遠乗りとアマンディーヌ
黒馬がぶるぶると鼻を鳴らしながら水を飲むと、凪いだ湖に波紋が広がる。
周りにそびえるのは山と林ばかりで、それを映す湖は鏡のようだ。
王都にいるときよりも、青空が視界いっぱいにある。
アマンディーヌはキャンバスを弄る手をとめ、思わず美しい景色にほぅと見惚れる。
「美しい風景ですね、アマンディーヌ。」
その横にスッと並び立つ、ブルネットの髪をさらさらとなびかせる、線の細い男。
アマンディーヌは横にいるノエルを緩慢に見上げると、胡乱げな瞳で見つめる。
それにノエルはくすくすと微笑むと構わずつづける。
「これでも自然や芸術は好きなんですよ。美しいものはそれだけで宝だ。だから、美しい貴女と美しい景色はそれだけで僕を幸福にしてくれる。」
きっとノエル以外の男が言ったら寒々しい台詞も、なんて事のないような顔してさらりと言ってのける彼は、ごく自然で魅力的なのだろう。
ノエルの悪魔的な甘言に慣れてきたアマンディーヌは、何も言わずにそっと振り返る。
アマンディーヌのななめ後ろでは、感心しているような、驚いているような、呆れているような複雑の表情のメデウスがアマンディーヌとノエルを交互に見ている。
ねっと声を出さずに口の形だけでジェスチャーするアマンディーヌに、メデウスは犬を追い払うかのごとく手を払う。
それにアマンディーヌは、拗ねたようにツンとそっぽを向く。
現在アマンディーヌはメデウスとノエルと少しの護衛と共に、バートリー家の田舎の領内を馬で遠乗りしていた。
もともと遠乗りをする予定だったところにノエルの訪問予定が横入りし、特に大事な用でもなくただ話せればいいとのことだったのでこのメンバーで屋敷から近い湖に遠乗りに来ていた。
こそこそと戯れるアマンディーヌとメデウスを、にこやかに微笑み見つめるノエル。
「彼が気になるのですか、アマンディーヌ。たしかに彼はこの湖の女神のように美しいですけれど、その美しさを表現するに数多の画家が挫折したという逸話があるほどです。」
その発言に、アマンディーヌは驚いたようにノエルをまじまじと見つめる。
そして、しんと静まりかえった湖に、淑女らしからぬ無邪気な笑い声が響いた。
「そんな逸話があるなんて知らなかったわ。そもそも、侯爵様もメデウスを美しいと称するなんて…メデウスはほんとうに生きているだけで奇跡を産み出すのね。」
笑いが治らないのか、口元を隠すアマンディーヌの声が震えている。
そんなアマンディーヌを、目を吊り上げて無言で射抜くメデウス。
少女のようにはしゃぐアマンディーヌより年下のはずのノエルは、この場にいる誰よりも大人に微笑んでいる。
「女神、女神ね。ふふ。新しい形容句ね。もし湖に斧を落としても拾ってくれなさそうな、自分で拾えとかのたまう不親切な女神だわきっと。」
「当たり前だろ。」
いつまでもからかうのをやめないアマンディーヌに、我慢ならずにメデウスが声を上げる。
ハッとしてノエルを見遣るメデウスだったが、ノエルは気にしないと言う風に朗らかに微笑み返す。
「お二人はほんとうに仲がよろしいのですね。」
メデウスはとっさにアマンディーヌに鋭い視線を送る。
すっかり母親がわりの、アマンディーヌの嫁入りを誰よりも気にしているメデウスは、誤解されるなと全身で訴えている。
それをうるさげに受け止めたアマンディーヌは、花のように可憐に微笑む。
「ええ、口うるさい姉だと思っておりますわ。」
それにメデウスは、何とも微妙な表情を浮かべたが、ノエルは相変わらず微笑んでいる。
完璧に崩れない微笑みは、もはやポーカーフェイスだと思いながらアマンディーヌはノエルを横目に見つめる。
湖に、ごうと強い風が吹く。
暖かい季節はとうに過ぎ、冬をあといくばくとない今の季節は午後になると日は当たるが風が冷たい。
「そろそろ引き返しませんか。風邪を引いてしまってはいけない。」
ノエルがそう提案すると、みな同意し片付けや馬の準備などを始める。アマンディーヌもキャンバスを片し、馬の様子を見ようとしていた。
その時、近くの林から女の甲高い悲鳴が響き渡った。
護衛たちがさっと剣に手をかけると、警戒の様子を見せる。
みな悲鳴の聞こえた方向を、張り詰めた空気の中見つめる。
すると、密集した樹々の間からふらりと女の姿が現れた。女の姿はぼろぼろで、服は引き裂かれ肌が露わになっている。
護衛の一人が警戒しながら近づくと、女は力が抜けたようにどさりと倒れる。近づいた護衛が抱き上げると、女はうわ言のようにブツブツと呟く。
「…助けて…野盗が……友達がまだ、いるの…。」
その言葉に、護衛たちはどよめく。
この閑散としたのどかな領地だが、アマンディーヌの母の事件から屋敷周辺の警備を強めていた。それにもかかわらず屋敷のほど近い林で起きた荒事に少なくとも動揺していた。
その中で、冷静なノエルが護衛たちに指示を出す。
「僕とメデウスは共に林に様子を伺いに行きましょう。2人はこの女性と共にここで待機していてください。何かあったら合図を出します。アマンディーヌともう1人は屋敷から援軍を呼んで来ていただきたい。」
動けない女を守る役割と、何かあった場合のために湖に護衛2人を残し、アマンディーヌは残りの護衛と共に避難と連絡を任された。
そして貴族であるノエルが野盗を追うのだが、最強の私兵を有し自身も『聖剣』を賜る、おそらくここにいる誰よりも強い騎士に、意を唱えられる者はいなかった。アマンディーヌの護衛の役割も担うメデウスも、それなりの修羅場をくぐってきたためすんなりと受け入れた。
みなノエルの指示に従い、颯爽と動き出す。
アマンディーヌも、急ぐため手を借りずに自力で馬にまたがる。
ノエルとメデウスが林に入っていく前に、援軍を少しでも早く送るためアマンディーヌと護衛は馬の腹を蹴った。
屋敷に向かう中、アマンディーヌは何か心の中のうっすらとした違和感を抱えていた。焦っていたため気づかなかったが、この状況に違和感が拭えない。何がと明確にできないためその違和感を見なかったフリをしていたが、何故かモヤモヤとする。
急かされるように飛び出してきたが、ほんとうにこのまま屋敷に避難しても良いのかと心の中で葛藤していた。
「お嬢様!?お待ちください!」
気づいたら、アマンディーヌは来た道を引き返していた。
後ろでは護衛の悲痛な叫びが聞こえたが、それをかき消すように黒馬が稲妻のように駆け抜けた。
そのころ、メデウスは焦っていた。
ノエルと共に林の中を用心深く探索していたはずが、先導していたメデウスが振り向くと、ノエルが忽然と姿を消していたのだ。
神隠しのように行方不明になったノエルを探そうと、夜盗に気づかれぬよう声を出すこともできずやみくもに林を歩く。
少し奥まったところへ進んだところで、開けた場所が見えてきた。
「……っ!」
思わず声を上げそうになったメデウスは、慌てて近くの樹に身を隠す。
開けた場所では、ボロボロの荷台を引く驢馬と野盗らしき男たちがたむろしていた。
樹から顔だけをのぞかせて野盗らの様子を観察するメデウス。
じっと息を潜めていたメデウスだったが、見張り役らしき男の1人と目が合ってしまった。目が合った男は、こちらを凝視しながら仲間たちに声を掛けている。
まずいと思ったメデウスは、湖に援軍を呼びに行こうとさっと身を引いた。
しかしその直後、メデウスは後頭部に激しい衝撃が襲った。メデウスは、一瞬何が起きたのかわからなかった。
強い衝撃にメデウスは、だんだんと目の前が真っ暗になっていった。
黒馬で林を駆けるアマンディーヌは、メデウスやノエルの姿を見つけられずにいた。奥へと行くほどに樹々が乱立し、アマンディーヌの進路を阻む。
「どこにいるのよ…!」
アマンディーヌが苛立ちながら呟いたとき、風に乗ってかすかに人の声が聞こえてきた。
それに気付いたアマンディーヌは、すぐさま風上に向かって黒馬を走らせた。
樹々がひしめく中、伐採したのか少し開けた土地が見えてきた。それと同時に、がたいのいい5人の男と荷台を引く驢馬、そして…荷台の上に横たわるメデウスらしき眩い金髪が見えた。
辺りに逃げ遅れたという女の姿がないことに、アマンディーヌは違和感を確信に変えていた。
そして、メデウスが拐われるという状況に、アマンディーヌは迷いなく男たちのもとへと黒馬を走らせる。
緩慢に出立の準備をしていた男たちだったが、静かな林に、どどどっという地響きのような音が響き渡った。
不思議に思った1人の男が顔を上げた瞬間、まるでチャリオットのごとく巨大な黒馬が男たちのもとへと突っ込んできた。
驚いた男たちは、その衝撃に一拍遅れる。
そして、背中を向けた者や、顔を腕で庇った者は黒馬の屈強な前脚に蹴り飛ばされる。背中を蹴られた者は咳き込みながら痛みにうずくまり、腕を蹴られた者は骨折したのか呻いている。
残りの者たちは慌てて四方八方に逃げ惑う。
アマンディーヌは、興奮する驢馬と荷台でぴくりとも動かないメデウスを横目で確認し、助ける手立てを模索していた。
しかし、考えに気をとられすぎていたせいで、野盗の男が黒馬に向かって鞭を振り下ろすのに気づけなかった。
バシンと激しい音とともに、黒馬は痛みに嘶き、後脚のみで立ちもがくように前脚をばたつかせる。
それに耐えきれず、アマンディーヌは振り落とされるように落馬する。
激しい衝撃に、アマンディーヌは咳き込んだ。
振り落とされ倒れこむアマンディーヌの目の前に、使い古され汚れたブーツが現れる。
「おい、てめぇどういうつもりだ。随分としでかしてくれたじゃねぇか。」
アマンディーヌが睨めつけるように見上げると、顔一面髭で覆われた屈強な男が、口の端を吊り上げ笑っている。男にとってアマンディーヌは、突然現れた上等なおもちゃだ。
男の嬲るような視線に、アマンディーヌは表情を崩さずはき捨てるように告げる。
「しでかしてるのはどちらかしら。この人攫い。」
アマンディーヌの反抗的な態度に、男は舌打ちをする。
「どこのお嬢さんか知らねえが、ここに来ちまった以上タダで済むと思うなよ。」
男はぐいっとアマンディーヌの後ろ髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
ぶちぶちと髪の抜ける音と皮膚の痛みにアマンディーヌは歯をくいしばる。
それでも鋭い目つきで男を射抜くアマンディーヌに、男が顔をしかめる。
「その目、気に入らねぇな。女はもっと泣いたり怯えたりしねぇと。」
男が視線を投げかけると、逃げ惑っていたはずの残りの男たちがいつの間にか現れ、アマンディーヌを拘束する。
手足を拘束され身動きの取れないアマンディーヌに、男はニタリと下劣に笑う。
「あんたみたいな自尊心の高そうな奴には、痛みよりもっと効くものがある。」
男はアマンディーヌの胸倉をつかむと、ビリビリとドレスの胸元にあしらわれたレースが引き裂かれる。
「犯す、これが一番だ。」
おもわずアマンディーヌはぎゅっと目をきつく閉じる。
泣いたり喚いたりしたら相手の思うツボだ。だからこれから起きることを記憶しないように、固く心を閉ざそうとした。
しかし、男の手はアマンディーヌの体を這うことなく、代わりにどさりという音が耳に届いた。
「…?」
靴先に、何かが当たった感触があったのでアマンディーヌはそろ…と目を開ける。
するとそこには、さきほどまでアマンディーヌを犯そうとしていた髭面の男の生首が転がっていた。
「アマンディーヌ、お怪我はありませんか。」
首のない男の体がぐらりと傾くと、その背後に現れたのは、ブルネットの髪をなびかせた華奢な男。
灰色の瞳をギラギラと輝かせながら、アマンディーヌを見つめていた。
アマンディーヌが驚き、唖然とした瞬間、ノエルはアマンディーヌめがけて素早く剣先を向けてきた。
息を呑むアマンディーヌだったが、剣先はアマンディーヌではなく、背後にいた男の眉間を突いた。
男の血がアマンディーヌの頬を濡らすと、間髪入れずにノエルはもう一人の男を斬りつける。
まるで剣舞のような動きで、鮮やかに敵を殲滅するノエル。
アマンディーヌはそれを呆然と見ることしかできなかった。
アマンディーヌが負傷させた男たちも無慈悲に始末したノエルは、剣先から男たちの血がぽたぽたと滴り落ちている。それを払うようにノエルは剣を振る。
まるで血濡れの悪魔のような後ろ姿に、思わずアマンディーヌは声をかける。
「ノエル…。」
振り返ったノエルは返り血を浴び、爛々と輝く灰色の瞳はゾッとするように美しい。
アマンディーヌを捉えたノエルはパッと笑顔を見せると、上着を脱ぎながら近づく。
「これをかけてください、アマンディーヌ。」
そっとアマンディーヌに上着をかけるノエル。
アマンディーヌは呆然としたまま、抵抗することなくされるがままにしていた。それをノエルは慈しむように見つめる。
「…全部、あなたが仕組んだのよね、侯爵様。」
ぽつりとアマンディーヌが呟くと、ノエルは悲しそうに顔をしかめる。
「先ほどはノエルと仰ってくれたのに。」
明後日の方向の答えに、アマンディーヌがノエルを睨めつけると、ノエルはふわりと柔和に微笑む。
「貴女が引き返すのは予測していましたが、まさか無謀にも馬で飛び込むとは思わず少し焦りました。」
全く罪悪感などなく飄々と告げるノエルに、アマンディーヌの目つきは鋭さを増す。
「何故、メデウスを攫おうとしたの。」
「貴女は詰めが甘いのです、アマンディーヌ。」
くつくつと笑うノエル。
アマンディーヌは意味がわからず、眉間の皺を深めた。
「覚えていますか、エリザベート嬢のことを。」
ノエルが言うには、これはオークションでメデウスを競り落とそうとした侯爵夫人の娘、エリザベート嬢のたくらみらしい。
アマンディーヌの策略によって無理やり輿入れしたエリザベート嬢だったが、再び社交界で活躍するメデウスの存在を知ってしまった。
あげくエリザベート嬢は、30も年上の夫と結婚した可哀想な自分より、ただの行き遅れのアマンディーヌ程度の存在がメデウスと懇意にしていると知り、憤怒した。
夫に甘やかされわがままに拍車もかかっていたエリザベートは完全に歯止めがきかなかった。夫や両親にかかる迷惑を忘れ、金を積んで母親と同じ過ちを実行してしまった。
ノエルの言い分を聞いていたアマンディーヌだったが、肝心の理由をはぐらかし煙に巻くノエルに毅然とした表情で問う。
「エリザベート嬢を唆したのはあなたでしょう。私は、何故こんなことをしたのか理由を聞いてるのよ。」
真剣にノエルを見つめるアマンディーヌに、ノエルは眉尻を下げる。あまり言いたくないようで、先ほどの狂気的な姿はなりを潜めている。
そして、潤んだ瞳でアマンディーヌを見つめる。
「貴女が、愛しいからです。僕だけを見てほしいからです。」
アマンディーヌは、ぽかんと間抜けに口を開けてしまった。
「…え、つまり、メデウスに嫉妬してこんなことを計画した、ということかしら…?」
おそるおそる問いかけるアマンディーヌに、ノエルははにかんだように微笑む。
アマンディーヌは絶句してしまった。
ノエルのような男でも嫉妬という感情があるのか…とか、メデウスに嫉妬するとはまた見る目がない…などさまざまな思考がよぎったが、ノエル自身はいたって本気のようだ。
ノエルをまじまじと観察すると、花が咲いたように微笑み返される。
「僕のことも、是非ノエルと呼んでください。」
呼ばなければ、今度はいったいどんなことが起きるのだというのだ。
誰よりも大人に振る舞うノエルが、この時ばかりは年相応に無邪気だった。…その無邪気さも、残酷というものを希釈した代物に近いが。
湖のとき同様ノエルの発言に何も返さずに、アマンディーヌはノエルの手を借りて立ち上がる。ドレスの裾を払うと、すばやくメデウスの積まれた荷台へ駆け寄る。
そして、脳震盪をおこし失神しているだけと確認しほっと安堵のため息をつくと、キッとノエルを睨めつける。
「たとえメデウスを葬り去ろうが、私はあなたのものにならないわ。私の心は誰のものでもなく、私だけのものよ。それをよく覚えておいて、ノエル。」
射殺さんばかりに見つめるアマンディーヌだったが、
ノエルはとろけるように微笑むだけだった。