異変Ⅰ
一切の慈悲も容赦も無く、石蛇を少女の胸へと突き刺した。
槍のごとき一撃は、少女の肋骨を突き破って肺臓を砕くが、僅かに致命には届かない。
そんな孔を空けた、はずだった。
「……⁉」
阿万鵺の全身を、驚愕が雷鳴となって駆け回る。
「火津摩さん。貴方は……」
柔らかな果実を潰した幻覚に未だ浸るまま、阿万鵺は茫然と振り返る。
あり得ないという言葉は、どうにか呑み込んだ。
左半身のほとんどが石化しても、内蔵諸器官にまで石化は浸透していない。床石と一体化してしまった左脚を砕けば、確かに行動は可能となる。
しかし、石蛇が少女を貫くまでの猶予は極めて短く、覚悟を決めて脚を砕いたとしても、疾走など出来るはずがない。全身を巡る霊絡神経系に重大な損傷が及んでいる以上、魔力を捻り出すことだって不可能なはず。霊絡系を補佐する印呪だって破綻しているだろう。
なのに。ああ、それなのに――
《柊……さん……?》
球根状の巨躯を回転させたその向こう。白髪の少女が当惑の表情で、自分にしがみつく一人の女性を見詰めている。
彼女の半身は、蒼い炎に包まれていた。いや、体内から滾々と湧き出ている蒼炎こそが、彼女の左脚であり左腕であり、常軌を逸する超加速を成し遂げた全てだった。
炎を体内で爆発させると同時に、高速移動のための推進剤とする。
言葉にすればそれだけだ。だが、あの刹那に……。
ごぼっと低い水音が響き、少女の真っ白なワンピースに真っ赤な飛沫が付着する。
実際に空気を燃焼しているわけではないのだろう。熱も無く少女を抱き締めていた蒼炎の腕が力無く解けていく。生身の右脚も膝を折った。
そのまま、ずるずると崩れていく。
《柊さん‼》
それはそうだろう。
蝋燭の最期の灯は、眩いが儚いものだ。
文字通り、全身全霊を使い果たしたのだろう。
(しかし、お見事でした。火津摩さん。貴方の生の輝き、しかと拝見させて頂きました……)
深い満足感を覚えながら、満を持して阿万鵺は石眼邪視の射出準備を整える。
相対距離は、十三メートルほど。十分に射程圏内。
彼女が完全に倒れる前に、弍神雪ごと巻き込んで……。
「まだ……だ……!」
地の底から呻くような声に、驚いたのは少女よりも阿万鵺の方だった。
崩れ落ちようとする身体を叱咤するように、炎の義足が力強く石床を踏み返し、皮下出血痛々しいボロボロの右腕が、咄嗟に少女が伸ばした腕を掴む。
火津摩柊は倒れなかった。少女に支えられてはいるものの、二本の肢で屹立し、ゆっくりとこちらへと振り向いて……。
「なんと……!」
これを歓喜と呼ばずして、何と呼ぼう。
彼女は自分の拙い想像力を上回った。
欠けるどころか、翳りすらない闘志。
爛と輝く精気に溢れた瞳。
「阿万鵺ぁぁぁっっっっっっ‼」
狂犬のごとき咆哮さえ愛おしい。
彼女が牙を剥く。生命の最期の発露。それを憎き妹の仇を討つためではなく、名も知れぬ少女を殺そうとした私のために……。
脳裡を常に占めていた柔らかな母の微笑が、一心に憧れ続けた父の石像が、記憶の地平から消えていく。まるで呪いが解けるかのように、晴れ晴れと。
そうだった。やはり、そうだった。この瞬間こそが、私の――
ぱきん。
小さな氷柱をへし折ったかのような硬質音に、阿万鵺はぴくりと動きを止める。
彼女から……ではない。顔面に宿した十二の双眸だけでなく、全身に張り巡らせた全ての石眼で注視していたのだ。石化した柊の身体に罅が入った様子は見られない。
では、どこから?
「……?」
自身のちょうど臍あたりに、亀裂が見えた。深くはない。硬膜がうっすら剥がれ落ちた程度の、微かな罅。
負傷していた……? しかし、些細なものだ。無視して構わない。
阿万鵺はそう結論付けようとして、脊髄が凍結したかのような急激な悪寒に襲われた。
(無尽胎蔵と私は今でも繋がっている。私が指示せずとも、無尽胎蔵が損傷と認識したものは自動的に遡行修復されるはず……! それが、なぜ、治らない……⁉)
ぱきん。
また音がした。
先程よりも近く、大きい。そして左の顔面付近に生じた違和感。
手を伸ばして触ってみるまでもない。見下ろす視線の先には、自分の顔面から零れた石仮面の欠片が転がっている。
ぱきん。
ぱきん。
一匹、また一匹と、雪華石膏の粉塵を撒き散らし、石蛇触手が息絶える。
砂状に溶融する台座から、ごろりと砲塔が転がり落ちる。
重心が取れない。自己崩壊が起きている。
(これはっ……⁉ いったい、何が……⁉)
阿万鵺は意識を体内に集中させ、霊絡神経を中心として異変を探る。
だが、それより早く、石躰胸郭を叩き割り、肺臓と横隔膜の間隙から何かが噴出した。
羽化した蚕のようなそれは半透明に透けていて、空気に触れると同時に雪片のようにはらはらと崩れて消えてゆく。
《蟲……?》
そう、白髪の少女が思念で呟くように、これは蟲だ。つまりは――




