キネマ
「失礼…注文、よろしくて?」
気品溢れる女性にそう尋ねられ、私は思わず曲がっていた背筋を伸ばした。こんな裏通りの、寂れた映画館の下にあるカフェにはおよそ似つかわしくない、30代くらいの美しい女性だ。向こうの席で酔い潰れていたジャックとジョニーが、焦点の合わない目でこちらをジロジロと眺めている。
「ええ、もちろん。お飲み物は?」
「ありがとう…カプチーノをいただこうかしら」
静かに微笑むその表情に、私は思わず見とれ、そのまま吸い込まれそうになった。おそらく由緒正しい、どこかの良家のお嬢様だろう。私は溜め息を漏らした。これほどまでに美しいのに…何故だろう、彼女の瞳の奥に哀愁めいたものを感じる。視界の端で、ジョニーが椅子から転げ落ち、夕陽に照らされた埃がキラキラ舞った。
「……お客様は今日はお休みですか?」
私は咳払いを一つ、凛とした佇まいの貴婦人にそう尋ねた。
「…ええ。ちょっと人を待ってるのよ」
「待ち人ですか。こんな裏通りで珍しい」
「ちょっと目に入ったものだから…お邪魔だったかしら?」
「滅相もありません。ただ、10年以上店をやっておりますが、貴方のようにお美しい方は滅多においでになりませんから」
柔らかなジャズのメロディが、今日は何だかロマンチックに耳の奥をくすぐる。薄汚れた店内も、何故だかいつもより光って見えた。私は思い切って彼女に尋ねてみることにした。
「失礼ですが…その待ち人というのは、旦那様か、それとも恋人ですか?」
私の言葉に、彼女はそっと微笑んだ。
「…いいえ」
「そうですか…」
「私のね、一方的な…片想いなのよ」
「……」
「…聞いてくださる?」
「喜んで」
気がつくと、彼女の目尻には小さな光が浮かんでいた。それに気づかぬふりをしながら、私はにっこり微笑んだ。
「…初めて彼を見たのはね、窓の外からだった。子供の頃、私は体が弱くて、ずっと部屋のベッドで横になって過ごしていたの」
「ちょっと待ってください、じゃあその彼っていうのは…」
「ええ。もう20年以上前の話」
「!」
懐かしむように、彼女の目が細められた。
「彼は羊飼いでね…毎週金曜日の午前中、ちょうど窓から仕事中の彼の姿が見えるの。彼はもう大人で、年も離れていたのだけれど…。一目見た瞬間、私は雷にでも打たれたかのようにショックを受けたわ」
「…その彼と、貴方は仲良くなった?」
彼女はブンブンと首を振った。
「とんでもない!彼も私も、お互い名前すら知らなかった。たまに、窓越しに目が合う程度で…。私も寝たきりだったし、話しかける勇気なんてとても…彼にはいつも仲間がついていたし、ね」
「それでは、何故貴方はここに?」
「一度ね…一度だけ。彼が窓に目一杯顔を近づけて、私に直接話しかけてくれたことがあったの」
彼女はまるで子供のように目をキラキラさせながら語ってくれた。
「『最後にここで逢おう』って」
「彼の方から?」
「でも、それはお別れの挨拶でもあった。『今までずっと見てくれてありがとう。でも、もう逢えないから』って。『ここに来るのは今日で最後だから』って」
「彼は気づいていたんですね、貴方がずっと見ていたことを」
「『だから、最後にここで逢おう』って、彼がそう言ってくれたの」
「それが、ここだった…」
彼女がふと窓の外を見た。夕陽は沈み、街灯の消えかかった暗い空には、星が無数に光り輝いている。いつの間にかジャックとジョニーが、お代も払わず店の前の路端で寝っ転がっていた。窓枠の中の小さな宇宙を眺めながら、私はじっと彼女の次の言葉を待った。
「それから…」
「…それから、貴方はこの辺りで、ずっと彼が来るのを待っているんですか?もう20年以上も?」「……ええ」
ようやく、私は彼女の哀愁の訳を理解した。
「彼は…」
「きっと来てくれるわ。彼の言葉…今でも思い出せる」
気がつくと、私の目をじっと見上げながら、彼女がそう囁いていた。
「窓が黒くなる前にそっと…『映画館で待ってるぜ』って」