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ドアチャイムが鳴ったのは、バイトの準備をしている時だった。
「今年は本当に暑いわねえ。テレビを観てたらお肉が疲労回復にいいって言ってたから、これ」
戸坂さんはそう言って、肉団子の入ったタッパーを差し出してきた。見た目からして甘酢あんかけだろう。疲労回復には豚肉とお酢、とテレビでやっていたのを思い出した。どうも、同じ番組を見ていたらしい。
「これからバイトだった? よかったら、お夜食に食べてね」
「ありがとうございます。あ、この前のラタトゥイユもとてもおいしかったです」
「あれは材料がよかったからよお」
うちの実家から送られてきた夏野菜を見事な料理に昇華させた戸坂さんは、「あはは」とも「おほほ」ともとれる笑い方をした。それから私の顔を覗き込むようにして、
「なんだかまた痩せてない? やつれてるような気がするんだけど」
「……そんなことないですよ。でも最近、寝つきが悪くて。『ちょっとした物音』にも反応しちゃうんですよね」
聞こえたり聞こえなかったりする物音のことを暗に指摘すると、戸坂さんは首を傾げた。
「あらやだ。ここ、駅から近い割に少し奥まった場所にあるから、『静か』なのがウリだったのにねえ。……でも確かに最近、夜中にバイクの音が聞こえるかも。不良っていやだわあ」
ほんとですね、と笑いながらも不安と不満が渦巻く。
深夜の物音といえば、真っ先に想像されるのは二〇二号室のはずなのに。
それが、まるで聞こえていないような口ぶりだ。二〇二号室と私の部屋の間にある壁が叩かれているようだから、二〇一号室の戸坂さんには聞こえていないのだろうか。それとも、黙認しているのか。
――まさか本当に、あの音は私にしか聞こえていない?
二〇二号室の真下、一〇二号室の住人に意見を聞きたいところだ。しかし、あのパーカー男と話せる自信がない。私は途方に暮れた。
戸坂さんと別れ、タッパーを冷蔵庫に入れて家を出る。リズムよく階段を駆け下り、けれども階段を降りたところで足を止めてしまった。
「――埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ」
パーカーの男が、いた。
午前中にもかかわらず、男は外に出てきていた。花壇の前で四つん這いになり、素手で懸命に穴を掘っている。男の横には、引き抜かれたのだろうマリーゴールドがあった。
何をしているのだろう、と思いながらも近づけない自分がいた。骨と皮のみで構成された男の身体には生気がなく、それなのにどこか殺気立っていた。
男に見つからないよう、パーカーの死角になっている場所を音もなく歩く。男は、ぶつぶつと呟きながらも穴を掘り続けている。埋めなきゃ、埋めなきゃ。
「絶対に見つからないようにしないと」
消え入りそうな声なのに、それだけははっきりと聞こえた。
「――お前、実は変なクスリやってるとか言わねえよな?」
休憩中、椅子の上でだらりとする私に先輩が声をかけてきた。不安そうというより、どこか疑っているような声。
「まさか。そんなお金あったら生活費にあてますって」
「……だよな。いや、最近ますますやつれたなと思って」
「それ今日、違う人にも言われました」
安心させるように、へらへらと笑ってみせる。だというのに先輩は笑い返してくれない。ひどく似合わない深刻な顔つきに、私は眉根を寄せた。
「……なんでクスリだと思ったんですか。家の事情を知ってるなら普通、物音の心配をしません?」
私の質問に、先輩はがしがしと頭を掻いた。
「そうだけど……あんま変な話ばっか聞きたくないだろ」
「今更ですね。いいですよ、どんな話ですか」
「……じゃあ言うけど。お前んとこの住人で、クスリやってそうなヤバい奴がいるって話をしただろ」
数時間前に見た穴を掘る男を思い出しながら、私は頷いた。
「どうもそれ、他にもいたらしい」
「『それ』って、クスリをやってそうな人ってことですか」
「ああ。複数人でクスリを売買してたんじゃないかって」
二〇二号室が頭をよぎる。
「……それが誰かは分かってるんですか?」
「夜逃げした工場長」
「え?」
てっきり、今現在あのハイツに住んでいる人間の話かと思ったのに。気分が悪いとは思いつつも、どこかほっとしている自分がいた。
「その工場長も、私みたいにやつれてたとか?」
「ああ。あと、おかしなことを周囲に言いまくってたらしい」
「おかしなこと?」
「……聞かない方がいいかも」
「言ってください」
「――このハイツには、人殺しがいる」
しばらく二人で押し黙った。
ヒトゴロシ。
仮にそれが本当なら被害者は十中八九、工場長よりも前に失踪した親子のことだろう。
「いやでもその工場長さ、借金でかなり参ってたって」
気を取り直すように先輩は言った。
「金がないから病院にも行ってなかったらしいし。ほら、人間、しんどい時って物事をなんでもかんでも悪くとらえるじゃん。変な妄想したり。そういうのじゃねえかな」
「そう……だといいですね」
「ん。ごめんな、気分の悪い話ばっかして」
「いえ。先輩、色々調べてくれてますよね、あのハイツのこと」
私の言葉に、先輩は視線をあちこちにさまよわせた。
「いやー。俺、都市伝説とかそういうの好きだからさ」
「そうでしたね」
「都市伝説で思い出したけど。最近、小学生の間で流行ってる怪談があるんだよ」
ごめんなと言ってきた割に、先輩は喜々としてオカルト話を始めた。私は話半分に聞きながらも、正体不明の物音や、パーカーの男について考える。
あのハイツを覆っている薄暗い雰囲気が、都市伝説のように『気味の悪い嘘』ならいい。
数時間後、午前零時。ハイツ付近には誰もいなかった。痴漢も、しゅうくんも、パーカー男も見当たらない。仕事で疲れていた私はほっとしながらも、足音を立てないよう慎重に花壇へと足を運んだ。
――埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ。
パーカーの男は、何をしていたのだろう。
近づいてみると、一株のマリーゴールドが奇妙な具合に傾いているのが分かった。外灯の下でひとつ、他の花とは違う影を作っている。昼間、男の隣にあった花を思い出した。傾いているこの花が、引き抜かれていたマリーゴールドで間違いないだろう。
だとすればその近くに、何かを、埋めたはずだ。
掘り返してみるか、やめておくべきか。そんな悩みはあっという間に解消された。マリーゴールドの隣に『それ』があったのだ。厳密には、きちんと埋められていないせいで端が見えてしまっているものが。
「……これ」
見覚えのあるプラスチックに、思わず触れる。やっぱりそうだ、と思った時には必死に掘り返していた。そんなことをする必要はないのに。
軽く土をかぶせてあっただけのそれは、あっさりと姿を現した。四角いプラスチックを、私は両手で持ち上げる。
――それは見まごうことなく、戸坂さんのタッパーだった。
茶色いタレのようなものが容器の中にへばりついていて、甘酢あんだとすぐに思い当たった。私が冷蔵庫に保管してあったものかと考え悲鳴をあげそうになったが、タッパーを観察して思い直す。私がもらったタッパーは、ピンク色のパッキンがついていた。このタッパーのパッキンは水色。すなわち別物だ。
戸坂さんは一〇二号室の男にも料理を渡していたのだと、そこでようやく気付いた。私にもくれるのだから、他の人間にお裾分けしていてもおかしくはない。ただ、いつも『全員』に配るだろうか。一〇一号室の同道さんは二人暮らしだし、一〇三号室の津賀さんは三人家族。毎回、全員となると結構な量だ。
それとも、一人暮らしの住人にだけ配っているのだろうか。私と、一〇二号室。――もしも二〇二号室が一人暮らしなら、そこにも。
あるいは。
戸坂さんとパーカー男の間に、何かある……?
普通に考えるなら、人様のタッパーを花壇に埋めたりなんかしない。洗って返すだろう。なのにわざわざ埋めたということは、たとえばそれは『お裾分けが迷惑』という意思表示だったり、他の意味があるはずだ。
そうしたかったのか、そうしてやりたかったのか、そうすべきだと思ったのか。
そうせざるをえなかったのか、それしかできなかったのか。
――クスリやってそうなヤバい奴がいるって。
先輩の言葉が脳裏をかすめる。
私と同じく、戸坂さんから料理を貰っているらしい一〇二号室の不審な挙動。
戸坂さんの料理がどれもおいしく、『調味料も当てられそうにない』こと。
「……まさか」
そんなことあるはずないって。
そう言い聞かせる脳とは裏腹に、心は違う言葉を繋げた。――まさか。
私はその憶測から逃れるように、タッパーを土の中に戻し、急ぎ足でその場を離れた。