激浪Ⅳ
『すべては布石だ、絶後』
冬扇は言った。
『肉の槍。白人形による飽和戦術。鬼毬の機雷……。おそらく、どれも奴には通用せぬだろう。しかし、それで構わない。重要なのは、奴に思い込ませる事にある』
ミスリードの誘い。
それは、
『誤認させるのだ。おまえの権能が、私の助力無しには昔のままだと。己の身体以外は殖やせないのだと』
事実、仮想調伏獣の遠隔増殖は、冬扇の事象操作あってこそ。彼女の介入がなければ、数百キロの超長距離から、複雑な機構の人工生命体を増殖させる事など出来やしない。
空堀を埋め尽くそうと押し寄せる大津波や、無尽蔵に湧き出る海魔もそうだ。あれらは彼女が単身生み出したもの。俺は一切寄与していない。
俺が断片を使用したのは、権能伸張実験も兼ねたあれ一回だけ……。女頼みのヒモと嗤われるのも納得だ。なにせ俺独りでは、こんな作戦、どうやっても思い浮かばなかったのだから。
『奴はそなたを侮っている。その慢心が最大になるのは、我らが周到に巡らせただろう策が破れ、そなたが自暴自棄に陥った時……。勝機はそこにある。奴の嗜虐心を煽り、誘き寄せろ。逃げも隠れも出来ぬ、至近にして正面に』
猟よ。おまえは、気付きもしなかっただろう。
この祭壇は、俺が撒き散らした断片の気配で満ち溢れている。更に、傀儡精製に消費される大量の魔力とその残滓がチャフとなり、おまえがそれへと注意を向ける事を最後まで防ぎ切った。
眼前を落下しようとしているその雫は、天井の湿気が集まり出来たものではない。
それは、袋だ。冬扇が心血を注いで編み込んだ、極小サイズの亜種結界陣。隠蔽術式の補助に加え、天井の閉塞結界と一体化することで、その発見リスクを可能な限り低減させていた。
そして、猟、おまえは俺を見縊り過ぎてもいる。どうして俺があの時から成長していないと決め付けた?
現時点における俺の権能対象は、自身の肉体。そして、半径三メートル以内の無機物……!
『やり方自体は簡単だ。まず天井の結界袋に一滴分の水を貯える。そなたは断片の権能で雫を殖やす……。但し、殖やし始めるのは狗神使いと対峙してからだ。事前に用意しておくことはできない。袋から放たれる断片の気配で悟られてしまうからな。まずは混沌とした場を作り、それから殖やす。静かに、なれど、膨大にだ』
『禎岡と闘いながら、ということだな?』
『そうだ。絶後よ、これはかなりの難事だ。目まぐるしく推移する事態に対処しながら、二つの魔術を同時に行使しなくてはならない。正直、魔術師としての上積みがないそなたにこれが可能かどうかも私にはわからぬ。だが、成し遂げるのだ、絶後。そなたが報復を真に望むのならば……』
真っ直ぐに、俺を試すように見詰めるその瞳。
不安や恐怖よりも、心が震えた事を思い出す。
俺は微笑む。
至近に迫る禎岡。もはやおまえはどうしようもない。
俺は天を仰ぎ、結界へと合図を送る。
対流圧縮を繰り返し、許容限界ギリギリとなった袋が、雫となって落ちて来る。
(冬扇……。感謝する……!)
俺は最期の策へと念を送る。
渾身の大増殖。涙滴型の表面に亀裂が入る。
結界の崩壊。即ち、それは――
「おまえの最期だ、禎岡猟‼」
刹那、視界が暗黒に染まる。
全身を襲う衝撃。前後不覚。ひたすらに翻弄される。
銃弾を浴びた時よりも鮮烈で劇的な痛み。眼玉が潰れ、肺が圧し潰される。鼓膜は既に破裂しているが、脊椎が砕ける不気味な音が全身に響き渡る。
痛い。ひたすらに痛い。細胞一つ一つが悲鳴を上げているようだ。
(今……、俺は……、音速を超える激浪に……、膨大な質量……、圧迫……)
途切れそうになる意識を必死に搔き集め、俺は状況を整理する。
高密度に圧縮された膨大な水の解放は、祭壇という箱を瞬時に満たす。しかし、その膨張は堅固な壁面結界によって堰き止められ、再度圧縮を余儀なくされる。
いわば、深海の疑似再現。その推定深度はマリアナ海溝のチャレンジャー海淵に匹敵するが、潮流速度はそれを大きく上回る。
巻き込まれれば、最新鋭の深海探査艇でも大破は免れない。超人めいた頑強さを誇る魔術師であろうとも藻屑に出来るだけの力がある。そして、それは俺にとっても同様だ。
対策はしていた。白人形。あれを造っていた傀儡精製魔術には、もう一つの役割があった。
珪素とカルシウムの体表装甲。耐圧に優れた装甲を多層化し、俺自らに施すことによって、激浪と超水圧を克服する。酸素は血中にあるものを殖やせばいい……。
完璧な計画だった。術式図が禎岡に奪われるまでは。
装甲無しで耐えられる保証は無い。だが、雫を解放することに躊躇は無かった。
悲願を果たす。そのためならば……!
(何処だ……? 何処にいる……?)
激浪暴圧に抗うため、俺は内から外へと押し出すような形で全身の組織を増殖。
そして魔力感知を駆使し、禎岡の姿を見つけようとする。
まだ安心は出来ない。絶命したと確信出来るまでは。
(……いた!)
いや、あれはもう、あったと言うべきだろう。
かつての美貌は欠片もない。顔面は凹型に陥没し、眼窩は空洞。頭頂部の皮はずるりと禿げ落ち、僅かに遺った毛根が乱れ舞う様は、惨めを通り越して滑稽ですらある。
左半身は捥がれ、右手右脚も付け根のあたりで切断。首が大きく傾いて……。違う。折れた右鎖骨と首を真横に貫いている。よし。あれなら、もう……。
だが、
(……っ、なんだ⁉)
激浪に弄ばれる死骸から、ゾッとするほどの魔力が溢れ出る。
海流が歪み、死骸が不自然に静止する。
後背がぐにゃりと歪んで……。狗神の、召喚……? この期に及んで……?
禎岡の口元が弧を描く。
(嗤った……⁉)
虚ろなる水を押し退けて、禎岡の背後に巨大な二本の腕が現れる。
狗のものではない。が、人のものでもない。
明らかに異質な、卒塔婆らしき杭が乱れ打たれた刺青腕。
直感が告げていた。
(駄目だ……! あれを使わせてはならない! 最後の足掻きだとしても、絶対に……!)
俺は全身に纏わせていた絶後澎湃の権能を解く。
すぐに肉体が圧壊を始めるが、構わない。
俺は深海を増殖させる。全身全霊の魔力を籠めて。俺諸共に奴を潰すべく。
グズグズに崩れながら、萎むように縮んでいく、かつての友。
だが、刺青腕は、存在力を薄れさせながらも無傷。その手には、いつの間にか、凶悪な鉈と無数の釘が握られている。
『絶後。いざとなれば己の身を優先しろ。そなたが私を必要なように、私もそなたを必要としている。だから、約束だ。私が往くまで、果てるなよ』
すまない、冬扇。君の到着を待てなくて。
(殺す……! 奴を……! 今、此処で……!)
軋みが谺する。
脳の奥で灼熱が弾け、何かが砕ける。
そして、俺は――




