集結Ⅴ
歩く。
歩く。
ただ、歩く。
「………」
目的地などない。行く宛てもない。ふらふらと夢遊病患者のように彷徨うだけ。
目に入るもの……。全てがぼやけて、霞んでいるようだ。
ファッションビル。アートギャラリー。低価格コスメが売りのディスカウントストア。
キャラクターグッズが所狭しと並べられた雑貨店。和菓子喫茶。デザイン専門学校の特徴的な看板。ファストフードのチェーン店……。
同じ場所をぐるぐると回っているような感覚がしている。いや、実際そうなのか?
通行人が時折投げかける奇異の視線。こちらをじっと観察している。
なぜだ? あの異様に目立つ銀髪女はもういない。
髪のせいか? そうかもしれない。薬局でカラースプレーを買えば良かっただろうか。
現金の持ち合わせはある。自宅のリビング、家族共用のキャビネットの引き出しに、緊急の時にと仕舞われていたお金。防災対策の一環だったが、まさかそれ以上の事が起こるなんて……。
「ねえ、彼女ぉ。どっから来たの? 制服だけど、この辺の子?」
不意に声を掛けられる。
胡乱な瞳で振り返ると、軽薄そうな若い男が三人、ニヤニヤとした顔をして近付いて来る。
「俺達、いつもは渋谷でたむろっているんだけどさー。今日はちょっと新規開拓ってのをしたくってねー」
ギラギラとした金のネックレス。高級ブランドのサングラスに、ピアスと指輪。パーカーやシャツに染み付いたアルコールの臭気と、スニーカーの縁に溜まった煙草の灰からして、どういう連中なのかはすぐに予想が着いた。
「……何か用?」
「君、かなりイケてるから、お知り合いになりたくってさぁ。夏真っ盛りなのに、長袖タイツに手袋まで嵌めちゃって、逆にクールって感じだしぃ? 首のそのチョーカーもお洒落だよぉ」
すかさず二人が柊の行く手を塞ぎ、背後の一人が無造作に腰へと手を回して来る。
「ひゅー。腰、細いねぇ。ちゃんと飯食べてる? 駄目だよー。女の子は身体が資本だからね。無理なダイエットは良くない良くない。大損だよぉ」
耳元で囁く男から放たれる、強烈な香水臭。デオドラントのつもりかもしれないが、明らかに付け過ぎている。
「最近は色んな情報が巷に溢れて、何が正解で何が間違っているのかわからなくなっているからねぇ。怪しいおじさんに唆されて、人生を棒に振っちゃう子も多いんだよぉ。僕等みたいな善良な大人からしたら、それはもう心が痛くて痛くてねぇ。だから、君にも声を掛けたんだ。誰でもいいから助けて欲しい。そんな顔をしていたからねぇ」
ねっとりとした猫撫で声。歯肉炎で鬱血した歯茎が見える。
だが、そんな事よりも――
「……貴方なら、助けてくれるの?」
男はしたりとばかりに破顔した。
「もちろんだよぉ。僕等はプロだからねぇ。君の不安を瞬く間に癒してあげるさ。すっごく良く効くサプリがあってね。それはもう、身も心も一発昇天……いやいや、死ぬって意味じゃないよ。あくまで例えだからね。安心して。でも、ちょっと強い薬だから、ちゃーんと説明を聞いて使って貰わないと危ないんだ。じゃあ、さっそくうちの事務所で……」
前方の二人の男へと目配せした男が、柊を強引に連れて行こうと腰に当てた腕に力を籠める。
が、動かない。地中にがっしりと根を張り巡らせた大樹のように、びくともしない。
「えっ? あっ、え?」
「ん? たっくん、どした?」
「早く行こうぜ。ノルマもあるし」
「いや、それが……くそっ、動かねえ」
再度挑戦。失敗。その繰り返し。
身長178センチ、体重90キロを超す男の顔が困惑に染まる。
「遊んでんのか? それとも、そういう冗談?」
「いや、マジだよ! どうなってんだ⁉ おい、歩けよ! 歩けって!」
柊に向かって怒鳴りながら、とうとう男は両腕を使い出した。
重い貨物を擦り動かすように、柊の背中をひたすらに押しまくる。
こそばゆい。ただそれだけの感覚に、柊は小さく息を吐く。
「幸せね、貴方は……」
「へ?」
「その程度の暴力で、どうにか出来る世界に生きていて」
男の両掌から、ふっと総量が消える。
ベクトルが導くまま、男は溜まらず前方へとつんのめるように倒れ込み――身を捻った柊はその首根っこを摑まえると、薄曇りの空目掛けて投げ飛ばした。
表参道へ続く幹線道路。等間隔に設置された街路灯の真上へと、男の腹が着地する。ハンガーフックに帽子を掛けるかのように、ひょいっと。
「は? え、うええっ⁉ な、何が、どうなってぇぇぇ……⁉」
高さ十五メートルの高所。落ちれば死にはせずとも骨折は免れない。
ずり落ちそうになるのを必死に堪えながらランプにしがみつく男へと、二人の取り巻きが慌てた様子で駆け寄っていく。
「た、たっくん! やべえ、暴れんなよ! と、とにかく頑張れ!」
「け、警察……は、ダメだよな、やっぱ。ど、どうするよ?」
「梯子だ! おい、梯子探すぞ! ついて来い!」
「ま、待て! 待ってって! 俺を置いていくなぁぁぁぁ!」
大騒ぎの様相に、なんだなんだと集まり始める野次馬の輪。
その喧噪を置き去りに、柊は再び歩き出す。
目立つ事は避けろと言われた。世俗民の好奇は魔術師を呼び寄せる、としたり顔で講釈もされた。
正直、どの口が、とは思う。
斑が化けた女子高校生は、はっきり言って物凄く目立っていた。人外ゆえの美貌がそうさせるのか、それとも天性の傲岸さがカリスマ性を生むのか、目の前を横切る彼女に無関心を貫ける者はいなかった。
変装に自信満々だった斑は気付いていないようだったが、教える義理など無いので黙っていた。もし連合に集会がバレたとしても、それは私のせいではない。
いや、それ以前に、私が七凶聖に奉仕すべき理由は何もない。
寧ろ、連合に七凶聖を捕縛させるべきだったのか……?
「………」
柊は思考する。何度も検討を重ねた熟考を、もう一度。
七凶聖は、反連合テロリスト。彼等が公然と市街地に姿を現すことができるのは、鳳來峰暗殺現場に意図的に残したメンバーリスト、それ以外の情報は未だ露見していないと判断しての事だろう。
では、彼等の詳しい容姿、特徴を、私が事前に連合へと提供していたなら? 七凶聖が連合によって一網打尽となれば、私の処遇はどう変わる?
自由の身となれる保証はあるのか? 六紡閣に逆戻りか? 連座で刑罰を食らうのか? 潔白を証言する機会はあるのか? 一味を売った事で恩赦はあるのか?
結論は、いつも同じ。わからない。
確実に言えるのは、少しでも私が怪しい行動を見せたなら、チョーカーに隠されている首の印呪が即座に私を殺すという事……。
ラピアスが自作した百手縛の制御印呪。その複製が、七凶聖内でどれだけばら撒かれているのか柊は知らない。もしかすると愚砦翕酩のような昵懇の外法師にも売り渡されているのかもしれないし、顔も知らない第三者がある日唐突に掌を翳して服従を迫って来るかもしれない。
柊は、思わずくすりと笑ってしまう。
(私の御主人様は、いったい何人いるのかしら……。そこまでして、どうして私を……。私なんかを……)
もう、放っておいてくれないだろか。
無力で無能な、元即席魔術師。今では炎鎖一本まともに顕現出来ず、身体能力にしてもチンピラを撃退するくらいが関の山……。
こんな不良債権、誰が欲しがる? いい加減、見捨ててくれたっていいじゃないか。
「自暴自棄に浸って死ぬ。それも一つの方法ね……」
諦観が心を蝕んでいる。
思いがけずこの街に還って来てしまった事……。それが、無気力を助長させている。
『逢瀬の続きだ。何処が良い?』
鯱紋兜を強奪し、極東列島へと帰還した直後の斑の提案。
七凶聖の他メンバーと合流を図るとの事で、その予定候補地を幾つか示された。
どうでも良かった。どうせまた振り回されるだけ。そう思っていた。
首都圏に限定された候補地。その一つに原宿という地名を見つけるまでは。
「………」
道行く先に、深く記憶に刻まれたショーウィンドウが見える。
ティーン向けファッションブランドのセレクトショップ。
雪が降りそうなほど寒い日だった。誕生日のお祝いに、あの子と二人で……。
『お姉ちゃん、ありがと。大事にするねっ』
買ったばかりの靴を履き、私の腕に抱き着いて来た、屈託の無いあの笑顔……。
それが、なぜ、こんなにも色褪せてしまっているのだろう。
とても大事なはずだったのに、どうしてこうもあっさりと硝子の前を通り過ぎる事が出来るのだろう。
来るんじゃなかった。淡い期待を持つんじゃなかった。もしかしたらと身勝手な想いを擁いてしまった。
徹底的に乖離している。どうしようもなく変わってしまった。
私は、もう、戻れない……。
「浮かない顔だな。どうした? 腹でも減ったのか?」
見覚えあるローファーの爪先。
柊は、いつの間にか俯いていた額を上げる。
「斑……」
銀髪を威風堂々と靡かせて、妹の制服を纏った化け物が嬉々と嗤っている。
「会合は……、終わったの?」
「滞り無くな」
「そう……」
……この男が、何を求めて私に絡むのか。その理由は明白だ。
だから、柊は口にする。
生を惜しみ、死を先延ばしにしたところで、いったい何が変わるというのだろう。
「……斑。火津摩の炎竜と闘いたいのなら、私の頭蓋を割り砕いて術式図を取り出しなさい。ラピアスなら、私の生態情報を元に、私よりも適した素体を造れるはず……。私では、どうやっても貴方には敵わない。貴方が期待するようなものは、私は何も持っていない……」
その場で心臓を貫かれても構わないという、放心と虚脱の狭間のような心地。
柊は、媚偽る事もなく、心の裡を赤裸々に綴る。
それを聞いて、斑は、ぷはっと吹き出した。
くだらない。しょうもない。そんなものを見たかのような失笑気味のせせら笑いが、鞭で打たれるかのように響く。
「負け犬根性が骨の髄まで沁み込んだ台詞だな。まったくもっておまえらしい。しかしな、火津摩柊。それでも俺はおまえに一目置いている。それは炎竜ばかりが理由ではない」
「……? じゃあ、何なの?」
銀髪の女子高校生が、ニヒルに口の片端を吊り上げる。
「阿万鵺奏弦。奴の説法めいた口調は辟易だったが、それでも審美眼は本物だった。人間が含有する美を最大限に輝かせる術を探る……。その一点において、奴は俺を優に凌ぐ。おまえはそんな奴が是が非でも生かそうとした女だぞ? この程度であるはずがないだろうが」
無造作に自分に向かって差し出される手。
首を掴まれ、無理矢理に引き寄せられる。
互いの息が触れ合う程の距離で、虎の瞳がぬるりと歪んだ。
「奴に代わって断言してやろう。おまえの美の絶頂はこれからだ。楽に死ねると思うなよ。おまえは血の泥濘を永遠に這い蹲る事になるんだからな……!」
柊はぞっとする。
斑の目の奥にあるのは、狂おしいまでの暴虐への愉悦。これまでの横暴が紳士淑女の振る舞いに思えるほどの圧倒的な……。
気道が深く締め付けられる。喉元に添えられた掌からは、絹の肌触りと微かな熱以外、何も伝わって来ないにも関わらず。
助けて。反射的に口から出そうになったその言葉を、柊は唇を噛み締め、押し戻す。
なぜ? 生き恥を晒したくないから? それとも、ちっぽけなプライドのため? もう死んでもいいと思っていたんじゃないの?
自分でもよくわからない。だが、柊は斑を強く睨む。
「……そうだ。それでいい。よくわかっているじゃないか」
斑が微笑み、柊を拘束から解放する。
「まあ、精々足掻く事だな。でないと、大勢死ぬぞ?」
「……どういうこと?」
ぽつっと頬に濡れた感触が広がる。
水……? 雨だ。薄ぼんやりと曇った空から、小粒の雨が降り始めている。天気予報をチェックしていたわけではないが、あの澄み渡る快晴がこうも崩れるとは思いも……。
「……‼」
はっとする。
これは、違う。雨じゃない。
魔術師になる際に会得し、いくつかの死線を経て強化された感覚野が、瞬時に正体を看破する。
「何を仕掛けたの、斑……!」
臨戦態勢となって飛び退く柊に対し、斑は心外とばかりに前髪を掻き上げ、
「俺じゃない。あっちが勝手にやっていることだ」
と、湿度を急速に増した天を指差す。
その動きにつられるように柊は上空を見上げ――
「え?」




