穴Ⅰ
「それでは申し訳ありませんが、お名前を確認させていただいてもよろしいでしょうか?」
橋田の言葉に、二人がそれぞれ声を上げる。
「久慈原千景だ」
「火津摩柊……」
酷薄そうな優男と、灰銀髪の若い女。
間違いない、と橋田は確信する。
佇む気配だけでわかる。この二人は常人ではない。基礎的身体能力から五感、身のこなしに至るまで一切が自分たちとは異なる存在。魔術師だ。
「ありがとうございます。支局長より話は伺っています。私は本件の責任者を務めます……」
「無駄なおしゃべりに割く時間はない。さっさと案内しろ」
いけ好かない態度だが、魔術師であればこれが普通だ。
「……わかりました。廣井、頼めるか?」
「どうぞ、御二人とも。足元が悪いのでお気を付けください」
廣井の案内で、二人の魔術師がブルーシートの隙間から三好邸の玄関を潜る。橋田もすぐに後に続いた。
ポリカーポネートの高耐水シートで隙間なく目張りされた廊下。
資材保管庫と化した客間を横切り、加藤は襖が取り払われた十畳ほどの大広間へと二人を通す。
近付くほどに、肌に感じる威圧感。ぴりぴりと空気が張り付いていくのがわかる。
「こちらです」
聞き取り調査により判明したところによれば、そこは元々仏間であり、三好老人が孤独に眠る寝所でもあったそうだ。
亡き妻を偲んで線香を焚き、思いを馳せて死出を待つ。
老人にとっては何にも代えがたい拠り所だったろう。
だが、もはやそうした静謐さは微塵もない
仏間の中央。幽鬼のように湧き出た黒い輪が、全てを台無しにしてしまっている。
「それが、この地に開いた次元穴か」
久慈原の言葉に、橋田は神妙に頷く。
次元穴。
次元破断の余震として発生する、現世軸線上に穿たれた虚界侵蝕点。
通俗的に表現するならば、異次元への入り口。ワームホールとでも言うべきか。
(相変わらず、見詰めていると気が滅入る……)
橋田は、この穴を初めて見た時のことを振り返る。
今では綺麗に片付いているが、発見当初はひどかった。
奇怪に歪む欄間や梁。雑多な瓦礫。散乱する枝葉。
そして床いっぱいに撒かれて均された、かつて人間であったもの……。
観測用電算装置の筐体や各種ケーブル、磁場遮断用の特殊シートを剥がせば、今でも当時の様子を伺い知れる。
あれは悪夢だった。吐き気を催す地獄絵図。
では、それを生み出した元凶――次元穴とは何なのか?
(奇蹟。神秘の塊……。いや、禁忌だ。触れてはならぬ神の領域……)
人間としての、いや、動物としての本能が警鐘を鳴らしている。
近づくな。踏み込むな。手を伸ばすな、と。
だが、魔術師は違う。
「ふん。次元破断の残滓というからどんなものかと思えば、単なる洞に過ぎないな。本当に、向こうとこちらを繋いでいるだけの代物か」
つまらなそうにぼやく久慈原には緊張も動揺も見られない。
そうだ。超常への恐れなどあるはずがない。
奇蹟を暴き、神秘を術式と抽出することで我が物とする。それこそが魔術師なのだから。
「さて。それでは穴を潜る前に、確認だ」
久慈原の視線がこちらに向いた。
「貴様ら、霊障監査局の局員は、認知抹消の影響を受けていないな?」
認知抹消。
それは、次元破断襲来に伴う副次的霊異事象――霧郡が亜空隙に堕ちたことで発生した、集団認識齟齬現象を指す。
次元破断の襲来以降、一般大衆は霧郡の存在を認識できなくなっている。
脳内記憶から地図標記、書面上の文言。それどこか霧郡と共に消えた家族や知人のことさえ、最初からいなかったものとして平然と日々を過ごしている。
それは、なぜか。詳しい原因は現在も究明中だが、一応理論はある。
どうやら次元の裂け目が現世に開いた際に膨大な霊子波を生じさせたことと関係があるようで、その霊子波は亜空隙に沈む霧郡の膨大な情報を転写したものであるらしい。
その霊子波を常人が浴びると魂にあるとされている記憶領域が改竄され、脳にも波及。以降、霧郡に纏わる一切の情報がブラックアウトしてしまうそうだ。
ちなみに、認知抹消は霊的防御素養――霊殻を備えた人間には適用されない。
そして霊殻というものは、魔力の供給源――霊絡神経を宿した人間にしか存在しない。
すなわち――
「ええ。我々も霧郡が存在していたことは記憶しています。監査局員のほとんどが元魔術師の家系ですからね。それがどうかされましたか?」