裏切りとアマンディーヌ
アマンディーヌはここ最近心休まるときがなかった。
母にねちねちといびられ、婚約者に侮られ振り回され自己嫌悪する日々。乏しめられるのも自分を責めるのにも疲れてきていた。
そんな折に、公爵家に婿入りした従兄弟にお茶会に誘われた。父親の妹の優秀な三男坊は、昔からアマンディーヌに優しくて頼りになる兄のような存在だった。
お茶会とは名目で、個人的に愚痴やお喋りをしようという誘いだ。鬱屈としていたアマンディーヌは、そんな従兄弟の誘いに喜び勇んで承諾した。
「素敵なお庭だわ。」
陽の光がきらきらと反射する、整えすぎず植物の個性を生かした植物園のような中庭。アマンディーヌは従兄弟のブルームに案内され、美しい中庭を眺めながらお茶のできるテラスにいた。
アマンディーヌは中庭に心から感嘆すると、従兄弟のブルームはタレ目を細めて爽やかに微笑んだ。
「アマンディーヌなら気にいると思ったんだ。」
「ええ、とっても気に入ったわ。こんなに穏やかな気持ちになったのは久々。」
母や婚約者の前とは違い、穏やかな表情できっぱりと答えるアマンディーヌにブルームは眉を八の字にした。
「うまく、いっていないのかい。婚約者殿とは。」
晴れ晴れとした表情のアマンディーヌにこの話題を振るのは気が引けたようだが、どうやらこれが本題のようだ。心配性の従兄弟は、アマンディーヌの境遇をよく知っていた。だからこそ、お茶会と称してアマンディーヌを呼び出して話を聞きたかったのだろう。
問われた内容に、アマンディーヌは紅茶の芳香を楽しみながらまつ毛を伏せる。
「伯爵の噂は、あなたの耳にも十分届いているんじゃないかしら。」
「まあ、あの方は派手に遊んでいるからね。いやでも知ることになるよ。」
「ならご存知のとおり、婚約者もまともに留めておくこともできずお飾りの婚約者として恥じない働きをしているわ。」
アマンディーヌが眉を下げて笑う。
感情を押し込めるような苦しそうな微笑みに、ブルームはそうか…。と悔しそうな苦悶の表情を浮かべる。そんなブルームの表情に、アマンディーヌはショックだった。
何故ブルームがそんな表情をするの。
母や父が冷たかった代わりに、本当の兄のように愛情を与えてくれたブルーム。兄のように慕うブルームにだけは哀れんでほしくなかった。ひどい男だねと一緒に笑って受け流してほしかった。
現在ブルームは奥様と産まれたばかりの子供と幸せに暮らしている。そんな彼に、アマンディーヌと同じように悲しむことはできない。どうすることもできない。中途半端な慰めはアマンディーヌを余計に惨めな気持ちにさせた。
アマンディーヌは沈んだ場を明るくようと、わざと快活な声を出す。
「お兄様がそんなに気に病むことないわ。お互い割り切ってるもの。私はエドモン伯爵家に嫁いで玉の輿になる、それで納得してるわ。」
笑顔を貼り付けて励ますアマンディーヌに、ブルームはさらに困ったような顔を浮かべた。
「気を遣わせてすまない、アマンディーヌ。私の口出しすることではなかったね。」
少し落ち込んだ様子のブルームに、大丈夫よ。と励ますと気を取り直すように今度はブルームが明るい顔を作る。
「お詫びにアマンディーヌの好きなアイスクリームを用意させるよ。」
パッと輝く笑顔になったアマンディーヌに、ブルームは朗らかに笑う。
2人は、先ほどの話を打ち消すようにアイスクリームを堪能し、中庭に咲く花の品種や産まれたばかりの赤子の夜泣きのことなどのたわいもない話をして過ごした。
アマンディーヌは久々に子供のころに戻ったような穏やかな気持ちで、自分の屋敷へと帰った。
その別れ際、ブルームに「本当に辛くなったら、僕を頼って。」と告げられた。少年時代を彷彿とさせるブルームの口調に、アマンディーヌは不毛な初恋をしていたおぞましい少女の自分の姿がよぎった。
それを振り払うように、ブルームの申し出をいつものようにすべてを煙に巻く微笑みで押し流した。
この2人は相手に気を使いすぎて自分の言いたいことを腹の内に収めてしまうところがよく似ていた。
この時、アマンディーヌがブルームに悩みを打ち明けていれば、この先の展開が変わったのかもしれない。
久々の安寧から3週間後、父の友人が開催する夜会に父と共に参加していた。
母は体調が優れないと言っていたが、父の友人の夫人と相性が悪く煩わしいから欠席したのを知っている。母の尻拭いは全てアマンディーヌが担ってきた。
夜会は、父の友人の開催なだけあって参加者は父のような年代の者が多く、同年代の少ない会場でアマンディーヌは壁の花となり、持て余していた。
おかけでアマンディーヌはワインを飲み過ぎてしまい、少しクラクラしてきていた。
シャンデリアの眩い光と、絶え間なく優美な音を奏でる楽曲、ダンスのターンをする度に輝くドレスの端に縫い付けられた宝石や刺繍。視界に映るもの全てが観劇を見ているかのように現実味がない。
ざわざわと騒がしい会場で1人ぽつんと立っていると、ここが現実の世界なのか分からなくなる。今私は透明人間で、本当の私は家で眠っている。会場の風景は透明人間の私が写している夢なのではないか。
誰しもふとしたときに襲う孤独感が、酔いの回ったアマンディーヌの思考をより感傷的にさせる。感覚を確かめるようにグラスを持つ力を強める。
そんな覚束ない気持ちにふわふわしていると、低く耳障りのいい声に呼びかけられた。
振り向くと、会うのは何年か振りか、叔父がにこやかに立っていた。
「やあ、アマンディーヌ嬢。久しぶりだね。」
慌てて淑女の礼をして微笑む。
「お久しぶりです。叔父様。」
久しぶりの敵意のない人間に屈託なくアマンディーヌが笑うと、叔父は満足そうに頷きながら、うっとりとした目でアマンディーヌを見つめる。叔父は父と同年代のはずなのに、漂う雰囲気や色気がまるでちがう。
「アマンディーヌは目元がメデイアそっくりになってきたね。これは美人になる。」
メデイアとは、アマンディーヌの母のことで、この叔父は母にとっては兄にあたる。会うたびに母と同じ面影を指摘され、嬉しそうに微笑まれるのだ。
アマンディーヌは誤魔化すように曖昧に微笑む。母に似ていると言われても不愉快でしかない。
叔父はあたりを見回してから、一切付き添いのないアマンディーヌに聞いた。
「今日はメデイアは欠席かい?」
「ええ、体調を崩してしまって…。」
「それは残念だ。嫁入りしてからめっきり会うことはなくなってしまって、今回は顔だけでも見れるかなと思っていたんだけどね。」
叔父は悲しそうに目を伏せる。
その癖は、とてもよく母に似ていた。
「…母に伝えときますわ。」
その後は叔父とは軽く世間話をしてから別れた。
叔父と別れてからアマンディーヌは、一気にワインの酔いが回ってきた。クラクラしてどうしようもなくなって、アマンディーヌは父とその友人に一言非礼を詫びてから一足先に帰ることにした。
もしこのとき、過去に戻れるなら、屋敷に帰らずその場にいろと自分に張り手を食らわせたはずだ。
今自分の屋敷で起きているとてもおぞましい出来事を知らずに、そのままのうのうと生きていられたはずなのに。
屋敷に帰ると、出迎えに来るはずの侍女が来なかった。
すぐさま、誰かいないの?と呼びかけても玄関ホールに虚しく響くだけだった。昼間はいつもは誰かしらいて賑やかで明るい玄関ホールも、今日は水を打ったように静まり返っていた。
激しい違和感を覚える。
いつもは帰ると侍女や侍従が出迎えてくれる玄関ホールがよそよそしく、なんだか知らない屋敷のように不気味だ。不安を感じながらも目がぐるぐるしそうな立ちくらみに、早く横になりたくて自室へと向かう階段へと足をかけた。
自室へ近づくほどに、静まり返った屋敷にその声は鮮明に響く。
抑えきれないような、女の嬌声。
アマンディーヌは、母が愛人を連れ込んでいるのだと直感した。しかし、いくら夫が夜会で遅くなるからといっても大胆極まりない行動だ。なによりも、自室に近づくほどに大きくなる声に嫌な予感でたまらなかった。
自室の前では、やはりというべきか中で母の女の声が耳障りに響いている。
ああ汚らわしい。
私の部屋は逢い引きのための巣じゃないわ!
アマンディーヌは怒りで血が出るほど唇を噛み締めた。頭がガンガンと痛みに変わってきた。母親の行動は絶対に許せないことだが、気分が悪くなってきて立つのもやっとだった。始末は明日にして、とりあえずもう別室で休もう。そう思って扉から体を離そうとしたとき、中から聞こえてはいけないはずの、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「娘ではこうはならないな。さすがバートリー夫人だ。」
全身の肌が、ぞっと粟立つようだった。
そっと扉の隙間から瞳を潜り込ませると、見覚えのある忌まわしい髪色の男がベッドの上に跨っていた。その下で母は甘えるように男の背中に手を這わせている。
背中につ…と冷たい汗が滑り落ちた。
はあはあと鼓動が早鐘のようで、胸を押さえる手は震えていた。
「貴方かわいそう。娘と結婚するなんて。こんな、魅力的なのに。」
「夫人もこんなに素敵なのに、どうして娘は似なかったのでしょうね。」
2匹の獣は一糸纏わぬ姿でアマンディーヌのベッドの上にいる。お互い、ここには居ないはずのアマンディーヌを嘲笑いながら身体を繋げるのに夢中になっていた。
その光景に耐えきれず、アマンディーヌは嗚咽しながらうずくまる。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い汚い汚い汚い汚い
あまりの嫌悪感にトイレに駆け込み、げぇーげぇーと嘔吐が止まらなかった。
吐くものがなくなっても胃液がこみ上げ、惰性で吐き続ける。ようやく嘔吐が止まると、ぐったりと酷い疲労感に襲われた。
さっきまで美しいドレスで華やかな会場にいたはずなのに、なんで私こんな格好してこんなところに座り込んでいるの。なんて惨めで、滑稽な女なの。
いつもアマンディーヌを責める、もう一人の自分が追い打ちをかけるように囁く。
それはおまえが出来損ないで、誰にも必要とされない子だからだよ。
過去に世話係にささやかれ続けた言葉が、予言のように深く胸を抉った。
ぷつんと糸が切れたようにアマンディーヌは耐えきれず大声を上げて泣き出した。いつもの声を押し殺したすすり泣きではなく、初めて、子供のように大声でわんわんと泣いた。恥も外聞もなく、2人が気づくことも気にせず、ひとしきり泣いた。
瞳が溶けるというくらい涙を流したころ、アマンディーヌは妙にスッキリとした気分になった。
顔は涙と鼻水と嘔吐でぐちゃぐちゃで、見るも無残な状況だが、アマンディーヌは憑き物が落ちたように晴れやかな顔をしていた。
アマンディーヌは決心した。
婚約者と母に、復讐をしようと。