてくれるというのなら、迷わずトイレットペーパーをお願いするだろう。


 フランソワーズの記憶のおかげで、この世界では紙が貴重品であることは分かった。間違ってもお尻を拭くのに紙を要求してはいけない。もっともフランソワーズの記憶にあるようなごわごわした紙でお尻を拭けば、あっという間に切れ痔一直線だろう。


 せめて布で拭きたい。いま着ているドレスのスカートで拭くわけにもいかないだろうから、せめてハンカチのようなもので。


 などと私が考えている間に、ノーラは慣れた手付きで私のスカートを捲りあげ、水を張った手桶を傾けて手を濡らすと、私のお尻に突っ込んだ。抵抗する間もない。他人にお尻を弄られる感触に、ふぎゃあと変な声が出る。右手でがっちりホールドされて逃げ出すことも叶わない。そのままぐりぐりとお尻を指で拭われて、私は汚されてしまった。うんこを拭いてもらったのに汚れたとはこれ如何に。


 自尊心を二度殺された私が呆然としていると、ノーラはうんこで汚れた手を手桶の水で洗い流し、ハンカチで拭った。そのハンカチでケツを拭けよ!


 レオニーとナザがおまるを抱え、おしっことうんこと水の混じり合った排泄物を便座の穴から投棄する。


「ここからなら楽でいいですね」


「お嬢様の気まぐれに感謝ね」


 二人はそう言って手桶を使っておまるの内側に水を注ぐと、軽く揺すってもう一度その水を投棄した。茫然自失から立ち直った私は、とぼとぼと部屋に戻った。三人とも付いてくる。あとおまるも持ってくる。トイレでうんちしたのは本当に気まぐれだと思われているのだろう。


 部屋に戻った私は改めて自分の部屋を見回した。廊下に続く扉とは別に寝室に続く扉がある。暖炉にソファ、アンティークなテーブルの上にはティーセット。壁際の棚には人形が飾られている。足元はふかふかの絨毯が敷かれている。そして鎮座するおまる。最後のひとつで素敵なお部屋が台無しだ。

 火の入っていない暖炉の前のソファに座り、私はようやく一息ついた。

 ようやく落ち着いて物事を考えられる。


 ――私は誰だ?


 日本人である細谷茉莉花であると同時に、この世界のフランソワーズ・ド・ラ・ジラルディエールだ。私の中には双方の記憶が同居している。生きていた年月が長い分だけ、茉莉花の意識が強く出ているが、フランソワーズの意識が消えてしまったわけではない。同時に二つの意識が同居しているというよりは融合してしまったという方が近い。


 ――ではここはどこだ?


 フランソワーズの知識はあまり豊かではない。勉強不足というよりはまだ5歳という年齢のせいだろう。だがその知識を元に考えると、現代日本でないことは明らかだ。そりゃまあ、名前からして日本人ではないもんな。

 名前の感触から言うとフランスっぽいが、現代フランスで水洗トイレがまだ普及していないということはないだろう。では突拍子も無い考えになるが、遙か過去のフランスか? それも否と答えることができる。なぜならこの世界には魔術が存在するからである。おう、さらに突拍子が無くなったな。


 とは言え、かつてのヨーロッパでは魔術が信じられていた時代もある。そういう可能性は?


 ノーだ。フランソワーズは魔術が実際に行使されるところを見たことがある。それは火、風、水、土の四属性を操る技術であり、秘術ではなく広く一般に知られているものだ。


 魔術の存在する世界。つまり地球ではない。異世界だ。


 つまり地球で死んだ細谷茉莉花は、この異世界に転生したということか?

 現時点で推測できる範囲ではそれが一番正解に近い気がする。


 そうか、死んじゃったのか、私。


 いまこうして生きているから実感が湧かないが、親や兄弟、そして私の遺体を発見した人には随分と迷惑をかけたのではないだろうか。なにせトイレでうんこしながら死んだのである。みっともないし、恥ずかしい。できれば周囲には死の様子はぼかして、ただ突然死したのだと伝えて欲しい。死んだ後に笑い者にされるのは、ちょっと辛い。


 しかしどうしてまた私は転生なんぞしたのだろう?


 フランソワーズの知る限り、この世界では転生というのは一般的な考えではない。地球で死んだ人がみんなこの世界に転生しているということはなさそうだ。あるいは転生しているかも知れないが、私のように前世の記憶を取り戻すということをフランソワーズは聞いたことがない。

 前世の記憶を持っているということはあまり他言しないほうが良さそうである。この世界の常識がどうなっているのかフランソワーズは知らないが、地球には魔女裁判という歴史もある。私が前世がどうのこうの言い出したら誰かが魔女裁判に引っ張り出さないとも限らない。


 では細谷茉莉花の記憶のことを隠してフランソワーズ・ド・ラ・ジラルディエールとして生きていくのか?


 選択肢は他に無いように思える。


 幸いにしてフランソワーズは公爵家の令嬢で生活に困る要素は無さそうだ。将来的に政略結婚の道具にされそうではあるが、それはおいおい考えれば良い。フランソワーズの知る限り、今のところ婚約者がいるわけでもないようだ。茉莉花の記憶が確かならば公爵というのは、貴族の中でも位が高い。かなり楽な人生設計ができそうだ。


 うん、そうだ。楽に生きよう。


 前世は頑張って、頑張って、頑張りすぎて死んでしまったようなものだ。同じような人生は繰り返したくない。せっかく公爵令嬢として生まれ変わったのだ。今度は楽して楽して頑張らないで生きていこう。それができるだけの背景が用意されているのだから。


 そう考えると随分と気が楽になった。生まれ変わったのもそんなに悪いことでは無い気がする。こんなに綺麗な部屋に住めるんだし。


 そう思って部屋の中をもう一度見回して、私はおまるの存在に気付き、心の中で悲鳴を上げた。


 待って、ちょっと待って、この世界で生きていくということは、あんなトイレ事情が当たり前ってこと?


 人前で排泄して、うんこは庭に投げ捨て、豚に食わせる。お尻は手で拭いて水で洗うだけ。おえー。私には無理だ。少なくとも自分の手でうんこを拭う気にはなれない。かと言って一生ノーラにお尻を拭いてもらうわけにもいかないのだ。それだってかなり遠慮したいし。

 できれば洗浄機付き便座を用意してもらいたい。だがそれが無理な願いであることは重々承知である。この世界に突然洗浄機付き便座が現れても、電源を用意できない。なにか次善の策を考える必要がある。次の便意が訪れるより前に。


「お嬢様、またおトイレですか?」


 腕を組んでうんうん唸りだした私を見て、ノーラがそんなことを聞いた。


「違うの。ノーラ。その、お尻を手で拭くのってばっちくない?」


 フランソワーズの語彙は少ない。この世界の言語は日本語とは違うから、フランソワーズの記憶を頼りに話すしかないが、言葉がうまく出てこなくてもどかしい。


「お嬢様の出されたものであれば汚いなどと思ったことはありませんよ」


 本当のところはどう思っているのか分からないが、ノーラは平然とそうのたまう。乳母とは言っても、ノーラはまだ若い女性だ。そこまで取り繕えるものだろうか? 本気でそう思ってくれているにしても、うんこを手で拭いて水で洗うだけというのは衛生的にいただけない。せめて石鹸くらいは使って欲しいものである。公爵家なのだから石鹸くらいは手に入るだろうに、それをしないということは衛生観念自体が薄いか、あるいは存在しないのだろう。

 結局その手で私に触れることになるのだから、最低限の衛生観念は身につけてもらわなければ私の精神が保たない。


「魔術で水をぴゅーっと出してお尻を洗えないの?」


 フランソワーズの記憶に間違いがなければ、ノーラは魔術が使えるはずだ。


「そんなことは考えたこともありませんでした。ですが難しいと思います。お尻を洗うように水を噴射するということをお考えですよね? 水噴射を非常に弱く放つということになるんでしょうけれど、勢いが弱ければ指先を濡らす程度に終わるでしょうし、強ければかえって飛び散らすことになりかねません。力加減を間違えればお嬢様のお尻に傷をつけることになるかもしれませんし、やりたくはないですね」


 手加減を間違えたらお尻の穴がもう一つ増えるという事態になりそうなので、魔術でなんとかするというのは止めておこう。


 この世界の文明レベルでも実現可能なもっと原始的な手段は無いだろうか?


 要は水が小さな噴水のように噴き上がればいいのだ。


 例えば天井辺りに水タンクを設置してパイプで便座のところに引っ張ってきてやれば、逆サイフォンの原理で水は噴き上がるはずだ。水の噴き上がりが足りなければ、パイプの太さや、噴出孔の大きさを変えたり、水タンクの設置位置をさらに高くすればいい。パイプの途中に弁を設置して、レバーで開閉させれば、オンオフも可能だろう。


 非常にいいアイデアに思えたが、設置型である以上、便座に座ること自体が危険な現状では、私の役には立たない。必要なのはおまるでも使える携帯型だ。

 水が噴き出す携帯できる機構。


 すぐに思いついた。水鉄砲だ。


 だがフランソワーズの記憶に該当するおもちゃは無い。鉄砲というものの存在自体を知らない。もちろんこの世界の言葉で水鉄砲と伝える単語も私は知らない。


「手に持てるくらいの大きさで水がぴゅーって出るものってなにか無いの?」


「お嬢様がお望みのものは、ちょっと記憶にございませんね」


「レオニーやナザは?」


「……存じ上げておりません」


 二人は首を横に振った。


「しかしセドリック様ならなにか知っているかもしれません」


 セドリックというのはジラルディエール家に使える騎士で、現在は家令をしている壮年の男性のことだ。家の中を取りまとめる仕事をしていて、知識も豊富。フランソワーズにしてみれば、お祖父様の家来の中で一番偉い人ということになる。


「ナザ、セドリックに私の探しているようなものを知らないか聞いてきて」


「手に持てる、水が噴き出てくる道具、ですよね。用途についてもお話するべきでしょうか?」


「そうして。その方が伝わりやすいと思うから」


 伝言ゲームでまったく違うものを教えられても困る。男性にシモの話を伝えるのは恥ずかしいが、実際に見られたり、拭かれたりすることに比べれば、このくらいなんてことはない。

 それにセドリックは茉莉花としても恋愛対象よりはさらに上の年齢だ。幸いにしておじさま趣味ではない。セドリックにシモのことを知られても、なにかが決定的に終わってしまうわけではなかった。

 そう考えること自体が、もう決定的に終わっている、ということには目を瞑った。

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