再動
鳥葬。
あるいは、腐肉好きの魚介類に貪られる水死体だろうか。
無惨という感想は浮かばない。
摂理による宿命。あるいは、予定調和。
蛇を前にした蛙がどうなるのか。無論、こうなる以外にあり得ないと、そう腑に落ちるだけの超常が、夜気を焦がして虚空に蜷局を巻いている。
男は、頬を微かに緩ませる。
「いやはや……。まさか、ここまでとは……。恐れ入りました、柊さん。素直に賞賛を贈らせていただきます。貴方は本当に……、私たちが恐れ敬った火津摩の魔術師なんですねぇ……」
ひっそりと嘆息し、男は炎の龍から視線を外す。
未だ恒常耐性が機能しているのだろう。猛る炎龍に焙られて尚、燃え出してはいないものの、どろりとした肉腫と漿液に沈む蛆神の体躯からは、いかなる意思反応も見られない。
一瞬、下腹部に生えた白鯨紐が天へと向かってわずかに首を擡げたが、単なる痙攣反射な証拠に、すぐに地べたに垂れて弛緩する。
もはや蹂躙され食らい尽くされる以外に道はない。あまりにも明白な勝敗図。
あの性格からして、不嶽鍊は自らを勝利者だとは思わないだろう。ならばこれは、夜魔王フェルキアの自滅。新生イルムークの建神と高らかに謳いながら、なんと短命惰弱に終わったことか。
しかし、男としては特に問題がない。
寧ろ、このような結末で良かったと心の底から思っている。夜魔に多額の出資を行う武器商人ではあるもの、彼等の極東征服に付き合うつもりは毛頭ない。あくまでもビジネスの間柄だ。七凶聖―ー詩貴静蘭と繋がるための。
急激に減衰する蛆神の魔力の波動。絶命は間も無くだ。
(必勝を志しての完敗……。はたして彼女は、独り何を想っているのでしょうか……)
原始樹海の南端を徘徊していた男は、やがて開けた場所に出る。
そこは、鬱蒼とした樹々の梢を睥睨する崖の突端。天然の展望台。
一人の女が、黄金の髪を靡かせて、直立不動で立っていた。
白衣のポケットに両手を突っ込み、こちらに背を向けて、ただ真っ直ぐに、煌めく星空を見上げながら。
「こちらにいらっしゃいましたか。探しましたよ」
男は気さくに声を掛ける。
「あー、ルーデンドルフ? 何か用―?」
女は振り返らずに呟く。
淡々と、いつもと変わらない声色。落ち込んでいるような気配はない。
が、彼女らしくないことを男は悟る。短い付き合いではあるが、この夜魔が向上心の塊で、取り返しのつかない失敗ですら次の糧だと喜ぶ性質の持ち主であることを知っている。
なので、てっきり眼を皿のようにして壊れ逝く神体を観察していると思ったのだが、現実逃避のように空を仰いでいるとはどうしたことだろう。
「お忘れですか? 私は決闘の見届け人。ゆえに、此処での結果を貴方と共有しておく必要があるのです。技術総監のラピアス=ベリアールとではなく、新生イルムークの正統なる主にして、真なる夜魔の王、フェルキア=レメグ=イェクティシゥス=ロンディヌスと」
箒を逆様にしたようなぼさぼさの髪を僅かに揺らし、白衣の女夜魔が嘆息する。
「それはもう私の名前じゃないんだって。今はあの子の名前。私に代わって王になってくれたその時からね」
「なってくれた? 簒奪ではないのですか?」
男の質問に、女夜魔が不機嫌そうな顔をして振り返る。
「違うって。それ、なに、あの冷血女がそう言っていたの?」
「私が聞かされたのは、墳墓にて万有不暦を確保する際、夜魔王フェルキアの人格間で権力の譲渡があったということです。静蘭が言うところによれば、副人格が主人格を外部へと排斥し、王位を宣言。夜魔ではあるものの著しく機能の衰えた分身体に押し込められた貴方は、やむを得ずそれを認められたとか」
男の言葉に、女夜魔ははっきりと憤慨した。地団駄を踏んで。
「違う違う、全然違うって! あー、表面上はそうだったかもだけど、実体はまったく違うから! あんな良い子が逆臣なはずないでしょ! ってか、それが真実なら、私がニコニコ楽しく技術総監として働いているはずがないじゃない!」
「それはそうですが……、元々の性格からして貴方は研究者気質のようですし、『左遷されたけど好きなことができるなら、まあいっか☆』くらいに考えていらしたのかと」
「いや、流石の私でもそこまで割り切れないって……。私が技術総監に就いたのはね、断片解析にしても神体建造にしても、私でなければ実現できなかったから。つまりは適材適所と言うだけよ。私に王の素質がなかったことを含めてね」
女夜魔は肩を竦め、ふうと大きな溜息を漏らす。
「私さー、駄目なんだよね。統治っていうか支配っていうか、そういうのにまったく向いてないの。眷属を殖やすのも、私が好き勝手やりたいから代わりに面倒を引き受けてくれる人材が欲しいだけだし、国を興したのも、眷属が勝手に暴走して私を祀り上げただけ。彼らの期待に応えるために霊長の王とか自称して威厳を保とうとしていたら、いつの間にか大英帝国と結託して極東に戦争ふっかけちゃうし。しかもさー、こんな辺境に炎術師とかいう天敵がいるなんて思いもしないじゃない。こっちはほとんどピクニック気分だったのにねー」
当時を思い出してか、女夜魔がくすくすと笑う。
「前線指揮官たちは私に何度も何度も讒言してくれてね。此処は敵地だから危険だって、油断してはならないって。でも、誘惑には勝てなかった。
文献でしか聞いたことのない未知の大地。大陸とは一線を画す風土文化に、奇々怪々な霊獣妖魅の生態。そして何より神秘と同化した人間――極東魔術師の特異性。遺伝子の概念がなかった頃から体内因子を操り、魑魅魍魎から抽出した神秘を血に混ぜて継いできた。その強靭さ、堅牢さ、超大さ。それはまさに、種の最高点を突き詰めようとする可能性の探求。私はそれに好奇を抱き、魅せられた。
だから、戦っていて興味が湧いて仕方がなかった。紫藤褌耶と不知火呪洛……。人間は、どこまで強く、熱く燃え盛ることができるんだろうって……。あはは、そんで気が付いたら私以外の夜魔は全滅しているし。もー、本当にどうしようもないわよねー」
女夜魔は再び空を仰ぐ。
「封印されている間、暇を持て余していた私は脳内に二つの副人格を造った。眷属を殖やすことができなかったからね。だから人格という形でブレーンを生み出した。私は二人と話し合い、雪辱のためのプランを練る傍ら、籠絡した魔術師を介して極東魔術の解析に取り掛かった。新しい科学技術が勃興する度それを取り込み、旧来の常識を覆す理論が提唱されてはそれを受け入れ、新生イルムークのための青写真を構築していった……」
霧郡に赴いた夜魔が、わずか数か月にして原始樹海を要塞都市へと作り変えることができたのも、この青写真のおかげだろう。入念過ぎるほどの準備が実ったというところか。
「私と副人格は仲が良かったし、副人格は私を敬ってくれた。創造主として私の意思を最優先に扱ってくれたからね。だから、詩貴静蘭に万有不暦の解析を強引に押し付けられた時も、私が内心乗り気だったことを知って、渋々ながらにオッケーしてくれた。だって、一つの中堅都市を丸ごと亜空隙に引き摺り込む規模の次元震なんて聞いたことなかったんだもん。次元破断の断片……、どんなものかずっとワクワクして興奮していた。そんな感じだったから、夜魔の身体であれば連続性の切除に問題なく耐え切れるという静蘭の誘いにもホイホイと乗っかっちゃった。そしたら、心配そうな声であの子が言ったの」
万有不暦の連続性切除の権能には、精神を汚染する効果が付随すると言う。
人間に比べて遥かに堅牢な夜魔の精神であっても、影響が皆無とは思えない。
大事を取って、主人格は肉体外へと退避するべきだ。
「もう一人の副人格――ジゼルもその通りだって言い張ってね。そんなに言うならってことで、私は適当な分身体を造って、そこに意識を移動したわ。最低限度の機能も備えない、正真正銘の仮住まいにね。で、私の身体を操って無事に断片を確保したあの子は、墳墓の外で待っていた私にこう言ったわ」
これからは私が王を務めます。
貴方は、もう、王である必要はありません。
「それはつまり、王としての責務を肩代わりしてくれた、と?」
「にひひ、三行半を突き付けられたようにも見えるけど、真相はこっち。私はね、その申し出を有り難く受け入れたの。意図せず戦うことのできない身体となったことも幸運だったわ……。わかる? 私は、数千年ぶり解放されたの。真祖でも王でもなく、しがない最下級の夜魔として自由気儘に生きることを、あの子たちは認め、そして赦してくれた……。本当に親孝行な子供たち……。だから、心の底から謝りたい。そんな二人に報いるだけのものが造れなかったということに……」
そこで初めて、女夜魔は倒れ伏す神体へと目線を降ろす。
「言いたいことは山ほどあるわ。柊ちゃんの霊絡神経は全て調査済み。深層探査も何度もやって無我の領域にまで踏み込んだ。その上で隠しギミックや逆侵食系の罠を警戒し、外科的手段で心停止に追い込んで極限状態下での反応を探ったわ。彼女自身覚えてはいないだろうけど、私が蘇生させていなければ七度は三途の川を渡っていたんじゃないかしら。それでも、何も出なかった。実践さながらの第三副次脳の仮筐体試験でも、異常な反応は何一つとして検出されなかった。あのヤンデレオタク娘のせいで突貫工事を強要された挙句、泣く泣く諦めた十四次版のプロトコルと比べても、恒常耐性機関はその仕様から実用に至るまで完璧だった……」
「では、なぜこうなったのか……。その原因はわかりましたか?」
彼女は降参とばかりに両手を上げた。
「さあねぇ、今の時点では何が何やらわかんない。でも、結果は結果だからね。精一杯やってくれたあの子たちのためにも、ありのままを受け入れないと」
女夜魔の殊勝な態度に、男は慇懃に一礼する。
「それでは、此度の決闘は詩貴静蘭の勝利となります。以降は誓約通り、七凶聖の旗下に留まり、静蘭の指示に従われますようお願いします」
「はいはい。解りましたよー。精々お手柔らかに扱き使って頂戴。敗北宣言はこれでいい?」
頷きながら、男は考える。
副人格が主人格を追放した件。それが純然たる善意などではなかったとしたら。
万有不暦の精神汚染が副人格のエゴを肥大化させ、若さの渇望に狂った赫船慈榮と同様に、創造主を超えるという野心を瞬間的に増大させたのだとすれば、魔が差すことは十分に……。
いや、よそう。聡明なる彼女であれば、きっとその可能性に行きついている。その上で否定しているのだ。ならば、それ以上言うことは何もない。
「それでは、参りましょうか」
あとは静蘭の指示されたポイントへと技術総監を案内する。
これで今回の仕事は終わりのはずだった。
だが、促されても女夜魔は動こうとはしない。
名残り惜しさに足を止めているわけではない。
堕ちた蛆神を見詰める彼女はうっすらと微笑み、そして言った。
「いやいや、ルーデンドルフ。気が早いって。今宵のショーは、今まさに、これからが本番なんだから。誰にとっても残念なことにね」
何を言って、と男は顔無き顔の眉根を寄せて、唖然とする。
「静蘭には事前に言われていたのよ。次元破断の断片は夜魔でも手に負えない。こちらの指示したガイドラインに従い神威倶化プロセスの開発が終わったら、断片は即刻破棄し、永劫微塵に破壊しろって。そんな勿体ないことできるわけがないって断ったら、あの女は見せてくれたわ。警告としてね」
背筋を奔る悪寒に、男は思わず踏鞴を踏む。
それは悍ましいまでの魔力の放出。
虫の息の神体から、突然、なぜ、これほどに……?
「これが運命だと私は思わない。規定された未来だとは思わない。けど、あの冷血女が見せてくれた映像の通りに、神体を媒介として顕現が始まった……。あーあ、こうならないように手を尽くしてはみたんだけどなぁ。ハイリスクはハイリスクで終わったか……。んー、悔しい。でも、仕方ない。諦める。だって、こうして正式に七凶聖の仲間入りを果たしたわけだしね。首領の命令には従わないと」
むくりと死骸が起き上がる。いや、違う。内側から泡状の物質が盛んに湧いて、その勢いに押されるように全身が膨張しているのだ。
炎龍の輪郭が朧に溶けて、消えていく。
代わって蛆神の上半身を無数の気泡が包んでいく。気泡は粘菌のように伸び縮みしながら、ヒトデあるいはヒドラにも似たグロテスクな形態へと変化する。
「そんなわけで、私、ラピアス=ベリアールは、これからは肝に銘じます! 断片には要らぬちょっかいをかけません! 隠匿したり、私物化したりもしません! 約束します!」
ヒトデの花弁を無数に咲かせた蛆神は、捻転すると同時にずるりと外皮を脱ぎ落す。
「だから、あれ、どうにかしてくれない? 私、もう素寒貧でさー。ぶっちゃけ、打つ手ないんだよねー。ルーデンドルフとは、ほら、同じ穴の狢っていうかー、御用商人として神体建造にあながち無関係でもないっていうかー、ね? お願―い。ってか、あれが暴れ出したら皆困ると思うのよね。静蘭曰く、なんでも世界を終焉に導く獣?らしいから」
男は絶句する。
「まさか……。あれは……」




