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婚約者とアマンディーヌ

 

 


  社交シーズンも終わりごろ、宮廷の妖精が再び俗世に舞い戻ったことに社交界は大いに湧いた。

 連日催される高位貴族の夜会には、必ずといっていいほど彼の姿があった。メデウスの圧倒的な美貌と歌声は、貴婦人だけでなく紳士たちも骨抜きにしてしまった。

 かの妖精は、貴族に擦り寄らない猫のような気高さがよりいっそう魅力的であったが、最近の妖精はちがう。無邪気に微笑み、時折甘えた声で「あなたの話を聞きたい」と囁く魔性だ。貴族たちはそんな彼に計り知れない優越感と下心に酔いしれ、魔法にかかったようになんでも話してしまう。

 そんな風に、情報を持つ人々の間をひらひらとたゆたいながら、メデウスは女王蜂の元へ情報という蜜を送り届けていた。



「王手をかけられるような情報はないようね。」

 簡素なドレスに身を包んだアマンディーヌは、メデウスの方を振り向きもせずに、じっと目の前のキャンバスを見据えながら呟く。ドレスはところどころ絵の具で汚れており、手を汚すとうるさい侍女たちのために長手袋が装着されている。絵の全体のバランスを確認したアマンディーヌは、筆を取り黙々と着色を再開する。

 現在、王都の屋敷にいるアマンディーヌは、いまだ母を追悼する娘として社交界にも顔を出さず屋敷に引きこもっていた。使用人たちは、冷め切った親子でもあんな形で親を亡くすのは辛いのだろうと、同情してあまり口うるさく言わない。それはありがたいと、汚れてもいい母の部屋で存分に絵を描くのを楽しんでいたアマンディーヌだが、なかなか事はうまく運んでいない。

 伯爵の弱みも絵画も、あと一歩最後の仕上げがうまく決まらなかった。


「それが…確証がない上にかなりきな臭いから今まで黙っていたが、とある噂を嗅ぎつけた。」

 アマンディーヌの後ろに立っているため顔は見えないが、メデウスにしては控えめな声色だった。

「あら、いまだったら(かすみ)のような話でもうれしいわ。」

 筆を置いてまた絵のバランスをみるアマンディーヌは、上機嫌に明るく返す。

 そんなアマンディーヌにメデウスは一瞬ためらうように間をおくと、遠慮がちに告げる。


「貴女の従兄弟である、ブルーム卿とその奥方に関することだ。」


 その言葉にアマンディーヌは、熱心にキャンバスを見つめていた顔をゆっくりと振り返ると、強張った顔でメデウスを見つめる。

「…つづきを、お願い。」







 それから2週間と経たないうちに、アマンディーヌはとある夜会を訪れていた。今回は叔父のツテではない、正真正銘アマンディーヌに招待された夜会であった。

 今回の主催者は、お見合いおばさんで有名な夫人が開催されたとあって若者が多い。そんな中で、もうすぐ二十歳を迎えるにも関わらず未婚のアマンディーヌは少し浮いていた。


「今回はエスコートしてくださってありがとう、お兄様。」

 楚々とした笑みを浮かべるアマンディーヌに、ブルームは屈託なく微笑み返す。

「お母様を亡くされて塞ぎ込んでいたアマンディーヌが、夜会に出たいって言うんだから協力しないわけないよ。」

 正装していると普段の優しい雰囲気が鳴りを潜め、凛々しく見える。ブルームは、母親を亡くしてからずっと屋敷に引きこもっているとされていたアマンディーヌを心配してくれていた。幾度も手紙を送ってくれたが、不定期に返していたのに罪悪感を感じる。


「もうすぐシーズンも終わるでしょう。最後に、会いたい人がいるの。」

「…婚約者殿のことかな。」

 神妙な顔つきのブルームに、アマンディーヌはふふと曖昧に笑って話をそらす。

「そういえば、ブルームこそ奥様はいらっしゃらないのね。…バンビーナのお世話に手を焼いてるのかしら。」

 昨年、中庭で話題になったブルームの第一子はそろそろ1歳を迎える頃だ。可愛くて仕方ないころだろう。

「…妻とカトリーヌは、領地にいる。カトリーヌが少し体調を崩してしまってね。」

 眉尻を下げて悲しげに微笑むブルーム。きっと他人から見たら子煩悩な普段のブルームとあまり変わらないように見えるだろうが、付き合いの長いアマンディーヌには、引きつった笑みの翳りのあるブルームに見えた。


「ブルーム…。」

 思わずそっとブルームの袖口に手を伸ばすアマンディーヌ。しかし少しのためらいの後、その手は袖口に触れることはなかった。

「もし何かあったら、相談して。必ず力になるわ。」

 毅然とした表情でブルームを見つめるアマンディーヌ。

 そんなアマンディーヌに、ブルームは少し驚いていた。いつも自信がなくて、周りの空気を読んで曖昧に微笑んでいたアマンディーヌ。そんな彼女が今は凛として自信に満ち溢れている。

 この半年ほど、ただ母親の死を嘆いてるだけではなかったようだ。


「ありがとう、アマンディーヌ。」

 それでもブルームは、悟られないように微笑むしかなかった。










「まさか君からお誘いがあるなんて思わなかったよ。アマンディーヌ。」

 夜会の会場から離れた一室。そこは大音量で流れる楽団の音も微かなほど、辺りは静かで人1人寄り付かない忘れられた空間だった。

 ソファに沈み込みすでにワインをあけている男ーーエドモン伯爵は、はす向かいに座るアマンディーヌをねっとりとした視線で不躾に見遣る。


 アマンディーヌは伯爵にワインを注ぎながら淡々と告げる。

「シーズンも終わりになりますし、もう伯爵とお会いすることもないでしょうから。最後のお別れに、と。」

 世間話でもしているかのようにアマンディーヌは、いつもの感情の読めない微笑みを浮かべる。それに伯爵は顔を顰めると、嘲るような口ぶりで返す。

「最後のお別れ?…まさか、婚約破棄するのかい?君みたいな行き遅れが!」

 不機嫌をあわらにするようにガンっとワイングラスをテーブルに置く伯爵。こぼれたワインがテーブルに飛び散る。まさかアマンディーから振られるとは夢にも思っていなかったのだろう、苛立ちがにじみ出ている。

 伯爵の粗暴な仕草にも眉一つ動かさず、アマンディーヌはつづける。

「ええ、破棄することになるでしょう。」

「何を言ってるんだ?君は今まで何も言わなかったし何もしなかった。今更何の不満があるんだ。破棄したとしても、君の末路は悲惨なものだぞ。」

 なおも食い下がる伯爵に、アマンディーヌは白々しい気持ちになっていた。色狂いのうえ、自分の母親と寝る婚約者に不満がないと思っているのだろうか。そんなに、浮気をしても物言わぬ人形のような妻が欲しいのだろうか。


 沈黙を貫くアマンディーヌに、伯爵は焦れたようにアマンディーヌの右手を握る。

「アマンディーヌ、何を血迷ってるのか知らないが、このまま結婚して世継ぎを産めば君は一生安泰なんだぞ。女の幸せは子供を産むことだろう。それが分からないほど君は愚かな女じゃないよな?」

 先ほどまでの横柄な態度が幻のように、優しい声でアマンディーヌを宥めるように語りかけてくる。しかしアマンディーヌは伯爵の放った内容にふつふつと怒りが沸き立っていた。


 アマンディーヌは重なる手をすっと外し、能面のような顔を伯爵に向ける。

「伯爵は、私の従兄弟をご存知ですか?」

 先ほどとはまったく関係のない話題に伯爵は眉をひそめるが、しぶしぶと「ああ。」と答える。

「奥様のマリア・ミカエラ様は?」

「知っている。」

「では、産まれた子供のこともご存知ですよね。」

 アマンディーヌが氷のように冷たい声で問うと、伯爵は不快をあらわにする。

「何が言いたい。」

 アマンディーヌは一度ゆっくりと瞬きをすると、伯爵を射殺すように見つめた。


「伯爵の子供ですよね。カトリーヌは。」


 しんと室内が静まり返る。


 それからアマンディーヌは堰を切ったように話し出す。

「ブルームとマリア様には、結婚して6年が経っても子供はできなかった。けれど昨年の初夏、突如カトリーヌが産まれた。ブルームはほんとうに喜んで、お茶会をしたときにはカトリーヌの話ばかりだったわ。…でも、最近とある噂を聞きましたの。伯爵とマリア様がたった一度、夜会で共に姿を消したことがあるという噂。そしてその一夜の過ちの時期と、カトリーヌの産まれた時期の計算が合ってしまうの。」

 押寄せる感情の波を沈めながら、努めて冷静に話そうとする。興奮でどくどくと血は流れている音がするのに、指先は氷のように冷たく感覚がない。

 伯爵はアマンディーヌの訴えをまったく意に返さず、平然とした顔で嘯く。

「夫人とご一緒したのは確かだが、酒にめっぽう弱いようで介抱したんだ。まったくもってデマだよ。…それに、たった一度でできるなんて犬じゃあるまいし!」

 自分で言った皮肉がたいそう気に入ったようで、げらげらと下品に笑う伯爵。

 アマンディーヌは怒りに打ち震える拳を握りしめた。今聞いた言葉が本気なら、アマンディーヌは怒りで死んでしまいそうなほどだった。


「ではカトリーヌを殺そうとした理由は?無関係な他人の子供を殺めようと画策した理由は何故かしら?」

「おお、恐ろしい。か弱い赤子を殺すだと?証拠はあるのか?」

 やはりこういった修羅場は伯爵のが上手のようで、減らず口はぽんぽんと反論を繰り出す。気分はすっかり舞台俳優らしく、肩をすくめて無実の罪を着せられた自分に酔いしれている。

「それこそ君の仕業じゃないか、アマンディーヌ。ブルーム卿に叶わない恋をしていた、君の逆恨みということもありえる。」

 とどめとばかりにニヤリと口の端を上げる伯爵。

 それにアマンディーヌは、衝撃で固まってしまった。

 …伯爵にブルームへの恋心に気づかれていた。

 伯爵には、ブルームへの気持ちは完全に隠しているつもりだった。昔から伯爵はアマンディーヌの嫌がる顔が好きで、アマンディーヌの大切なものをたくさん踏みにじってきた。だからこそ、アマンディーヌは一番大切なブルームだけは守ろうとしていたのだ。

 だからって、なぜこんなことをしでかしたの…。

 常に楚々とした笑みを浮かべて澄ましたアマンディーヌが動揺しているのを、伯爵は気を良くしたようで、心を見透かしたように不要な一言をこぼす。


「そうだな、強いて言うなら君の愛するブルーム卿と私、どちらがいい男か試してもらおうと思ったんだ。…ま、人形を抱いてるくらいつまらなかったがな。」

 くつくつと笑う伯爵に、アマンディーヌはもはや怒りで何も聞こえなかった。目の前が一面真っ赤に染まったように不鮮明で、キンキンと耳鳴りがうるさい。

 幽鬼のように虚ろな瞳のアマンディーヌは、すっとワインボトルを手に取った。空になったワインを注いでくれるのかとグラスを持ち上げた伯爵。その直後、静かな廊下にガラスの割れる激しい音が響き渡った。






「ううぅ…。」

 頭からだくだくと血を吹き出しながらよろめく伯爵。辺りにはガラス片と伯爵から飛び散る鮮血で汚れていた。その様子を、アマンディーヌは感情の抜け落ちた顔で見つめる。


 アマンディーヌのボトル片を持つ右手に、つ…とワインが指に滴り落ちてきたので舐めとる。

「あなたみたいな身の程知らずでも、こんなに美味しいワインを飲めるのね。」

 アマンディーヌの紅をさした真っ赤な唇が三日月をえがく。目は道化のように細められているだけで、瞳の奥は暗い闇色が滲んでいる。

「なにをしたのか分かってるのか…こんなことしてタダでは済まさんぞ。婚約破棄どころじゃない、二度と社交界に顔向けできないようにしてやる!!」

 頭から血を流しすぎているせいで立ちくらみがするのか、片膝をつきながら喚く伯爵。姦しい伯爵に右手に持つボトル片を近くの床に叩きつけると、きらきらとガラス片が互いを弾き合う。アマンディーヌの反抗的な態度に、伯爵は殺意のこもった瞳で睨め付けきた。

 それをまったく意に返さない様子で、アマンディーヌは囁く。

「それは是非楽しみだわ。ずっと引きこもってられるなんて、とっても素敵。でも…。」

 うっとりするような艶のある声に、相変わらずの楚々とした笑みを浮かべるアマンディーヌ。

 ふっと真顔になると、膝をついている伯爵の胸に蹴りを入れる。そして伯爵が尻餅をついた右手を、ヒールの先でぐりぐりと抉る。伯爵は右手を抉りつづけるアマンディーヌの足を力いっぱい掴みながら、苦しみに叫ぶ。

「ぐっ…うっ、うぅあああ!!」


「社交界から消えるのはあなたよ、伯爵。」


 アマンディーヌは指先でそっと伯爵の目元に触れると、悲しげにまつ毛を伏せた。

「私、カトリーヌに会いに領地へ行ったの。会った瞬間分かったわ。…目が、あなたにそっくりだった。」

 ぽつりとつぶやいたアマンディーヌの言葉は、もはや伯爵には届いていなかった。アマンディーヌの足を掴む力がだんだんと弱まる。伯爵は眼球をぐるぐるさせ、ガラス片の上に倒れ込んだ。








 全身が動かない。

 金縛りにあったみたいに指先すらぴくりとも動かない。瞼を開けようにも目隠しがされていて目の前が真っ暗だ。あの夜会でアマンディーヌに頭を殴られて、それからどうなったんだ。ここはどこなんだ。

 困惑する伯爵に、透明感のある清廉な声が響き渡る。


「お目覚めかしら。伯爵。」


 まさに先ほどまで共にいたはずの婚約者の声に、伯爵は猛烈に叫びだす。しかし現実では辺りは静かなままで、喉は錆びついたように一音も発していなかった。


「今、目隠しを外しますわね。」


 しゅるりという音が響くと、突然明るくなった視界に目が眩む。

 だんだんと目が慣れてくると、伯爵の目の前にはフォークとナイフ、グラスと皿がぽつんと置いてあった。これからディナーでもはじまるような突飛な光景に、伯爵はまだ夢を見ているのかと思った。

 しかし、きゅるきゅるとサービングカートを押すアマンディーヌの登場に、やはりこれは現実だと心の中でかぶりを振る。


「伯爵にはワインのお詫びに、最高の美食を提供しようと思いましたの。」

 皿の上のディッシュカバーをぱかりと持ち上げるアマンディーヌ。するとそこにはゴルフボールほどの直径の、厚切りにカットされた肉らしきソテーがあった。

 伯爵が得体の知れない肉を不審気に見つめると、アマンディーヌはいたずらっぽく微笑む。

「これ、なんのお肉だと思います?」

 伯爵が喋れないとわかっているのに愉快そうに問うアマンディーヌ。

 伯爵が、分からない と視線で訴えると、アマンディーヌは伯爵の肩に手を置き、そっと耳元で囁く。


「睾丸の、ソテーなんです。とっても淫奔な豚がおりまして、罰として去勢しましたの。」


 その瞬間、伯爵は文字通り声にならない叫び声を上げた。伯爵の静かな動揺を悟ってか、アマンディーヌは低く呻るように笑う。

 そしてお手本のような優美な仕草で、ソテーをナイフで一口大に切ると、伯爵の口元へと運ぶ。


「咀嚼は手伝ってあげますわ。さあ、ご自分の大切な体の一部。召し上がってください。」



 伯爵が気絶する寸前最後に見たのは、アマンディーヌの清廉な微笑みだった。







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