乱戦Ⅳ
「……くくくっ、そうか、そうか……。躊躇無く女共を拾ったのは、我を誘う餌でもあったというわけか……」
そう呟く海魔に、兜は無かった。
全身隈無く膾斬り。具足は剥がれ、露出した魚鱗の肌は夥しい数の裂傷で埋め尽くされている。
相貌は、明らかに異質。クモヒトデを無理矢理鋳型に押し込んで成型したマネキン。それ以上でも以下でもない。だが、縦に割れた二つの瞳孔に宿る光は、紛れも無く人間の……。
がふっという喀血と同時に、海魔の膝が折れる。
一方で、聖澤は顔色一つ変わらない。眼前の海魔を冷然と見据えている。
「短慮軽率……。攻めあぐねていた我には……、覿面だった……な……」
海魔の手から力が抜ける。
落下する長脇差の鍔と柄。そこに刀身は無い。既に残骸と化して足元にばら撒かれている。
胸に空いたスーツの破れ目から鋼の光沢を覗かせる聖澤は、つまらなそうにぼやく。
「大人しく当初の策に徹しておけば良かっただろうに。不甲斐無い配下に焦れたようだが、将ならば隊を率いる事に傾注しろ。単騎で挑むなど阿呆以外の何物でもない」
海魔の、吐血で染まる口元がにやりと歪む。
「数を頼みの……力押しなど……、つまらぬわ……! 挑み果てる事に……、悔いは……無い!」
どこにそんな余力があったのか。海魔の垂れ下がっていた両腕が俄かに震え、聖澤の喉元目掛けて殺到する。絞め殺すのではない。首の骨を圧し折るために。
聖澤は平静だった。
足掻く海魔に侮蔑的な視線を投げ掛けたまま、鎧の胸板を深々と抉る鋼鉄爪手を引き抜くと同時、強烈な前蹴りを海魔の鳩尾目掛けて見舞う。
蹴られた海魔は、驚くべき事に持ち堪えた。よろよろと踏鞴を踏みながら後退するものの、尚、二本の脚でしっかりと立っている。
が、次の瞬間、その身体が崩壊する。アンバランスに組み上げた積木パズルが崩れるように、無数の破片となってバラバラに。
「魔術師と渡り合うだけの攻防力を備えた指揮官級……。だが、優秀だったのは側だけだな。中身は滑稽な程の猪武者。俺の鋼糸を躱し続けたのは見事だったが、褒められるのはそれだけだ」
鋼鉄爪に付着した血糊を掃いながら、聖澤が鼻を鳴らす。
あまりの事態に、神楽耶共々唖然とする雪だったが、
(鋼糸……?)
耳に入ったその単語に、よくよく目を凝らしてみると……。
見えた。非常に細い糸が、鋼鉄爪の先端から伸びている。
時折、照明に反射して髪の毛のように輝くそれらは、聖澤を中心にして円を描くように、エントランスホールのほぼ全域で展開されている。成程、海魔たちがこちらを遠巻きに眺めるしかないのはそのためか。
勝利の余韻に浸る事も無く、聖澤は黙ってホールの天井を見上げる。
荒波を立てて回転する浮遊大渦。轟音こそないが、その勢いは相変わらず凄まじい。
聖澤がぽつりとぼやく。
「……消失の兆候は無し、か。敷設型の常在結界……。海水流入の件からして術師が絡んでいるとは思うが、それとも神威倶からの派生物か……? しかし、奴等は何処の所属だ……? いきなり降って湧いたわけでもあるまいし……」
懊悩に耽る聖澤だったが、それも一瞬。
意識を切り替えたのか、すぐに目線をこちらへと移す。
「御無事でなによりです、神楽耶様。間に合って幸いでした」
恭しく頭を下げる聖澤に対し、神楽耶はビクッと怯えながらも、
「あ、うん。えっと……。そっちも色々大変だったみたいね。ご苦労様と言っておくわ」
と、虚勢半分冷や汗半分で胸を張る。
そんな神楽耶を見て、聖澤は何とも言い難い微妙な顔をした。
「……それは、ありがとうございます。しかし、私の独断で護衛の任を放擲した事実は変わりません。お傍を離れ、申し訳ありませんでした」
聖澤の真摯な謝罪に、そういえば、と神楽耶が首を捻る。
「レストルームで襲われた時も思ったんだけど、あんだけでっかい物音立てて騒いでいたのに、聖澤を含め、誰も中に入ってこようとはしなかったわよね? まさか聞こえてなかったなんて事はなかっただろうし。何かあったの?」
もっともな神楽耶の指摘に、聖澤は溜息混じりの声を出した。
「女性用レストルームでの騒動は承知しています。ですが、鰐淵さんから待機を命じられていた事に加えまして、総理が護衛と一緒に入った男性用レストルームの方がより酷い有様で……」
「そうそう。それはもう凄かったんだから」
二人の間へと割って入った錦田総理が、当時の状況をのほほんと語る。
「おしっこが終わって、さあ出ようと思ったら、護衛の人が『現在トラブル処理中ですので少々お待ちを』って全然外に出してくれなくて。いくら訊いても『主任からの命令です』の一点張り。紀伊ちゃんに取り次いでもくれないし。仕方ないから暇潰しがてら、こっそり煙草吸っちゃおって火を点けたら、いきなり消火栓が破裂しちゃってねぇ。えっ、これ、もしかしなくても僕のせいって、もー、心臓バクバクだったんだけど、その水から魚のお化けが湧いちゃってさー」
こちらと同じ状況。そして類似点の多さに、雪は周到な計画性を感じ取る。
海魔の襲撃は突発的なものではなさそうだ。
総理が話を続ける。
「流石にこれは僕のせいじゃないよねぇって一安心している最中に、魚のお化けと護衛隊の間で殺し合いが始まったんだよね。で、そこからだよ、とんでもない事になったのは」
「六紡閣がどういうつもりで総理警護隊の面子を選抜したのかはわかりませんが、素養はともかく経験という面では愚劣もいいところ。特に致命的だったのは連携と連帯です。互いの魔術の効果範囲、適用対象、魔術行使後の反動と副作用に、それをカバーするためのスイッチング……。そう言った諸々を碌に擦り合わせず、突発的な奇襲に考え無しに対処して……」
「派手に同士討ちしちゃったねぇ。いやあ、なまじ腕が立つから、錯乱しちゃうと見境無くてねぇ。魚のお化け達より迷惑だったよ。ほんと、聖澤君が駆け付けてくれなかったらどうなっていたか」
総理の実感籠った渋面に、聖澤は静かに目を伏せる。
「……正直、総理の救出に向かうべきかどうかは悩みました。魔帝の安全と保護が、俺達にとっては最優先。しかし、鰐渕さんであれば俺の助けが無くても万事に対応出来るはず。そう考えての行動でしたが、論理的だったかと言えば違います。総理の身柄を確保した場合のメリットが、俺の頭にはありましたから」
打算を赤裸々に語ったにも関わらず、総理の顔は爽やかだった。
「聖澤君は正直者だねぇ。うんうん、嘘でも慈善とか人道的とかそういう台詞を言わないところ、すっごく好感持てちゃうなぁ。助けて貰っただけの恩は返すから安心してね。なんだったら僕、総理警護隊が職務を放棄したって証言してもいいんだけど?」
総理の試すような物言いに、聖澤は一瞬言葉に詰まり、
「……とりあえず、結構です。今は、ですが……」
聖澤の含みを持たせた言い方を、総理は無言の微笑で受け止める。
双方の脳で、どのような思惑が交錯したかはわからない。
雪は考える。総理は、四饗公家と幣浄院の密約を知っているのだろうか? 紀伊乃が四饗公家をひっかけるために雪の内偵を黙認し、審問のための証言を録音しようとした事は? 何を何処まで把握しているのだろう? 少し、怖くなる。
「遠慮しなくていいのになぁ。君には助けられてばかりだし。ほら、この大渦の時だって」
「ん? あんたも放り込まれたの?」
神楽耶の問い掛けに、錦田総理は素直に頷く。
「うん、そうだよ。聖澤君に庇われながら、やっとの事で廊下に出たと思ったら、今度は腕のお化けがいきなり足元から生えてきてね。此処まで運ばれて、ぽいぽーいって次から次に。いやあ、海開きしたばかりの海水浴場みたいだったよ。渦の中で沢山の人間が犇めき合っていて、ほとんど芋洗いの状態だった。そうだねえ、三、四十人……うーん、もっといたかなぁ」
ふーんと軽く聞き流そうとしていた神楽耶だったが、ある事実に気付くと、はっと声を震わせる。
「え、待って。その人達は、いったい何処に……?」
そうだ。雪は思い出す。
私と神楽耶が大渦へと投げ込まれた時、荒ぶる波濤に人影は一つも見えなかった。
真下にはホールを取り囲む海魔。逃げ場は無いはず。なのに……。
疑惑に答えてくれたのは、聖澤だった。
「鏖殺されました。こいつらに骨すら残らず啄まれて」
彼は大渦に向かって、鋼鉄の爪をくいっと動かす。
ややあって、何かが渦から飛び出した。
濡れた床の上でびちびちと跳ねるそれは、細長い円筒状の未知なる魚。見た目はウツボに似ているが、全身に刃の鱗を生やしている。
しかし、もっと奇妙なのは、身体の両面に並ぶ無数の鰓孔。それらは全てヤツメウナギのような吸盤状の口を備えており、苦しそうにパクパクと開閉しては透明な液体を吐き出している。
「こ、これは……?」
「波で身動き取れない人間を噛み千切っては咀嚼する……。そのために結界が精製した式神です。ご覧のように渦の外では活動できませんが、留まる限りはほぼ無敵。推定潜伏数は百体ほどですが、狂暴な上に食欲は非常に旺盛で、おそらく満腹になる事はありません。現に、俺が知るだけでも二百人超がこいつらの餌食になりました」
「じゃ、じゃあ、私達もかなり危なかったって言うか、もしかしなくても危機一髪だったり……?」
「ええ、だから間に合って良かったと」
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