プロローグ
それは、夕食の団欒の最中、唐突に鳴り響いた。
『本日十九時十一分頃、近畿地方で非常に強い地震を観測しました。繰り返します。本日十九時十一分頃、近畿地方で非常に強い地震を観測しました』
「え、地震?」
私は驚き、サラダから箸で摘み上げていたミニトマトを床に落してしまう。
ドレッシングに濡れたトマトはフローリングをつるつると転がり、椅子の下へと潜り込んでしまった。
「あちゃー」
「もう、なにやっているのよ」
呆れたような母の声に、だって、とぼやきながら、落ちたトマトをティッシュで包む。
顔を上げると、旅行の特集をしていたテレビ画面がぱっと切り替わったのが目に入った。
雪解け水で有名な渓谷に代わって映ったのは、真面目な顔のキャスターに縮尺された四十七都道府県図。地図の一部は真っ赤に縁取られて、一目で震源地が何処なのかがわかるようになっていた。
「あの地域は珍しいな」
晩酌のビールを注ぐ手を止めて、父が呟く。
キャスターが口早に、報道セクションに入った情報を読み上げた。
『震源地は近畿地方、京都府霧郡市。最大震度五弱を霧郡市全域で観測しています。付近の住民の皆さんは、揺れが収まるまで家屋の外に出ないようにしてください。また余震のおそれもあります。安全確認を徹底してください』
私達の住む場所には影響ないな。まあ、揺れを感じなかったから当たり前なんだけど……。
そんな風に呑気に考えていると、母の顔が何かに気付いたようにはっとする。
「ねえ、あなた、霧郡って、御義母さんが旅行に行くって言っていたところじゃない?」
「旅行……? あ、そうか。そういえば……‼」
「あなた、電話してみた方が……」
「そうだな。なんともないといいんだが……」
私は急に不安な気持ちに駆られた。同時に罪悪感にも。
祖母の旅行のことは母を通じて聞いていたはずだったのに、父同様に忘れていたのだ。
趣味の史跡巡りを楽しそうに語っていた祖母の笑顔を思い出し、私は電話の子機を取り上げる父の後ろ姿に祈った。
おばあちゃん、どうか無事でありますように……。
電話はすぐに繋がった。
「おっ、もしもし……そうそう、俺だよ。ん? 急にどうしたって? いや、知らないのか。今、そっちの方で地震があったんだよ。テレビでも放送されて……」
私と母は顔を見合わせてほっとする。良かった。なんともなかった。
私は祖母の安否確認が終わったら、父に電話を代わってもらうように頼もうとして――
ブツッ
何か……そう、とてつもなく重要な何かが切断される音が響き、目の前が真っ暗になった。
なに、これ? なんで? 停電? 何も見えない。何も聞こえない。えっ、なんで、どうなっているの?
意識が遠くなっていく。闇に溶けるように、私という輪郭が消えて行く。
やだ、嫌だ。な、なんで? 何がどうなっているの⁉
愕然と、私は私が無くなっていくことに途方もない恐怖を覚え、そして……
………
……
…
「ん? どうかしたのか?」
不思議そうにこちらを見詰めている父の声に、はっと我に返った。
慌てて周囲をきょろきょろと見渡す。
電灯が煌々と輝く、見慣れた間取りの、いつものリビング。
テーブルの上には少し冷めた料理が広がり、ランチョンマットの隣には、先程丸めたティッシュが一つ転がっている。
何事もない。何も変わっていない。
じゃあ、さっきの暗転は、いったい……。
「おい、大丈夫か?」
心配そうに尋ねる父に、私はなんでもないと笑いながら、胸の奥に蟠る不安を無視するように問いかける。
「それで、おばあちゃんは大丈夫だった?」
父の返答は、予想外のものだった。
「何を言っているんだ? 福井のおばあちゃんの三回忌にはこの前行ってきたばかりだろう?」
「いや、お父さんの方の……」
すると、ますます変な顔をされる。
「お父さんの母親は、お父さんが小さい頃に病気で亡くなっているぞ。いったい何の話をしているんだ?」
「え、だって、電話……」
私は父が手にしている子機を指差す。
「ん? 悪戯電話がどうかしたか? まったく、無言でいきなり切るとか礼儀知らずもいいところだな」
父はやれやれと子機を親機に戻す。
私は首を捻る。あれ? 電話って、父の方から誰かにかけていたたような……。
でも、父の母親が早逝したこと、その後の父が祖父の男手一つで育てられたこと、そうした事情から祖父に今でも頭が上がらないことなどのエピソードを思い出し、困惑してしまう。
「そんなことより、地震、どうだった?」
「たいしたことないみたいよ。近畿地方で震度三ですって」
母が告げた通り、テレビ画面には最大震度三を告げる縮尺地図が表示されている。
深度を感知した市区町村を読み上げるキャスターの語り口から察するまでもなく、地震としては軽微なもの。
だが、私は奇妙な違和感を覚える。
なんだかひどくおかしいような……それは今目にしている近畿地方の地図にしてもそう。こんなに小さかったっけ。京都と奈良の県境あたりに、割と大きな平野があったような……。
しかし、
「あっ、そうだ。今日はデザートがあるのよ。とっても美味しそうなイチゴをスーパーで見かけたの。ちょっと高かったんだけど、思い切って買っちゃった」
「へえ、倹約癖のお母さんにしては珍しいじゃないか。いいな。最近食べてなかったし。でも酸っぱくないといいんだが。お母さん、運が悪いから」
「なによ。そんなことを言うなら食べさせてあげません。独り占めしちゃいますからね」
「ははは。ごめんごめん。わかった。それじゃあ、家族三人で仲良く運試し。そうしよう」
微笑ましい会話を繰り広げる両親を見ていると、なんだか全てが霧散してしまった。
「お父さん、最近のはどれも甘いよ。きっとおいしいって」
「ん? そうか? いや、お母さんと結託して騙す気かも……」
「もう。本当にあげませんからね」
私達は笑い合い、愉しい夕食を再開する。
イチゴはちょっと酸っぱかったけど美味しくて、お風呂は気持ち良くて、数学Ⅱの課題は難しくて参考書と睨めっこしていたら、いつの間にか漫画のページを捲っていて……。
明日の授業の準備をして、ベッドに入って毛布に包まる。
何か忘れているような感覚はしている。だけど、本当に大事なことなら、きっと頭の何処かが覚えているだろう。記憶力には自信がある。だから、
「だから……、大丈夫……だよね? きっと……」
寝入る寸前に発した不安。それに応える声はなく、そして思い出すことはなかった。
二度と。