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ことばむしばみて

作者: はじ

 四六時中読書をしている人物は、まさしく本の虫というやつで、ぼくはその虫を駆除するため、半透明の壜に殺虫剤を詰める。駆除依頼があるとその壜を持って現場へと向かい、そこにいる本の虫に壜をそっと差し出してやる。それを飲んで絶命した本の虫を回収して部屋の壁に飾り、それを読み上げることでぼくは自らを満たす。

 たいていの本の虫は、人前に出ずに建物のなかにぐっと息をひそめて本を読んでいる、もしくは群衆にとけ込んで読書しているので、その目撃情報は極端に少ない。そのため、発見は容易でなく、多くは自己申告というかたちで存在を知ることになる。

 目を覚ましたと同時に電話のベルが鳴った。朝っぱらからいきり立っている電話を遠い眼差しで見つめ、三度鳴くまで待ってから通話ボタンを押した。

「はい、本の虫駆除屋さんです」

「あ、あの、ここに電話すれば、本の虫を駆除してもらえると聞いたんですが」

「ああ、はいはい。大丈夫ですよ」

「よかった。これからすぐでも平気ですか」

「ええ、構いませんよ。っと、その前に、ある程度の状況を把握しておきたいので、具体的な被害を教えてくれますか?」

「まず朝起きるともうすでに読んでるんですよ。ご飯を食べるときも、電車に乗っているときも、授業中も、部活中も下校中もバイト中もお風呂でも寝る前も寝ているときも夢の中でも、ずっと読んでるんですよ。そのくせ、内容はまったく頭に入ってないんです。そもそも自分がなにを読んでいるのかも分からないようなんです」

「なるほど、それはすぐに駆除しないと大変なことになりますね。これからすぐに向かいますので、出没する場所を教えてください」

 ぼくは依頼人が告げる住所をメモし、「それではこれから向かいます。あ、料金の支払いはまた後日こちらから連絡します」と言って電話を切った。

 ネットで住所を調べると、そこはファミリーレストランだった。ここからならのんびり歩いていけば正午には到着できる。ついでに昼食でも食べようと、ぼくは殺虫剤の壜をポケットに入れて外に出た。

 外は晩夏とも初秋とも言い難い、その中間のようなどっちつかずの天候だった。日差しの下に出れば熱気を感じ、木陰に入れば肌寒いので、歩く場所を選ばなければ、めくるめく温度の変化で体調を崩してしまいそうだった。ぼくは慎重に進路を選び取りながら目的の場所を目指して歩く。電信柱の太い一本の陰から長大な家垣、自動販売機の陰へと移り、そこからはどこにも陰が見当たらなかったので、仕方なく日光が射すところに出た。

 長らく内に秘めていた身体が光に触れたとき、自分が少しだけ清らかになったような気がするのはなぜだろう。吸いこむ空気は一様に清々しく、内側から一新されて別の自分に生まれ変わっていくかのようだ。しかし、新たな自分の視点になると、それだけ普段から汚らしく閉じ切った場所にいるということに気付き、そしてまたそこへ帰るのだと思えば、今感じている変化など一時的なもので、どうせまた元に戻るのなら、この心に浮かんでくる想いや感情も押し並べて嘘っぱちなのではないかと思い始めるともう終わりで、景色を捉える瞳はただ映像を映すだけになり、耳は音を淡々と処理して、鼻腔を抜けるにおいで感情は微塵も喚起しない、しないけど、喘ぎながら朝日を運ぶ空模様は、死にぞこないのぼくのようで、どうせ暮れてしまうのなら、この出来そこないの命くれてやろう、とそれくらいは思う。

 ポケットに入れた壜がどうにも収まりが悪いので手に持って歩いた。前後する腕に少し遅れて壜の中身が揺れる。その重心の変動は、壜のなかでもがき苦しんでいるかのようで、そこに自己を投影してしまいそうになり、せめてこの中身だけでもとぼくは大きく腕を振って人通りの多い道に出た。

 駅へと向かう会社員の群れに紛れると、ごちゃごちゃと頭のなかを駈けめぐっていたものは雑踏に紛れ、輪郭のすれすれにいたぼくが徐々にぼくの中心へと戻っていく。

 ぼくはぼくのまま現場のファミレスに到着し、その外観をざっと見まわしてから店内に入る。見まごう事なき一名様のご来店です、と店中に言いふらすウェイトレスに連れられ、部屋の奥まったところにある座席に案内される。ぬるい水を投げ捨てるようにおき、そそくさと去っていこうとしたウェイトレスにアイスコーヒーと告げ、やって来るまでぬるい水を啜るようにして飲んだ。

 昼時ということもあり、店内の喧騒は最高潮を迎えようとしていた。がちゃがちゃと食器を鳴らしながらステーキを貪り喰っている若いサラリーマンがいるかたわらには、シーザーサラダを限界までほお張った壮年の女性、顔を突っ込むようにして丼ぶりを食らっている家族づれ、長い髪をかき分けながらフォークでスパゲティを巻いて食べている女性。人の食に対する欲望を見てしまうと、どうしてもそこから距離を取りたくなってしまう。そういえばぼくはなにを食べて生きてきたのだろう、なにかを食べていることは覚えているが、なにを食べているのかその記憶は抜け落ちている。

 ぼくはいつ本の虫が出てもいいように殺虫剤の壜を机上に置き、すぐそばの座席にいる男女の様子を何気なく見ていた。気難しそうな顔で手元の本に目を落とす会社員風の男性に対し、女性の方はというと、なにが楽しいのか終始にこやかで、ウェイトレスが運んできた品物にちくいち驚嘆の声を上げ、「いただきます」の言葉も忘れたかのように豪快に食べだすような、天真爛漫というかお転婆といった感じの人だった。その噛み合わない取り合わせが妙に面白く、ぼくはふたりを観察し続けた。

 女性は物を食べながらもお喋りを止めず、小さな口からいくつもの食べかすをこぼした。その姿は行儀が良いとはとても言えないが、彼女を下品と断じる気にはなれなかった。それは、くるくると変わる表情の豊かさや、耳をくすぐるような話し声、そしてその言葉が、この世にあるどんなものよりもうつくしく耳にとどいてくるからだろう。相変わらず男性の方は本へと視線を向けているが、偶に相槌をうっているので決して無視しているわけではないようだった。

 ふたりの関係性が気になるところであったが、それ以上にぼくは女性の言葉のうつくしさに心を奪われ、自らのつとめも忘れて彼女の言葉に耳を澄ませる。もし、このうつくしい言葉だけを食べて生きる虫がいるのなら、ぼくはそれになりたいと思いながら、依然としてくる気配のないアイスコーヒーを待ちかね、ぬるい水に口を付ける。そうして口の渇きを癒していると、やけに舌にしびれを感じ、不思議に思いながら手元を見た。ぼくの手は、殺虫剤の壜を持っていた。

 それを認めた途端、確かな骨格を持っていた視界がぐらりと砕け、ぼくのなかに蓄積されていた言葉が、どぅっどぅっ、とあふれ出し、ぼくの身体は見る見るうちにしぼんでいき、あっという間にくずのようになり、辺りに言葉が散り散った。

 言葉はその特性上近くにあるものと見境なく結合し、強固で複雑な構造を得るときもあれば、平易だがより人に響く構造になるときもある。ぼくの言葉たちがどうなったのか、消えてしまったぼくはもう分からない。そしてぼくが消えたことでぼくの言葉たちはもうぼくの言葉ではなくなり、誰の言葉でもなくなり、なにものの束縛も受けず、縦横無尽に辺りを駈けめぐる。

《一葉のはがきで苦しくまれた愛読で歯みがき粉塵》が床タイルの溝に沿って流れ、《無作法なこの美影 紺青の紺青の紺青への》は天井で回転するシーリングファンに衝突して《自堕落、破格、馬蹄磁石えがき出す放物戦線》のすぐそばを飛んでいき、ハンバーグセットの上に落ちる。それを遠巻きに見ていた《風花とは病葉、感傷的で鬱陶しい廃歌》は《直情訳・屈折的胃腸薬においての群像と冷凍キャパシティ》を誘ってクリームソーダのなかへとダイビング、《敗戦のマーチでキクラゲ髭ダンス》は《ホイップクリームアッパーカット》とパンケーキの上で踊り狂い、《電球儀 夏の風呂敷の下に吠え》は、部屋の隅に落ちていた《もろくても繊細な糸》くずを拾い上げ、それを《俊敏な虫のような夏空のひときわ》明るい位置に掲げ、《日陽の光子と絡めたスパゲティにして》うつくしい言葉を口にする《彼女のくちびるの》なかへと吸い込まれていった。

 居並ぶ歯列の静謐なエナメルに座り込み、自らのみにくいとこ指折り数えては唾液の泉に放り込む。それすべて分解されゆく様子、仔細に観察し、みにくさ失えば果たしてうつくしいのだろうかと、歯のくぼみに懐疑の根を下ろす。いくら考えようとも答えは決まっており、諦めて歯の隙間に挟まったうつくしい言葉を取り上げて、それをぼりぼりと貪る。そうして自らのうろ埋め合わせようとしても、決してうつくしく変じることなく、醜悪さを覆い隠そうとする嘘くささ浮き彫りになるだけで、うつくしい言葉を食めば食むほど余計に気が沈んでいく。

 鬱屈した瞳で見る世間はすべて薄汚れ、耳垂れで音は濁り、食べ物は不味いし会話は気まずい。ただ、彼女の言葉だけはいつでもうつくしかったから、それだけを見て、聴いてさえすれば、自らのみにくさを忘れることができたが、彼女がうつくしい言葉を発するために口を開くとき、楕円の間から覗える外界には高頻度で彼がいた。その彼に嫉妬して、キスの際に舌伝いにそちらの口へと移動する。たばこの臭いが染みついた歯の間には、粗野な言葉が挟まっており、恐る恐るそれを口に運び咀嚼すると、荒っぽい味のなかに芯の通った誠実さがにじみ出してきた。あまりにもそれが口に合わず、とっさに吐き出す。こんなところにいては気がオカシクなってしまうと、慌てて逃げ出そうとしたが、つと思い止まり、このままただで帰るのは負けたようで癪だったので、のどちんこをかすめて通ってくる彼の言葉に飛びついてそれを蝕んで、言葉の尾に必ずちんちんと付け加える呪いをかけてから彼女の口に戻った。

「きみの声が好きだよちんちん」

「え、わたしの声が好きなの、ちんちんが好きなの?」

「あれ、おかしいな。きみの声だよ声ちんちん」

「声ちんちん!」

 隣り合うまくらで交わされるその会話を、彼女は冗談だと思ったようだった。不本意な心持ちで次第に深まっていく彼女の吐息に吹き飛ばされないよう臼歯の根元にしがみ付いていると、ふと、同じ要領で彼女の言葉も蝕めば、思った通りのうつくしい言葉を彼女が話すようにできるのではないかと思った。

 しかしそんなことをしてしまえば、それは彼女の言葉では、彼女のうつくしい言葉でなくなってしまうのではないか。そう、どんなに強く理解していても、自らの欲望に負けて彼女の言葉を蝕んでしまうのだ。

 思い通り奇麗に並んだ言葉の一糸乱れぬその配列は、整備された並木道のように統率され、吐息によって揺れ動く言葉の葉陰に横たわれば、手を尽くされた琥珀のような木洩れ日が瞳で散乱し、そのまばゆさ、うつくしさに目を細めて聴こえる言葉に耳を澄まして、塞ぎ込んだ場所で感じるものだけを信じていれば、それで、それだけでいいと思い込んでいた。

 初めはささいな違和感だった。言葉の端々に微小な黒点のような過剰な抑揚が現れ、次第に肥大していくそれを注視すれば間違いなく虚飾の色を帯び、一度その色合いを見出してしまうと嫌でも気にかかり、やがて目ざわりに感じ、聴き取ることを拒んだ。彼女の口から飛び出た言葉は、どこにも行き着くことなく宙をひらひらと右往左往し、もう誰にも届かぬことを知ってふて腐れ、やがて誰にも看取られることなく、最後には、ふっ、ととけて彼女は言葉を失った。

 眠ってしまった彼女を白色のシーツの敷かれたベッドに運ぶ。横たわった輪郭に沿って隆起したシーツに奔るしわは、白雲に降りる一筋の稲光、その裂傷を舌先でなぞれば、口中にひろがる、あまい、あまい、にがみでぐらぐらする視線で、ベッド脇にある椅子に腰をかけた彼は、ほの明るいランプを頼りに本を読んでいた。

「あれから調子はどうですか?」

 無表情だった顔からさっと血の気が引き、彼は用心深そうに本から顔を上げて部屋中を見渡した。なかなかこちらに気付かないので、「こっちです」というと、彼はようやくその出所を察知し、ベッドに横たわった彼女の口へとおそるおそる耳を寄せたので、もう一度「あれから調子はどうですか?」と繰り返した。

「調子っていったいなんの、ですかちんちん?」

「本の虫のですよ」

 そう告げると、彼はやっとすべてに得心がいったかのように頷いた。

「ああ、そのことですか、それはもういいんですちんちん」

 真剣な顔色とふざけた言葉尻の不一致が不自然だったので、彼女の寝息に乗って彼の口に移り、呪いを解いてから彼女の口へと取って返して言った。

「本の虫のことは、もういいんですか?」

「はい、もういいんです本の虫なんて」

「なにか他の問題でも?」

「彼女が、喋らなくなってしまったんです」

 そう言って彼はベッドに横たわる彼女を見やり、手元の本に目を落とし、そこに書かれた文字を読み、そこにいるぼくを見る。

 糾弾的なその眼差しから逃れるため、自らの痕跡を隠すように紙面上の文字を食い荒らしながら移動する。文字から文字へ、行を飛ばし、ページをまたいで渡り、そこにある意味や行間に理解など差し向けず、ひたすら視線から逃れるように言葉に没頭、没入しているうちに言葉はただの記号となり、頭中を流れていくその線条から流離する自己に内蔵された非言語を継ぎ合わせ、言語に変換する過程で伸びすさるように茂る枝葉に照る白純に映える立体像、混じ合うことなく対峙すること、その深淵に臆することなく悩み続けることで、次第に染み入り自在に口にすることができるのなら、今は理解せずとも吐き出してその強度たしかめて、噛み締めて、満ちた苦渋で何度も後悔して、それでも吐き出し続けることで、ようやく自らの言葉として機能するそれで、言葉を交わそう、優しく手あついものよりも、少し冷たいが包みない方がいいだろう、共感なんてしなくていいし、まして賛同なんて、なんてこと言ってしまうから、ぼくの言葉はまた孤立するんだ、それでも互いに絡み合ってできる広大なものよりも、鋭く胸をつらぬく一言を、その一言で壊れてしまったきみの言葉を縫い合わせよう、仕上がる歪な継ぎ接ぎに、あのうつくしさはないかもしれない、もう誰も耳を傾けないし、もう誰もきみを理解しない、それはとても深く暗く、けれど、けれど、それでも人にとどけようとするその熱量は、ぼくを突き動かすよ、だから好きなだけ、好きなだけそのみにくい言葉を口にして、笑われて、笑われても、ぼくだけは絶対に笑わない、笑わずにそれを受け入れて、きみよりもみにくい言葉で返そう、行き来するみにくい言葉は、ふたりの間に堆積し、蝕まれて朽ちる、散ってなくなって、いなくなってしまうぼくは、ふたりの間に生れ落ちる言葉に、その言葉に生まれ変わりたいよ。




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