地下室とアマンディーヌ
あたりは静寂に包まれ、月明かりだけが明るく宵闇を照らす。この時期、夜になると少し肌寒くなってきていた。
アマンディーヌは暗闇の中、ストールを羽織っただけの姿でカストル侯爵家の屋敷をさまよい歩いていた。
それは少し前の出来事になるが、疲れたアマンディーヌは早めに就寝し、使用人たちもすっかり寝静まった夜更けのことだ。静まり返るアマンディーヌの部屋に、突然ドアのノック音が響き渡った。
リズムのように軽快なノック音に、眠りの浅かったアマンディーヌは素早く覚醒した。
「誰?」
手近なストールを掴み、羽織りながら、ゆっくりと扉に近づくアマンディーヌ。
しかし返答はなく、しんと静寂が広がる。
怪しく思ったアマンディーヌがドアノブに手をかけ扉を開けてみると、そこには誰もいない。
不思議に思ったアマンディーヌは再度問う。
「誰かいるの?出てきなさい。」
やはり答える者はなく、虚しくアマンディーヌの声だけが響く。
気味が悪いと思ったアマンディーヌは、もう部屋に戻ろうとした。その時、絨毯を踏み込んだ軽い足音が響いた。
さっと顔を上げたアマンディーヌは、7歳ほどの子供が廊下の角に消えていく後ろ姿を目撃した。
こんな時間に子供?いいえ、それより侯爵家に子供はいないはずだわ。
侯爵家には現在、小さい子供はおろかノエル以外の貴族はいない。使用人の子供も別棟にある屋敷にいるはずだ。
不自然な子供の後ろ姿に、アマンディーヌは激しい違和感を覚えた。
もしかしたらノエルに関する情報になるかもしれない、とっさにそう思ったアマンディーヌはストールをかけた姿のまま部屋から飛び出していた。
子供はまるでアマンディーヌを翻弄するように、屋敷を走り回る。
階段を降りた先にいると思ったら、いつのまにか追いつけないほど先を走っていたり、見失ったと思ったら視界の端にさっと映る。
アマンディーヌはまるで昔読んだお伽話の白兎のようだと思った。
アマンディーヌは不思議な世界に誘われる主人公のように、夢中で子供を追いかける。
しばしの追いかけっこのあと、子供は地下室へとつづく階段へ走り去ってしまった。
そこでようやくアマンディーヌは立ち止まった。
すっかり暗闇に目の慣れたアマンディーヌだが、月明かりもないどんよりと暗闇が広がる階下は得体の知れない恐怖がある。
降りてしまったら最後、闇に飲み込まれて帰れなくなってしまう、そんな考えがよぎり背中がぞわぞわと悪寒がする。
足がすくんでしまったアマンディーヌに、階下からカツンと金属のような音が響く。
不信気に階下をのぞき込むアマンディーヌ。階下の金属音はまるでアマンディーヌを促すように再度、カツンと響く。
その様子に、アマンディーヌは確信を得る。
この先にはきっと何かあるわ。
深く息を吸い、吐いて深呼吸を繰り返したアマンディーヌははあと短く息をつく。
「行くしかないようね。」
そう呟いたアマンディーヌは、地下へとつづく階段に足を踏み入れた。
真っ暗で何も見えないため、壁に手を這わせながらゆっくりと階段を下る。アマンディーヌの足音が虚しく反響するが、ほかに誰か居る気配はない。
暗闇に少し目が慣れてきたころ、階段が途切れたため前につんのめりそうになる。どうやら階下の地下室へ到着したようだ。
耳鳴りがしそうなくらい静まり返った空間は、ぼんやりと輪郭しか捉えられないアマンディーヌには暗い洞窟のように不気味に思える。
この先には洞窟にいる蝙蝠や熊なんかよりももっと恐ろしいものが待っているかもしれない。そんな風に臆病な自分が不安を煽る。
それを振り払うように、アマンディーヌは強く一歩を踏みしめた。
おぼろげな輪郭をたどりながら、アマンディーヌは地下室の奥へと進んでいく。暗闇で何も見えないアマンディーヌを導くように、金属音はカツンと鳴り続ける。
何回か角を曲がったころ、ぼんやりと光が浮かびあがる扉が現れた。部屋から光が漏れているようで、真っ暗な地下にそこだけ不思議に明るかった。
そこで音は途絶え、アマンディーヌの案内は終わったかのようだ。
アマンディーヌは光る扉のドアノブに手をかけ、深呼吸をした。
ほんとうに何から何までおかしな屋敷だわ。
心の中で呟くと、勢いよく扉を開け放った。
部屋の中は青白いやわらかい光に包まれていた。
テーブルや本棚などの部屋のいたるところに、淡く光る石がランタンのように設置してある。
その幻想的な風景に一瞬息をのむアマンディーヌだったが、部屋の最奥に一際光を放つ大きな箱を見つけた。
ざわりと胸騒ぎがする。
けれどその違和感に気づかないフリをしたアマンディーヌは、そろ…と発光する箱に近づく。
そして、さきほどとは比べものにならないほどの感動に、感嘆の吐息を漏らした。
光を放つ箱の中は、柔らかい天鵞絨が張られ、淡く光る石が所狭しと敷き詰められている。その上には、薔薇の細工を施された石や月桂樹を模したブローチなどが光り輝き、まるで宝箱のようだ。
そしてなにより美しいのは、それらを纏わせるように鎮座する…幼い少年が横たわっていることだった。
アマンディーヌはガラス越しに少年の顔を撫ぜると、まつ毛を伏せる。
「私を呼んだのはあなたね。」
少年は彫刻のように微動だにせず、まるで眠るように安らかで美しい顔をしている。
少年を納める箱…棺は煌々と暗闇の中で輝き、少年は静謐に佇んでいる。生きているのではないかと疑ってしまうほど、少年は美しい死体だった。
思わず見惚れていたアマンディーヌだったが、少年の親指に指輪が嵌められているのを見つけた。
「Ⅸ…?」
普通は貴族の身分を示すものとして、家紋や自分の名前を記すことが多いものだが、なぜか彫られている文字は数字だった。
それに少し引っかかり、思考を巡らせていたアマンディーヌだったが、甘く響く声によって思考は遮られた。
「こんな夜更けにお散歩ですか、アマンディーヌ。僕もご一緒したかったのに。」
ばっと扉に目を向けると、暗闇で表情はうかがえないが、ノエル・カストル侯爵が扉に手を添えて佇んでいた。
アマンディーヌは驚きに目を見開き、動揺でとっさに声が出せなかった。
そんなアマンディーヌを気にした様子もなく、昼と同様のトーンでさえずるノエル。
「貴女はもっと保守的な方だと思っていたけれど、存外好奇心旺盛だったようだ。」
コツンと、ノエルが一歩踏み込んだブーツの音が響く。
アマンディーヌは恐怖に身を硬ばらせ、胸の前で右手を握りしめる。
見つかってしまった そう絶望するアマンディーヌに、カツンと何かがこぼれ落ちる音が鳴りわたった。
まるでノエルを遮るように、アマンディーヌの前に淡く発光する石がころころと転がってくる。
それにノエルが足を止めると、しんとあたりが静まり返った。
しかしそれも一瞬のことで、ノエルのくすくすと楽しげに笑う声が部屋に響き渡る。
アマンディーヌは頭の中が混乱でいっぱいだった。焦り、動揺、困惑。そんな感情が頭の中をものすごい速さで駆け抜けていく。
ノエルはひとしきり笑ったあと、穏やかな慈愛の感じる声でアマンディーヌに語りかける。
「貴女は随分とⅨに好かれてるようだ。ですから、僕も歓迎しましょう。」
その言葉に、アマンディーヌはますます意味がわからなくなった。
「それで、Ⅸに案内されてここへ?」
真っ暗な部屋の中、ぼんやりと青白い光を発する石たちと、棺の近くで向かい合うように椅子に腰掛けるアマンディーヌとノエル。
アマンディーヌはノエルに促されて、この部屋へたどり着いた経緯を語った。
淡い光に照らされたノエルは、柔らかい表情を浮かべている。
「…ええ、そうよ。」
アマンディーヌは未だ腑に落ちない表情で、昼間の飄々としたノエルとは違う、雰囲気の柔らかなノエルを伺うように見遣る。
「この少年が一体誰でどうしてこうなっているのか、聞いてもよろしいかしら。」
遠慮がちにアマンディーヌが問うと、心なしかノエルの微笑みに翳りがおびる。
「話すと長くなりますよ。」
僕の先代、カストル侯爵の噂は知っていますか。
彼はとてもイかれた男で、妻も子供も家族もなく独りでした。そのため、跡取りとして養子を取ることにしたのです。たった1人だけ、ノエルという息子を。
しかし実際は1人じゃなかった。何人もの幼い少年たちがこの地下に集められ、競い合い、侯爵の跡取りとして相応しい者だけがノエルを賜るのでした。
少年たちの出自はバラバラで、孤児院から連れてこられた者や貴族同士で産まれた不義の子などほんとうにさまざまな身分の少年たちだった。
しかしどれも共通しているのは、みな帰る場所がないというところです。
少年たちはこの薄暗い地下でネズミのように寄り集まって暮らし、そんな仲間を時には裏切り、出し抜き常に生き急いでいた。
僕もその中の1人、Ⅺでした。
6つだった僕は孤児院から引き取られたばかりの世間知らずで、そのため兄たちによくいじめられていました。
そんな僕に処世術を教えてくれたのは1つ上のⅨでした。
Ⅸは賢くて、乗馬や剣術も得意で、マナーや話術も器用にこなす優等生でした。優秀なⅨは有力な後継者候補で、カストル侯爵の期待も大きかったようです。
Ⅸは僕の憧れであり、兄のように慕う人でした。
しかし、ある朝目覚めると、Ⅸは冷たくなって動かなくなってしまったのです。
助けを求めて他の部屋を駆けずり回っても、みな安らかな寝顔で彫像のように動かない。
意味がわからず絶望する僕に、カストル侯爵は地下室に現れ嘯いたんだ。
「彼らは運がない。運がない奴はこの先必ず死ぬ。だからその前に清らかなまま神に召し上げたのだ。」
僕はカストル侯爵が何を言ってるのか分かりませんでした。
しかし、少年たちがカストル侯爵によって殺されたことだけは分かりました。
これもカストル侯爵の試練にすぎなかったのです。
夕食に致死性の毒を混ぜ、1つだけ無事な食事を紛れ込ませた。それに無事だった少年は勝者、それ以外は敗者に過ぎない。
僕はⅨの美しい亡骸に縋りつきながら沢山考えました。
なぜカストル侯爵は可愛がっていたⅨを簡単に殺めたのか。他の贔屓にしていた少年たちでさえも、何故彼らは殺されなければならなかったのか。
カストル侯爵が殺した少年たちを弔う様子を眺めながら、気づいたのです。
これは愛なのだと。
Ⅸと少年たちと永遠を共にするために、カストル侯爵は少年たちをこの地下室に永久に縛りつけたのです。
それによってカストル侯爵は全てを手に入れ、僕は全てを失いました。
ですから僕は誓いました。カストル侯爵から必ずⅨを取り戻して今度は僕が永遠を手に入れるのだと。
そこまで話したところでノエルは口を閉ざす。
立ち上がったノエルは棺に近づき、Ⅸの頬をガラス越しになぞる。ノエルの表情は後ろ姿で見えない。
ノエルによって紡がれた過去に、アマンディーヌはかける言葉が見つからなかった。ノエルを慰める言葉も、彼を優しく包み込む言葉も何も思いつかなかった。
「あの後も後継者候補は現れました。でも最後の勝者は僕でした。僕は地位も権力もⅨも、全てを手に入れたのです。」
きっとカストル侯爵はノエルに屠られたのだろう。だからこの屋敷には家族も親戚も兄弟もいない、異様なほど静かで冷たい屋敷なのだ。
ノエルの底知れない感情に言葉を失っていたアマンディーヌだったが、ようやく絞り出せた言葉はなんともつまらないものだった。
「…侯爵様の食が細い理由が分かりましたわ。」
それだけ呟いたアマンディーヌに、背を向けていたノエルは思わず振り向く。
「言いたいことは、それだけなんですか?」
めったに見られないであろうノエルの少しだけ困惑した表情に、思わずアマンディーヌが不服そうに顔を顰める。
それを見たノエルは、こらえきれないというように破顔し、肩を震わせる。
「もっと嫌味を言われると思っていましたよ。」
とても愉快そうな、笑いの滲んだ声色だった。
昼間の悪辣な嫌味の様子をからかわれたアマンディーヌは、さきほどつまらないことを言った自覚があるだけに、さらにムキになったように言葉を紡ぎだす。
「そんな、とっさに気の利いた言葉なんて出てきませんわ。なにせカストル家の闇を知ってしまったんですもの。むしろ始末されるのではないかとそれどころではないわ。」
そう言いつつも、さきほどとはちがい怯えるそぶりなどはない。むしろ棺に近寄り、美しい屍の入った棺の縁を慈しむようになぞる。
「それに、Ⅸはあなたとちがっていい子よ。私を助けてくれたわ。」
その姿をノエルは慈しむように見つめる。そして、アマンディーヌに身を寄せると、とろけるような蠱惑的な声で囁く。
「いつか貴女が僕の愛を受け入れてくれたその時、貴女を殺したい。」
体のどこにも触れていないというのに、ノエルの絡みついて溺れてしまうような視線はアマンディーヌを捕らえて離さない。
ノエルの甘言に、アマンディーヌはゆっくりと瞬きさせると、意味を理解して挑発するようにノエルを射抜く。
「だったらしっかり食べて大きくおなりなさい、坊や。私はもう少し逞しい男性が好みですの。…それに、私を殺すというのなら、その極上の瞳が抉り取られるくらいの覚悟はなさって。」
怪しくも麗しい微笑みを浮かべるアマンディーヌ。
アマンディーヌの扇動的な発言に、ノエルはうっとりとした瞳でアマンディーヌの頬を指先でかすめる。
「僕はこの日のことを一生忘れません。」
呪われたカストル家の地下室。
そこでは成り上がった偽物侯爵と疫病神の復讐者、そして光輝く美しい屍が修羅へと繋がる歯車を動かし始めていた。
終わりが思うように表現できず、少し修正いたしました。
読んでくださり、ありがとうございます!