無人街
まるで、暖かい湯に揺蕩っているかのように、心地良い。
天地も左右もない闇の中、五感は絶え、呼吸すらしているのかもわからない。
自分の輪郭さえ不明だ。いったい何処からが私で、何処までが私なのだろうか。
すべてが不鮮明で不透明で、探れば探るほど意識は不透明に稀釈され攪拌されていく。
私が、私でなくなっていく……。
だが、それが、心地良い。
何もかもを放り出して、このまま漂っていたいと思うほどに気持ち良い。
だけど――わかっている。現実は残酷だ。こんな優しい結末など赦してくれるはずがない。
「………」
頬を切る風切り音が、意識を現実へと引き戻していく。
空気の抵抗。内臓が浮いている。
真下にはささくれ立ったアスファルト。どうやら落下の最中のようだ。
地表までの距離は、七メートル強……。うん。この速度であれば、問題はない……。
「無事到着……っと」
くるりと中空で身を捩り、猫のようなしなやかさで足から着地する。
ブーツを通じて衝撃が体内に伝わるが、膝が軽く軋んだ程度だ。魔術師の身体能力は世俗民の数倍に匹敵する。それは、後天的に魔術師として改造された身であっても変わらない。
真夜中の静寂に佇む摩天楼。スクランブル交差点の真っ直中に降り立った柊は、それとなく周囲に目を配る。
証券会社の看板を掲げた高層ビル。信用金庫と税理士事務所。居酒屋にカラオケ店。路上パーキング……。
霧郡には近畿地方有数の金融街があると聞いた。多分、此処がそうだろう。青看板に書かれた地名もあっている。
人気はない。完全に無人だ。生命の息吹き一つ感じない。
ふと気になって、天を見上げる。
「霧郡は常在暗夜。亜空隙に閉じ込められた影響から、決して陽は昇らないと聞いてはいたけど……」
眉を顰めたのは、夜空を彩る星々があまりに眩しく輝いていたから。
電力が断たれているためか、街灯や信号などは機能していない。なのに、暗視に頼らず街の様相を隅々まで見渡せるのは、この絢爛豪華な宝石箱のおかげだろうか。
「天体運動はしていない。ずっと同じ場所で輝いているし、未知の銀河や惑星なんかもあるようだけれど……月はないのよね、何故か」
次元破断が襲来した際、霧郡上空には満月が昇っていたはず。
だが、見当たらないからと言って不思議に思うことはない。
此処は霧郡。もはや我々の常識の何物も通用しない異世界だ。
「目視での安全確認、完了……」
呟くが、それに応じる声はない。
柊は振り返り、自分が抜け出たそれを仰ぐ。
現世から霧郡へと通じた次元穴。その一方通行の出入り口は、スクランブル交差点の上空約十メートルにて、乳白色の靄の渦となって漂っている。
(あのまま終わってくれても良かった……なんて、矛盾しているわよね。必ず報いを受けさせると誓ったのに……)
柊は溜息を吐く。どうして迷いなく飛び込めたのか、自分でもその理由はわからない。
もう考えるのはよそう。そろそろ二分が経過する。
鉱山のカナリアにされたことには腹が立つが、柊と久慈原の間にはそれだけの力量差がある。
せいぜい畏まってご機嫌取りを――
「おやおや、随分と可愛らしいお客様がいらっしゃいましたねー」
背後から湧いた女の声に、柊は驚愕する。まったく気が付かなかった。注意を払っていたはずなのに……。
柊は霊絡神経を励起。魔力を汲み出し、脳の術式回路を稼働させ、掌に炎鎖を顕現させつつ振り返る。
そこにいたのは――