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トイレ 1

 私、フランソワーズ・ド・ラ・ジラルディエール公爵令嬢は、うんこをしようとおまるにまたがり、ふんと勢いよく力を込めたところで前世の記憶を取り戻した。


 フランソワーズとしての記憶と、日本人である細谷(ほそや)茉莉花(まりか)としての記憶が混同したのに、その瞬間を混乱せずに迎えられたのは、茉莉花としての最後の記憶が、やはりトイレで踏ん張ったところだったからだろう。


 激しい痛みが胸を貫いて、私はそこを押さえた。痛いと思ったのは一瞬のことで、その感覚は夢のように消えていった。


 それと同時に私は茉莉花としての私が死んだことを理解した。


 おそらくは急性心筋梗塞かなにか。

 いや、完全に推測だけど。


 会社員だった茉莉花はあまりちゃんとした生活をしていたとは言い難い。夜遅くまで残業し、食事はコンビニばかり、運動もせず、痩せぎすで、健康診断の結果は散々。接待で浴びるほど酒を飲み、ろくに眠りもせず、目の下のクマを化粧で誤魔化して、満員電車で出社する。


 すべては結果を出すためだった。


 私は全力で頑張った。頑張りは結果を呼び込んだ。結果が出たのでまた頑張った。頑張って、頑張って、頑張って――、そしてうんこをしようとしてぽっくりと逝ったのだ。


 茉莉花の人生はなんだったのだろう?


 そう思うと涙が溢れてきた。


「お嬢様?」


 私が急に胸を押さえ、泣き出したからだろう。乳母のノーラが困惑したように声をかけてきた。そのことに茉莉花としての私がびっくりして、半分顔を出していたうんこはお腹の中に引っ込んだ。


 ――なんでうんこしてるのに他の人がいるわけ!?


 茉莉花としての私はそう思うが、フランソワーズとしての私はそのことを当然だと受け止めていた。


 今年5歳になったフランソワーズには乳母のノーラと、その部下であるレオニーやナザといった侍女が常に傍に控えている。うんこをするからと言って、彼女らがフランソワーズから目を離すわけにはいかないのだ。


 茉莉花はますます混乱する。27歳の自意識はうんこをするところを他人に見られるという現実を受け入れられない。さらにフランソワーズとしての記憶が、ここはトイレではなく自室であることを茉莉花に認識させる。


 ――5歳にもなって自分の部屋でおまるでうんこする!?


 自分が5歳だったときのことなどもう覚えていないが、甥や姪はどうだっただろうか。5歳ともなればひとりでトイレくらいできていた気がする。もちろんおまるじゃなくてちゃんとしたトイレで、だ。


「なにかございましたか?」


 おまるに跨ったまま硬直した私を心配しているのだろう。一歩引いたところで待機していたノーラが私の前に来てしゃがみ込む。


「トイレに行くわ!」


 ドレスの袖で涙を拭いて、私はそう宣言する。

 たとえトイレに駆け込んだところで、ノーラは付いてくるだろう。フランソワーズの記憶からすると間違いない。だけど自分の部屋でうんこするよりはいくらかマシだ。


「いけません。お嬢様にトイレはまだ危のうございます」


「私はもう5歳よ!」


 フランソワーズの記憶にはトイレの場所はあったが、中のことは無かった。私はまだトイレに入ったことがないのだ。だが茉莉花としての知識があれば大抵のことは大丈夫のはずだ。トイレなどどんなに時代と世界が違っても、その形に大した違いがあるはずがない。

 フランソワーズの記憶から推測できる文明レベルからすると、まず間違いなく水洗ではないだろうが、ボットン便所――つまり汲み取り式の便所――程度のものはあるはずだ。

 私はうんこが引っ込んだのをいいことに、おまるから立ち上がった。パンツを上げようと思って、この世界にはパンツが無いことを思い出し愕然とする。スカートの下はノーパンが基本なのである。心許ないことこの上ない。


「付いてきちゃダメ!」


 そう言って私は駆け出す。実力行使だ。


 ノーラやレオニーたちが止めようとしたが、私は彼女らの手をひらりと躱し、廊下に躍り出る。トイレの場所なら知っている。私は彼女たちが追いついてくる前に廊下を走ってトイレの前にたどり着いた。

 5才児からすると高い位置にある丸い輪っかのドアノブを引いて扉を開けると中に駆け込んだ。トイレの扉に鍵は無かった。これではノーラたちがやってきたら押し入られてしまう。でもトイレに座ってしまえばこちらのものだ。踏ん張っているところを引っ張られたりはすまい。


 私はトイレの中を確認した。言うまでもなくトイレという空間の奥には便座が鎮座している。トイレの奥の床が一段高くなっていて、そこに座るようにできていると言えば分かりやすいだろうか。


 恐る恐る近づいた私は便座を覗き込んだ。


 便座は木で出来た座椅子のようになっていて、お尻を置くところの中央はぽっかりと穴が開いている。そこまでは予想通りだ。しかし私をびっくりさせたのは、穴の奥が明るかったことだ。


 それは確かにボットン便所で間違いない。便座に座り、穴に排泄物を落とす構造だ。しかし穴の向こう側が明らかに私の知識にあるボットン便所とは違っている。普通ならそこは排泄物を貯める構造になっているはずだ。しかし私の目の前では、便座の向こうに庭が広がっている。


 ノーラが危ないと言った理由が分かった。


 もちろんボットン便所でも5才児であれば便座の内側に落下する恐れはある。そうなれば排泄物まみれになるだけでなく、命の危険もあるだろう。排泄物に溺れて死亡というのはあまり考えたくはない死因だ。まあ、排泄物を垂れ流しながら心筋梗塞で死ぬのとどれだけ違うんだって話ではあるんだけど。


 だけどここのトイレの場合は落ちればその時点で3階から地上まで一直線に落ちることになる。下は柔らかい草の生えた地面なので助かるかも知れないが、怪我は免れまい。あと当然、便座の直下には排泄物が落ちており、それに何頭もの豚が群がっている。うんこを食べているのだ。


 あそこに落ちるのはちょっと勘弁願いたいし、豚たちの真上でうんこをり出すのも、あまりやりたくない。豚たちを飼育している庭師なんかはわざわざ見上げたりはしないだろうけど、下から見ればあそこが丸出しだ。うんこが外から丸見えになるのも単純に辛い。


 私が便座を前に逡巡していると、トイレの扉が開きノーラが駆け込んできた。


「お嬢様!」


「ノーラ……」


 私がまだ便座に座っていなくて安心したのだろう。ノーラは息を吐いて、そっと笑みを浮かべた。そしてじりじりと距離を詰めてくる。


「さあ、お嬢様、お部屋に戻りましょう」


「やだ! ここでする!」


「どうかお聞き分けください。お嬢様に万が一のことがあってはいけません」


 私は必死に考えた。

 ノーラの言うとおり、ここの便座でうんこをするのは危険だ。かと言って部屋でおまるに跨ってうんこをしたくもない。


「そうだ! ここにおまるを持ってきて!」


 妙案だった。少なくともトイレという空間でうんこができるし、おまるであれば落ちる心配もいらない。部屋も臭くならないし、ノーラたちにしても結局はおまるの中の排泄物を外に捨てにいかなければならないのだから手間が省ける。Win-Winだ。私、大勝利である。


「おまるを持ってくれば、そこで致してくださるんですね?」


「うん!」


 私は頷く。というより早くおまるを持ってきていただきたい。うんこは引っ込んだが、便意は引っ込んじゃいないのだ。


「レオニー、ナザ、お嬢様の部屋からおまるを持ってきなさい」


 この異世界の中世と言いたくなるような文化レベルの国にはプラスチックと言った便利素材は存在しないから、おまるとは言っても木を削って作られたもので結構な重量がありそうだ。

 侍女は二人がかりでおまるを抱えてトイレにやってきた。そしてトイレの中におまるを設置する。


「さあ、お嬢様、言われたとおりにしましたよ。さあ、うんちしましょうね」


「ひとりでできるからみんな出てって!」


「駄目です。お嬢様。急にどうされたのですか?」


「だって恥ずかしいもん……」


 うんこをするところを見られるのは恥ずかしいという当たり前のことをわざわざ伝えなくてはならないことに不条理を感じる。


「誰でもすることですよ。恥ずかしいなんてことはありません」


 そしてこの世界は不条理だった。そう、排泄は別に恥ずかしいことではないのだ。お父様にしてもお母様にしても、人前でも平気で排泄する。さすがに身分の低い者が、目上の者の前で排泄するのは失礼に当たるようで、ノーラやレオニーと言った乳母や侍女が私の目につくところで排泄していた記憶はない。だがそれは恥ずかしいからではなく、失礼だからだ。彼女たちの前で私がうんこすることは別に失礼に当たらない。


 逃げ場は無かった。


 私はおまるに跨った。


 27歳の自尊心は死んだ。

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