外泊とアマンディーヌ
「…東の果てに居ておいでですのに、随分と地獄耳ですわね。」
カップの縁を指先でなぞるアマンディーヌ。
腹の内ではひどく焦燥感に溢れているが、表向きは優雅に努める。
ノエルはそんなアマンディーヌを愛玩する犬を見るような、穏やかな目を向ける。
「貴女が美しい鳥を飼っているように、僕にも可愛い犬たちがいるんです。」
どうやらメデウスのことも筒抜けのようだ。
一体この男はどんな犬を社交界に紛れ込ませているのか。
「それは、優秀なわんちゃんたちだわ。でも、それならなおさら何故私はあのお茶会に呼ばれたのかしら。」
アマンディーヌは縁をなぞっていたカップを掴むと、足元にひっくり返し中身を芝生にぶちまける。すっかり冷めきった紅茶は、無残にも芝生に吸い込まれていく。
「私は侯爵様を謀るつもりもありませんし、父もただ旨味のある話に飛びついただけです。…こんなお茶まで仕込むなんて、一体何をされるのかしら。」
おそらく紅茶には薬が盛られていた。その中身は自白剤なのか睡眠薬なのか不明だが、ただの薬草などではないのは確かだ。
今までのご令嬢には、あのお茶会のあと個人的に誘い出し、見初められたかと夢見た浮かれたご令嬢に、一服盛ってきたのかもしれない。
しかしアマンディーヌは同じ穴の狢であるゆえに、前回と少し香りが違うことに気づいてしまった。
ノエルは気分を害した様子もなく、紅茶をぶちまけたアマンディーヌをにこやかに見つめる。
「そんなに怯えないで。僕は貴女を脅かす存在じゃない。」
まるで警戒している野良猫をあやすような言い草に、アマンディーヌは思い切り顔を顰める。
まるで相手にされていない。なんて高慢な男なの。
「回りくどい言い回しばかりされないで質問に答えてください。」
苛立ちの滲んだ様子のアマンディーヌに、ノエルは宥めるように優しい声色を出す。
「純粋に、貴女に会いたかっただけです。僕たちはきっとお互いを分かり合えるいい友人になれると思ったんだ。」
その言葉にアマンディーヌは信じられない気持ちでノエルを見上げると、うっとりするような灰色の瞳がこちらを見据えていた。
それにアマンディーヌはなぜだかゾッと背筋が凍るような悪寒を感じたが、なんとか平静を保つ。
「…そういう上っ面な口説き文句は嫌いだわ。」
ふいとノエルから視線を逸らし、まつ毛を伏せるアマンディーヌ。
ノエルはそんなアマンディーヌを楽しそうに眺める。
「それは、元婚約者殿の影響ですか?」
いちいちカンに触る男だ。
わざとアマンディーヌの感情を揺さぶるような発言をする。きっと試されていると理解しているのに、アマンディーヌはコントロールができなかった。
ノエルの楽しげな視線を振り払うようにつっけんどんに言い返す。
「彼に愛を囁かれたことはありませんが、元より気位ばかり高くて嫌な女ですので、こう言えば女は喜ぶというのを感じてとても不愉快な気持ちになりますの。」
天邪鬼なアマンディーヌの返しに、ノエルはくつくつと抑えるように笑った。
それをじろりと横目で見るアマンディーヌに、「馬鹿にしているわけじゃないです」とノエルが弁明する。
「気位の高い女性ほど美しく、儚い。だから宝石のように大事に扱いたい、そう思うと同時にこちらを見てほしくてついからかってしまいたくなるのです。」
くらくらするような艶っぽい発言とは裏腹に、柔和に微笑むノエル。アマンディーヌはその姿に、少しだけ絆されそうになった。
恋愛経験のないまるでウブなアマンディーヌはここまで食い下がって口説かれるのは初めてだった。だからといって、このいけ好かない男に落ちたかと言われるとそうではない。自分よりも幾分か年下のこの男が、涼しい顔で詩のような口説き文句を口遊む姿に、敵ながら流石と手を打ってしまいたくなるという意味だった。
「そうやっていくつもの宝石の煌めきを奪ってきたのかしら。嫌味なく、賞賛に値しますわ。」
すっかり怒りを忘れ、いつもの余裕を取り戻し楚々とした微笑みを浮かべるアマンディーヌ。それをノエルはまた楽しそうに眺める。
ギスギスした雰囲気から一転、穏やかな空気が流れ始めたころ、控えさせていたアマンディーヌの侍女が早足に近づいてくるのが見えた。
もう帰りの時間かと思ったアマンディーヌに、侍女はノエルとアマンディーヌに一礼をしてからアマンディーヌに耳打ちをする。
「お嬢様、馬車が何者かによって破損され、乗車が困難となりました。ですので、急遽辻馬車を用意させることになりますがよろしいでしょうか。」
告げられた内容に、アマンディーヌはとっさにノエルを見遣る。
ノエルは優雅に紅茶を飲みながら、そ知らぬ顔でアマンディーヌと侍女の様子を眺めている。
ノエルと目があってアマンディーヌは、しまったと思った。
「何かございましたか?僕にできることであれば力になりましょう。」
まるで誂えたかのような状況に、アマンディーヌは目眩がした。
全てが仕組まれた舞台のように、アマンディーヌはカストル家に泊まることになった。
辻馬車を用意するとごねるアマンディーヌを、この辺りは田舎だから辻馬車はあまりないだとか、遠方から来て疲れているだろうからゆっくり休んでからの方がいいだとかなんとか。とにかく耳触りのいい納得のできる理由をこじつけてアマンディーヌを引き止めた。
アマンディーヌの婚約がかかっていることを知っている侍女も、それを後押しするように辻馬車の用意を取りやめる。
その結果、追い詰められた状況のアマンディーヌは屈してしまった。
絶対に泊まるものかと強く反発するほど強情にもなれず、流されてしまう自分をこれほど情けないと思う日はなかった。
「貴女がいると、この屋敷も華やかになります。」
はす向かいに座るアマンディーヌに、ノエルは優雅に微笑む。
現在共に夕食を囲む2人は、ノエルの唐突な発言に静まり返っていた。
食卓にいるのはアマンディーヌとノエルのみで、他の家族の姿は見当たらない。
静謐で怜悧な雰囲気の屋敷だが、出される食事はどれも美味しく、見た目も楽しいものだった。
それにアマンディーヌは素直な感想を述べると、ノエルはさきほどの発言をかましたのだ。
「食事くらい純粋に楽しませてくださらないかしら。」
ジト目で訴えるアマンディーヌに、ノエルは楽しそうに笑う。
「本心ですよ。モノクロのようだったいつもの食事が、貴女がいると鮮やかに思える。美味しそうに食べる貴女をみているとこちらまで幸福な気持ちになる。」
屈託ない微笑みは偽りには思えない。
アマンディーヌは、ノエルに少し共感できることがあった。
幼少の頃からいつも1人で食事をとっていたアマンディーヌは、誰かと食事をする喜びや楽しみを得られなかった。ごく稀に両親と共に食事をしても、マナーの監視や社交のためであった。
だから食事は必要なものというだけで、食べる行為は事務的で、さして興味も薄かった。
しかし、メデウスと出会い、自分で食事を用意し大勢の人とそれを食べるという体験をしたアマンディーヌは、何故だか妙な安心感に包まれた。機械的だった食事も、ゆっくりと味わうようになりただ腹が満たされただけでなく満足感を感じるようになった。
このカストル家も、きっとバートリー家と似た雰囲気であったのだろう。
ノエルはアマンディーヌとの食事に、アマンディーヌの感じた充足感を得たのではないのか。
「いつもこんなに美味しい食事を食べられるのに贅沢な方ね。」
口では嫌味を言いつつもアマンディーヌも屈託なく微笑み返す。
思いのほか夕食の席では打ち解けた雰囲気のアマンディーヌだったが、それはノエルに心を許した訳ではなかった。
「僕の妻になるともれなく美味しい食事を毎日食べられるという利点ができましたね。」
にこにこというように普段より少し砕けて微笑むノエル。
このようにうわ言ばかり紡ぐノエルを、アマンディーヌは心を許したくなかったのだった。
夕食を頂いたあと客室に案内されたアマンディーヌは、思いのほか居心地のいい屋敷にくつろいでいた。
そして一気に疲れが押し寄せたアマンディーヌは、明日早く出発するためにも早めに就寝した。