祭壇Ⅲ
『部長さん、起きてください』
薄い合板の扉越しに掛けられた声に、俺は泥のような眠りから目を覚ました。
『……なんだ?』
乾いた唇で呟いた俺に、無機質な男の声は静かに告げる。
『執行部の皆さんが呼んでいます。緊急の要件があるとかで。中央広場で待っているそうです』 『……わかった』
返事をし、俺は微睡ながら考える。
なんだろうか。緊急の要件? 執行部の詰め所ではなく中央広場ということは、探索隊関連……? いずれの隊も帰還にはまだ早いが、イレギュラーが発生して予定を切り上げたのかもしれない。
『猟……。おまえは、どう思う?』
囁いて、俺はふと気付く。
毛布の中、右脇下の空間。いつもであればあるはずの、三十六℃の熱がない。
躾の悪い子猫のように、禎岡はするりと俺の懐に潜り込む。最初は注意していたが、今ではその気すら起こりもしない。
『どうしたんだ……?』
ともあれ、緊急の呼び出しだ。優先すべきはそちらの方。それに、あの勘の鋭い少年の事だ。異変を嗅ぎつけて、先に現場へと向かったのかもしれない。
俺は手早く着替えると、外に出た。
常在暗夜の霧郡には、朝もなければ夜もない。それは地下水壕でも同様で、狂った体内時計の影響もあり、集落では常に誰かしらが起きていた。
『……?』
なのに、今日は不思議なほどに誰もいない。
俺は冷え冷えとしたコンクリートの岸辺に置かれたドラム缶を見遣る。パチパチと白い煙が立ち上っているが、それだけだ。貴重な燃料を燃やしているにも関わらず、暖を取る人間が一人もいない……。
俺は嫌な予感に囚われた。まさか、皆、中央広場へ野次馬に? 余程の事態が起きたのか?
駆け足気味に広場に向かうと、果たして騒めきと人垣がそこにはあった。
困惑と混乱が透ける群衆の中に執行部の面々を見つけ、俺はすぐさま駆け寄った。
『どうした? 何があった?』
『あ、ああ、良かった。ちょうど呼びにいこうと思っていたんだ。見てくれ』
違和感を覚えながらも、俺は彼等が指差すものへと目を向けて、
『……なんだ、あれは?』
広場の中央に聳え立っていたもの。
それは、大小無数の骨と髑髏で構成された、奇抜な一本の十字架だった。
全長は三メートルを優に超える。使用されている骨は全て研磨漂白されており、一見した限り、髑髏に人骨はなさそうだ。
牡牛、山羊……、あれは馬だろうか。鳥類は嘴があるので解り易い。尖った前歯は齧歯類。犬、猫……、一回り巨大なのは熊か? 種類が判別としないものも多数ある。
『なぜ、こんなものが……?』
茫然と獣骨架を仰ぎ見る俺に、リーダーの一人が途方に暮れた表情で呟く。
『わからない。広場にたむろしていた連中にも聞いたが、まったく要領を得なかった。気が付いたら、いつの間にかあったそうだ』
『これだけ巨大な代物だぞ? 運搬するにしても数人がかりだ。それとも、地面から勝手に生えて来たとでも?』
『どうだろうな。周囲に掘削痕らしきものは無かったが……』
リーダーたちが真剣な表情で俺に向き直る。
『で、どう対処する? このまま様子見で放置するのか、それとも……』
唐突な難問に俺が言葉に詰まった、その時だった。
『ふふふ。皆さん、お揃いですね。ようこそいらっしゃいました』
背後から聞こえて来たのは、艶やかな馴染ある声。
振り返る暇さえなく、声の主はするりと俺の脇を擦り抜けた。
『禎岡、君……?』
『えっ、どういうことだい? それに、その恰好は……?』
着古したパーカーに、縒れたストレッチジーンズは何処に消えたのか。
身体の曲線を一切隠すことのない漆黒のボディスーツ。両肘、両膝のプロテクター。バンド式のミリタリーブーツ。
華奢な腰回りを惜しげも無く見せつけて、禎岡は微笑みながら獣骨架へとしな垂れかかる。
『さて、皆様興味津々のこちらの逸品は、超常現象を発現させる神秘のアイテム。我々極東魔術師はこうした代物を神威倶と呼んでいます』
丁寧な口調も、端麗な相貌も、普段のそれと変わらない。
身に纏う装束こそ違え、彼は間違いなく禎岡猟だ。
だが、俺は、確信することが出来なかった。
『屠殺場や保健所で処分された獣たちの、人間の都合で不当に生命を奪われたという怨念。その一つ一つは小さいものですが、塵も積もれば山にもなります。その昔、外法師界隈に、国家転覆を目論んだ思想結社がいましてね。これは、そいつらが汗水流して製造したもの……。連合登録名、屍誄の薹兀。どうです、なかなか素敵でしょ?』
禎岡はにっこりと微笑む。
……違う。何もかも違う。別人だと思い込みたくなるほどに、その笑みは邪悪で、隠しようのない嘲りが籠められていて……。
なのに、それなのに、俺を見詰める漆黒の瞳は眩いばかりに輝いている。今までのどれよりも美しく……。
禎岡が獣骨架へと掌を翳す。すると、骨の表面に淡い紫の光が灯り、しゅうと空気が漏れるような音が響いた。
『それでは、最後のご挨拶を。我が六紡閣は当隔離収容所における断片干渉調査、その全行程を完了させました。よって、これより最終フェイズ――隔離収容所の解体、並びに、収容検体の全頭処分を開始します。長らくのご愛顧ありがとうございました』
芝居がかった仕草でお辞儀をする禎岡に対し、群衆は戸惑いに互いの顔を見合わせる。
そして、慇懃無礼に畏まる少年が面を上げた。
『ってなわけで、ここからはお待ちかね。大虐殺の始まりだ!』
八重歯どころでは済まない巨大な犬歯に、ぞっとするほどの悪意を剥き出しにして。
『な、なに? 意味がわからないんだが?』
『猟君、いったい、何を言って……』
禎岡はニヤニヤと満足そうに微笑む。
『いいねぇ、いいねぇ。その馬鹿みたいに間抜けな反応。モブはやっぱりこうだよなぁ。で、あっけなく殺されるところまでがテンプレっと』
ひゅんと何かがざわめきの中を奔り、俺は愕然と目を瞠った。
俺の前に陣取っていた仲間たち。彼等の首が、お手玉のように宙に舞っていた。
『……え?』
壊れたスプリンクラーのように鮮血を噴き上げて、ゆっくりと崩れ落ちる無頭の人影。
一拍以上の間が空いて、金切り声が炸裂する。
『う、うわあああああ!』
『きゃああああああ!』
『わああああああああ!』
恐慌状態から散り散りになって逃げようとする同胞を、禎岡は面白そうに眺めていた。
逃げなければ、という感覚はなかった。ただ、頭の中を真っ白にする虚脱心だけがあった。
いつの間にか現れた無数の狗を引き連れて、禎岡は俺の前へとやって来た。
『よお、部長さん。おまえも大概おめでたい男だな。自分が何をしやがったのか、まるっきり理解しちゃいねえ』
目の前が真っ暗になる。不気味な浮遊感。そして、顔面と背中に激痛。
顔面を殴り飛ばされたのだと遅まきながらに気が付いた。
ぼたぼたと鼻血が零れる。起き上がろうとして、後ろ髪を掴まれた。そのまま堅いコンクリートに叩きつけられる。何度も何度も、執拗に。
鼻骨が砕け、前歯が折れた。顔全体が焼けるように痛い。
『さてと……。んー、よしよし。ばっちし効いているな。そんじゃあ、俺と一緒に堪能しようぜ、部長さん。これまで通り仲良くなぁ』
自分のものではない呻き声が耳朶を打つ。
一つではない。複数。あちこちから。
俺は涙で滲む瞼を開き、そして見た。
『薹兀の権能はな、ガスの放出だ。ただ、このガス、VXでもなけりゃあタブンでもねえ。窒素と水素の混合物。化学分析上では無害極まりない物質だ。なのに、どうしてこいつらが死にかけているかって言うとだなぁ』
皆、倒れていた。老いも若きも、逃げ出した者も留まった者も区別無く。
口の端から零れる気泡。
痙攣する指先。弛緩する瞳孔。
窒息寸前の掠れた喉笛は甲高く、滂沱の如き血の涙は止め処ない。
『呪いさ。このガスには、人間の中枢神経系に作用する強力な呪詛がかけられている。しかーも、ガスの直接吸引のみならず、被呪詛者の悲鳴も呪詛媒介物となるおまけ付きだ。家畜どもの報復にしては随分と凝った趣向だよな。連中、ゆくゆくはこいつを使って同時多発テロを起こすつもりだったんだぜ? ま、その前に連合に潰されたけど』
禎岡は死につつある被災民の一人に近寄り、しげしげと苦悶の様子を観察する。
『薹兀はすぐに感染者を殺さない。出来る限り苦痛を長引かせ、悲鳴が第三者の耳に入るよう画策する。その一方で、優生主義のカルト教団らしく、霊絡神経を宿した魔術師には効果を一切示さない。俺とおまえが平然としていられるのはそういうわけだ。これがどういう意味か、理解できるか、部長さん?』
俺はぐちゃぐちゃになった顔を抑えて、必死になって考えた。
呪い? 魔術師? 俺にガスが利かない理由? 何の事だ。まるで意味がわからない。悪い夢のようだ。夢なら早く覚めてくれ! 俺はそれだけを祈っていた。
慄くしかない俺を見遣り、禎岡はやれやれと鼻を鳴らした。
『つまりはな。てめえはもはや人間じゃねえんだよ。術式図代わりに断片を体内に埋め込んだ似非魔術師。その癖、霊絡神経に至っては、そこいらの術師じゃ歯が立たないほどの成長振りだ。まさに人間の皮を被った化け物だぜ。三百を超す人間に人肉鍋を振舞うという鬼畜の所業を含めてな』
禎岡が、青黒くなった頬を引き攣らせている少女へと囁く。
『可哀想になぁ。あいつのイカれた自己満足のせいで、断片汚染物質を強制的に摂取させられて。俺だって辛いんだぜ。技研からの報告だと、第一、第二検体群共に細胞変異も染色体異常も確認できずって聞かされているんだし。でもなぁ、万が一って言葉があるだろう? 断片は物理法則を容易く凌駕する。俺達に観測できない範囲で、おまえらが汚染されている可能性は無視できない。じゃあさ、どうする? リスクを最小限に留めるためには? 二次汚染を防ぐには?』
ニヤニヤと微笑みながら、禎岡が脚を上げる。
俺は叫ぼうとした。
だが、それより早く――
ぼぎっ
脛骨を踏み砕かれた少女の眼から光が消える。
死んだ。殺された。誰に? 禎岡に……。
此処に至って、俺はようやく、ようやく理解した。
禎岡猟。この男の本性は……。こいつは、最初から全てを偽って――
とことこと一匹の狗が少女の死体に近づき、業火を吐いて焼却を始める。
『火加減を間違えるなよ。強火だ、強火。骨までじっくりとバーベキューに……ん? おいおい、部長さん。なんだよ、その情けない面! ははははっ! 気持ち悪っ!』
俺の視線に気付いた禎岡が、スキップ混じりに駆け寄って来る。
這い蹲る俺は、息も絶え絶えに呟いた。
『俺が……、俺の、せいなのか? 俺が、全て、悪いのか……?』
禎岡は優しく微笑み、言った。
『ああん? そんなの当たり前だろうがよ。てめえが断片さえ手に入れなければ、こんな事態は在り得なかった。俺の派遣だってそうだぜ。ったく、先遣隊が現場に着いてみれば、被災民が既に断片を回収して我物顔で権能を振るっている。どうしましょうかと旦那に伺えば、実態把握と隔離調査にわざわざ俺を御指名だ。ほんと、頼りにされるのも困りもんだぜ』
満更でもない顔で頷きながら、禎岡はむずりと俺の首根っこを掴み取る。
物凄い力だった。どれだけ暴れたところで振り解けないとすぐにわかった。
しかし、禎岡は俺を立ち上がらせると、すぐに手を放して俺を突き飛ばした。
俺は成す術も無く顔面から倒れ込む。
苦悶の嗚咽が、すぐ近くで聞こえた。
『さーて、次はそいつだな。今度は脳天をかち割って殺すから、その間抜けな眼玉をかっ開いて、ちゃーんと絶命するところを見届けろ』
頭上から響く柔らかい声に、俺は振り返ることさえ出来ない。
ばがっと植木鉢が砕けたような音がして、中年の男が血に濡れる。
死後痙攣が収まると狗が火炎を吐き出して、遺体は炎に包まれた。
『よし、次だ。サクサクいこうぜ。なんせストックが三百近くある。もたもたしていると徹夜だ、徹夜。お肌に悪い事は極力したくないからなぁ』
正気、なのか。まさか、本気で……。
『殺すのか……? シェルターの全員を……?』
秀麗な眉を軽く捻じ曲げながら、禎岡は至極当然とばかりに言ってのけた。
『全頭処分するって言っただろうが。てめえは何を聞いていたんだよ? 検体は完全に完璧に処分する。薹兀だって此処だけじゃない。全四基がシェルター全域をカバーの上、噴出量マックスで一斉散布している。子猫一匹逃がしはしねえよ。ちなみに、出稼ぎの三十人弱は一足早く抹殺済みだから、助けなんて絶対に来やしねえよ。良かったな』
すたすたと禎岡が俺に近づき、俺の腹に軍靴がめり込む。
俺はコンクリートの上を転がりながら、蹲っていた誰かと激しく衝突した。
『よし。今度はそいつだな。そうそう、おまえは絶対に殺さない。生かして連れて還れとの命令だからな。で、どうする? 串刺しか、脊柱を引き抜くか。好きな方でいいぜ。早く決めてくれよ。それとも、てめえが優しく介錯するか? 俺のせいで死んでごめんなさいってな!』
ぎゃはははは、と下卑た哄笑がどこまでも響く。
そう、あの時と同じように。




