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職場近くの和菓子屋で買った水ようかんと、タッパーを『ひとつ』持って、私は戸坂さんの家を訪れた。
パーカー男の埋めていたタッパーがどうなったのかは知らない。……本当は私が持ち帰って、戸坂さんの目には触れないようにすべきだったのかもしれない。けれど仮に、パーカー男が戸坂さんのお裾分けを嫌がって『ああいうこと』をしたのなら、戸坂さんもそれを知った方がお互いのためになるのではないか――。
タッパーは花壇に埋め直したけれど、遅かれ早かれ戸坂さんに発見されるだろう。花壇の花を世話しているのは、戸坂さんなのだから。
「わたし、水ようかん大好きなの! ありがとうねえ、気を使わせちゃったかしら」
ぽん、と両手をあわせて笑う戸坂さん。
――いつも料理をあげているから。タッパーの一件があったから。
『気を使わせちゃった』はどちらの意味だろう。
「甘酢、酸っぱくなかった? 私はあのくらいが好きなんだけど」
「……いえ、ちょうどよかったです」
せっかく頂いた肉団子の甘酢あんかけを、悩みに悩んで捨ててしまったとは言えない。作ってくれた戸坂さんと、あの料理に使われたたくさんの命に謝って、私はタッパーの中身をゴミ袋に放り込んだのだ。
あの料理に『何か』が使用されているのを、恐れて。
「それにしても最近、本当に暑いわねえ。ものが痛みやすいし、ちょっと動いただけでしんどくなっちゃうし、嫌になるわあ」
「そうですね」
「あ、そういえば寒天を作ったのよ。夏と言えば冷たい食べ物! よかったら持って帰らない?」
「えっ……いえ、お気遣いなく」
「遠慮しないで。ここでちょっと待っててね」
戸坂さんは私を玄関に引き入れ、自分はコンロ横の冷蔵庫まで行ってしまった。芳香剤ではなく、線香のかおりがする部屋。玄関先の壁には、古そうな写真が三枚貼り付けられている。押しピンは見当たらないので、両面テープで固定しているらしい。
一番左に貼られた写真には、中年男性と、若かりし頃の戸坂さんが写っている。今よりも少し痩せていて、黒髪の女性。中年男性は恐らく旦那さんだろう。コスモス畑の前に並び、こちらに向かって微笑んでいる。
二枚目は、肥満体の男性だった。ハウスクリーニングの会社の前で、どことなく緊張した笑顔を向けている。真新しいスーツ――入社したての写真だろうか。線のように細めている目や、歯を見せる笑い方が戸坂さんに似ていると思った。
そして、三枚目。
「ごめんなさいねえ、アキラちゃん」
台所からひょこりと顔を出した戸坂さんに、私は飛び上がらんばかりに驚いた。戸坂さんは、まゆ毛をハの字にしている。
「寒天、痛んじゃってるわ。ほんと、すぐ駄目になっちゃうんだから」
「……そんなに痛みやすいんですか」
「下手すると、一日で食べられなくなっちゃうの。勿体ないわあ」
――実家が作っていた寒天は、最低でも二日はもっていたはずだ。そんなに早く、食べられなくなるようなものだったろうか。
眉をひそめる私に、戸坂さんは「かわりにこれ」と瓶を差し出した。
「……味の麓」
「近くのスーパーが安売りしててね、買いこんじゃったの」
線のように目を細める戸坂さん。
……味の麓。
そういえば、あの日、焼肉屋で――。
瓶の中でさらりと揺れる白い粉に、私は恐怖した。
「あ、あの……私、料理しませんからこれを頂いても」
「あらそうなの? じゃあなおさら必要よ。それを入れたらね、どんな料理もおいしくなるの。味に深みが出て。初心者でも使いやすいから、一度試してみてちょうだいね」
戸坂さんは脅迫的な笑顔で、私にそれを押し付けた。自分から招き入れておいて、早く出て行ってほしそうな雰囲気だ。
玄関から押し出されながらも、私は再度、三枚目の写真を見る。
三枚目。ハイツ前で撮られた写真。
黄色い服の赤ちゃんと、赤ちゃんを抱く誰か。
赤ちゃんを抱きかかえているその誰かは、乱暴にちぎりとられていた。
ローテーブルに置いた味の麓を、私は長い間見つめていた。
――中に入っている粉は、本当に調味料だろうか。
警察へ行って確認してしまいたいが、そんなことをしてこれが本当に調味料だったなら、今度は私の精神状態が怪しまれてしまう。そもそも、証拠もないのに警察が動いてくれるだろうか。封を切ってにおいを嗅いでみるものの、普段料理をしないせいで、本物の味の麓かどうかも分からなかった。
けれど。……仮にこのハイツ内でクスリが乱用されていたとしても、仲間でもない私に、こんな大量のクスリを渡すだろうか。麻薬の単価なんて知らないけれど、ドラマで観る限り、少量でも数万円はしている。それが瓶いっぱいとなると、第三者には渡せないほどの額だろう。
やっぱり、瓶の中身はただの調味料だと言いたい。けれど、もしも。
もしも戸坂さんがくれる料理にクスリが入っていたら、私の体内からもクスリの成分が検出される……?
――行方不明の母子。夜逃げした工場長。挙動不審な一〇二号室。
その全員が、『あの料理』の被害者なら。
――ごんっ。
二〇二号室と繋がっている壁が鳴り、私は小さく悲鳴をあげた。警察が来たような錯覚にとらわれる。けれど、そうではなかった。
――ごつっ、ががが。
急に自己主張を始めた壁から距離をとるように、私は後じさった。いつもより大きく、頻回に鳴る壁。けれどもそれは、数秒後に活動をやめた。とたんに静まり返る部屋。……それだけならまだよかった。けれど。
――がちゃん。
扉の開く音が、した。
私は味の麓を意味もなくローテーブルの下に隠し、足音を潜めて玄関へと向かった。前にも似たようなことがあったなと思う。考えてみれば私はいまだに、二〇二号室の住人はおろか、そこに何人住んでいるのかも把握していない。
音を立てないようゆっくりと扉を開き、外の様子を見る。二〇二号室の前にはもう誰もいない。かわりに、廊下を歩く足音が聞こえる。それは無論、二〇二号室から出てきた人間のものだ。
そしてその人間は、一〇一号室の同道さんだった。
前にも似たようなことがあったと、数秒前と同じ思考が頭を巡った。二〇二号室から物音がして、外を覗いた時、そこには津賀さんがいた。それが今度は同道さんだ。
ゆっくりと扉を閉め、玄関にしゃがみこむ。
――いまだに見たことがない、隣の部屋の住人。誰も教えてくれない事情。その部屋を行き来する、他の部屋の住人。
……そうだ。どうして今まで忘れていたんだろう。
二〇二号室の前で津賀さんの姿を見た時、『鍵穴に鍵をさす音』が聞こえた。
あの音は、『室内から施錠する音』じゃない。『室外から施錠する音』だ。
つまりあの時、二〇二号室に鍵をかけていたのは、津賀さんだということになる。
――……もしも。
もしも、私以外の住人全員が、二〇二号室の合鍵を所有していたら?
その理由は分からない。メリットも。けれど、そうじゃないかと考えた頭は思考を変えてはくれなかった。
もしも、他の住人が何らかの理由で二〇二号室を利用しているのなら。
頼ってもいいものかどうしようかと悩んでいたらちょうど、先輩からラインが来た。
『シフト変更してほしいんだけど、来週の水曜って入れる? まる一日、食器洗い係になるけど許して』
私は縋るように、すぐさま返信した。
『いいですよ。その代わり今度、少し時間をもらえますか。相談したいことがあります』
先輩からの返信も早かった。『なに? どした?』
『裏野ハイツについて、お話したいです』
数秒後、電話がきた。先輩だった。
『もしかして、なんかヤバいのか? そこ』
「……分かりません」
ようやく普通の人と繋がれた気がして、安堵から泣いてしまいそうだった。それでも、隣室に聞こえないよう配慮した声量で話す。
「はっきりとは分からないんですけど、気になることがあって。……あの、ここだと音が漏れて話しにくいんで、できれば違う場所がいいです」
『あー……そうだよな、分かった。ハイツの近くだと他の住人に会うかもしんないし、職場付近で落ち合うか。国道沿いにマツクあるじゃん、あそこに一時間後。いけるか?』
「私より先輩は」
『いけるから提案してんだよ』
「すみません、急に」
通話を終了し、家を出る準備をする。今は、このハイツから少しでも早く距離を置きたい気分だった。
玄関で適当な靴を履き、勢いよく扉を開けると
「わっ」
そこにいた人間が声をあげた。
戸坂さんだった。
「急いでるわねえ、おでかけ?」
「す、すみません。扉、当たりませんでした?」
「大丈夫よ、ギリギリだったけど」
戸坂さんはそう言って、タッパーとその中身をこちらによこした。
「手作り餃子。あとは焼くだけだから、料理しない子でも簡単だと思うの。アキラちゃん、フライパンは持ってるわよね?」
「あ、りがとうございます……」
おかしな反応をする私に、戸坂さんは目を細めた。
「どうしたの? なんだか不安そうねえ。簡単よ、焼くだけだから」
「え、ええ……」
「それに」
戸坂さんはそこで言葉を切り、私の目を見て静かに言った。
「毒なんて入ってないわ。――……毒はね」
私は二の句が継げず、半透明のタッパーに目をやる。
パッキンはピンク色ではなく、昨夜手にした水色だった。