官邸Ⅰ
「あっ、あっ……」
甲高い女の嬌声。
「うっ……! はあはあ……。ふふふ、まだまだ……!」
ぎらつく男の舌なめずり。
「うぅ……や、やめ……」
「調子に乗っているからだぞ? まさか、もう降参かぁ」
充満する熱気。
肉と肉がぶつかり合う音がする。
「あっ、いや……。そんな激しく……きゃっ」
「……どうだ、どうだぁ! もう逝く寸前だなぁ! ぐふふ、満を持して食らうといい! 私の熱いパトスの迸りを……!」
脂ぎった男の指先が、乱暴に突起の先端を愛撫する。
「くうう……! ま、待って……アタシ、もう……!」
「さあ、無様な声で這い蹲ってもらおうか! これでフィニッシュだあああぁ!」
昂揚猛るままに、男は貯めに貯め込んだエナジーを一気に放出しようと身構えて――
「はい、そう来ると思ってましたぁ。膝下がら空きぃ」
小悪魔風カポエラギャルのローキックが見事に決まり、ダブルラリアットから超必殺技へと繋がりかけていた巨漢レスラーの動きが強制的に停止する。
「くそっ……あと少しのところで……小パンっ! ガード! ……あっ、駄目だって! 端、画面端は卑怯……えっ、嘘、だ、駄目! 逝っちゃう! ゲージ半分あったのに逝っちゃうから! 待って、待ってって! お願いだからぁ!」
「いやっすねー」
八連コンボからの無慈悲なニードロップ。
仰向けに倒れるレスラーを嘲笑うように、壁掛け高解像モニターの画面一杯にKOの二文字が乱舞する。
「はい、雑魚乙―。いやー、あんだけハンデをあげてもこのザマっすかー。マジで弱いっすねー。一周回って可哀想になるくらい弱いっす。ほら、ヘレンちゃんも『こんなんじゃ満足できないよー』ってがっかりしていますよ。ほらほら、十六連敗もしちゃって申し訳ないとか思わないっすか? ねえねえ、ほらほら」
「うぐぐぐ……。今度こそ、今度こそ勝てると思ったのにぃ……!」
コントローラーを握り締めながら項垂れる男を、ひたすら煽り散らかすスーツの女。
ソファに隣り合って座るその二人を遠目に眺めながら、弍神雪はどうして自分が此処にいるのかを考える。
東京千代田区永田町。内閣府総理大臣官邸の総理執務室。
一般人の立ち入りは勿論、政府要人であっても安易に入れないこの場所に、なぜ自分が賓客待遇で招かれているかと言えば――
「やーいやーい。いつまで経ってもシルバー止まりー。おまえのテク引退レベルー。五十時間費やしてそれなら辞めちまえー」
「うっ、うう、そ、そこまで言わなくていいじゃん! 紀伊ちゃんの意地悪っ! ゆ、雪ちゃーん!」
いきなり名を呼ばれた事にびくっとしながらも、雪は浅く腰掛けていた椅子から立ち上がる。
ワンピースの裾を揺らし、絨毯の海をゆっくりと横断。
SPに扮した極東魔術連合の要人護衛官。ソファ越しに自分を見詰める女も含め、計四人分の魔術師の視線を一身に浴びながら、雪は男が弱々しく差し出した手をぎゅっと握り返す。
途端、脳裏に響く、悲痛な慟哭。
《ううぅ、雪ちゃん、私はなんて駄目な人間なんだろう! あんなに頑張って特訓したのに……ぜ、全然上手くいかない! この前の国際フォーラームの時だってそうだった! 用意された原稿を読むだけなのに、焦って文章飛ばしちゃって……そしたら、総理はアフリカ情勢に無理解だってバッシングされちゃって……。与党支持率だって下がってばっかで、でも、それは私だけのせいじゃなくて……なのに、うう、なのにぃ……!》
ロマンスグレーが様になる五十代の紳士が、威厳も面子もかなぐり捨てて縋り付いて来る姿は、正直、ちょっと怖い。
だが、彼に悪意が無い事は承知している。
だから雪は優しく微笑むと、錦田時臣総理の心に直接語り掛けた。
《大丈夫ですよ。総理がたくさん頑張っている事は皆知っています。はい、良い子良い子……》
当人以外には聞かれていないとはいえ、このようなあやし方はどうなのだろう。
そう思わなくもないが、錦田総理がそれを強く求めたのだし、実際、効果は覿面だ。
自尊心の急速な回復に、俯いていた総理の顔に張りが戻る。
「……よし! 紀伊ちゃん、もう一度だ! 次こそは勝つからね!」
ぐっと親指を立てて、力強く口元を綻ばせる。テレビやポスターでよく見かける、変革を恐れぬ次世代の旗手そのままに。
彼が打ち出した政策は、その大半が歴代総理と同じく極東魔術連合の差配と指示によるもの。だが、非合理な二重課税の廃止に財政健全化のための可視化法案など、彼が主導して実現したものもあると聞く。
『総理なんて言ってもね。所詮は傀儡に過ぎないんだ。国民から徴集した金を施策に落とす前に中抜きして、連合のお偉いさんに、はい、どうぞと献上する。それを取り仕切るのが、私のメインの仕事と言う訳さ。情けない限りだが、断れば無能と見做され殺される。誰も逆らえない』
そう語った彼は慧明で、とても理知的に見えた。
それがともすれば気弱な子供同然になってしまうのは、霧郡で催された特級霊祭が原因だ。
調伏獣の稼働実験に政府の代表として出席していた錦田総理は、そこで謎の大魔獣の襲撃に遭遇し、スタジアムの崩落に巻き込まれるという危機的状況に陥った。
弍神杏をはじめとする護衛官らの活躍もあって、無事にスタジアムから脱出。九死に一生を得たのだが、その際、総理は激しく動揺し、重度の幼児退行を発症した。
幸い、症状は徐々に改善している。錯乱回数は減ったし、ベッドでの寝つきも良くなった。しかし、そのいずれも雪が傍にいないと駄目で、官邸仕えの精神科医が困り顔で語るには、何らかの要因で総理の深層心理に雪の存在が強く刷り込まれてしまったとの事。
(まさか、あの時、精神感応で慰めた事が此処まで大きくなるなんて……)
意図したものではなかったが、それが結果として雪の地歩を築いた。
総理直属のメンタルケアマネージャー。十歳の少女に与える役職としては破格以上に非常識であるが、総理の強弁、精神感応という異才、そして弍神の名声が異論を封じた。
もっとも、連合における現在の弍神家は、非常に難しい境遇にある。
だからこそ、望外の幸運と言えるだろう。
「総理、間も無く到着です」
イヤモニターを通じて通信を受けた警護官の一人が、執務室の扉前へと移動する。
きっかり五秒。ノックの合図は不要とばかりに、警護官がドアを開け放った。
「極東魔帝様がいらっしゃいました」
こうして再び、彼女に逢う事が出来たのは。




